二
十月に入ってからの菫青殿は慌ただしかった。それというのも、月末に東宮御所である東春殿、通称春殿への引越しの準備があるからだ。
とは言え、鈴に出来ることはあまりない。着物や装飾品などの管理は全て小鞠がしていたし、向こうの調度品を整えたり、女官の人選などは刻葉が仕切っていたので、鈴としては身ひとつで引っ越すのみである。
それに聞けば春殿に引っ越しても、後宮へ一切渡れない、というわけでもないらしい。後宮の主、真陽瑠の許可さえ降りれば葵依たちの宮を訪ねることは許されている。そのことに少しだけほっと胸を撫で下ろした。
「良かったですねぇ、姫様」
「小鞠も嬉しいでしょ、松葉と同じ職場だものね」
「そりゃあ、もう!」
鈴が茅羽夜から春殿へ来ないかと誘われたと告げた時、小鞠は飛び上がらんばかりに喜んだ。勿論、松葉が居るというのもあるが、彼女は何より、東宮妃として此処にいる価値を探す鈴の気持ちを知っていたからだ。
「初菫の方、お客様がお見えです」
「お客様?」
小鞠とお喋りしているのを咎めるようにやってきた刻葉に誰か問うと、いつも要点をはきはきと喋るこの教育係にしては珍しく、やや困惑気味な顔をした。
「八国が長、八雲様が東宮妃に御目通り願いたいと申しております」
「八国の国長様が……?」
隣国の長である方が一体、何の用だろう。そう思いつつも支度を整え、鈴が向かうとそこに居たのはとても美しい女性だった。
白と淡い緑を基調とした上衣の上に千早を羽織り、緋袴といった巫女装束のような出立ち。目元や口元の皺からして歳は恐らく五十、六十あたりといった所だろが、その肌には染みひとつとして見当たらず、橄欖石の瞳は強く瞬いている。
そして何より、国長という立場にいる者が、女性であることに驚いた。
鈴の義母、真玲も国長として九国に残っているが、それはあくまで中務卿として参勤している空鷹の名代として取り纏めているだけだ。実権は勿論、空鷹にある。しかし、彼女は名実共に八国の長であった。
(この女性が一国の長だなんて……すごいわ)
同じ女性として尊敬を感じていると、鈴に気付いた佐草はつい、と上座に腰を下ろした少女を見た。
「お初にお目に掛かります。八国が長、八雲佐草と申します」
訛りのある口調で、佐草は優美に礼を取った。柔らかい声音も凛とした張りがあり、本当に一体幾つなのだろうと思う。
「初菫と申します。お会い出来て光栄で御座います。八国からお越しになったとのこと、長旅でお疲れでしょう。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」
「まあ、おおきに。ありがとう」
「それで、此度はどういったご用件でしょうか」
佐草は出された茶をゆったりとした仕草で口に含み、微笑む。
「菫の君に、少々訊ねたい事がありまして」
「わたくしにですか?」
「ええ、そうです。菫の君は東宮妃とはどのような者であるとお考えでいらはりますか」
問い掛けに、鈴は早々に躓いた。東宮妃とは、と問われれば「東宮の妃でしょう」としか言えない。けれど、佐草が求めている答えではないだろう。
困っていると、佐草はふっと笑って。
「ああ、そないに身構えんでもええよ。変なこと聞いて堪忍え。ほんに年を取ると遠回し過ぎていけんね」
「いいえそんな。わたくしこそすぐにお答え出来ず、勉強不足でお恥ずかしい限りです」
「せやねぇ、でも菫の君はまだ若いんやし、これから学んでいけばええ。それでな、私が此処へ来たんは課題の為なんよ」
「課題、ですか」
「そう。東宮妃としてのな」
どきりと胸の奥が鳴った。東宮妃としてこなさなければならない公務などはある程度聞いていたが、課題があるとは知らなかった。難しいものだったら、どうしよう。そう戦々恐々としている鈴に佐草が差し出したのは、小さな箱だった。鈴の両手に収まる程の大きさで、艶やかな漆塗りに、花々の蒔絵が描かれている。美しい箱だ。
「課題は至って簡単。この箱を持ち主へ渡すこと」
「持ち主へ渡す、ですか……?」
「そうや」
「……幾つか質問をしても、よろしいですか?」
どうぞ、と佐草は頷く。
「この課題の期間は?」
「せやなあ、ほんなら月末までにしよか。私は神在祭まで宮に滞在しとるし、何かあれば遣いを出してくれたらええよ」
「わかりました。それと、この課題は一体どなたが?」
「課題内容を考えたんは私やけど、これは国長の総意や。九条の娘に、斎妃たる資格があるかを見極める為に」
(さいひ?)
聴き慣れない言葉に内心首を傾げるも、なんとなく斎妃が何であるか問い掛けても答えてくれない気がした。それに国長の総意というのは、つまりこの国の最高議会での決定である。
(つまりこれは東宮妃として此処にいる為に通らねばならない試験といったものかしら)
通らなかった場合どうなるのか、そんな恐ろしい不安が過ぎる。鈴は大きく息を吸って、そして手に乗っている箱を見つめた。
「……渡せ、ということは相手は生きておられるのですね?」
その言葉に佐草は満足そうに微笑んだ。その笑みから、鈴が只人でない────巫術師として育てられてきていることを、承知している事がわかる。
「生きてはります」
「そしてわたくしがこの手で、届けられる範囲におられるということですよね?」
「せやね」
「わかりました」
「もう質問はええの?」
「恐らくこれ以上はお答え頂けないかと思いますので」
「あら、似てへんなあ思うたけど、やっぱり九条の坊の養女はんやなあ」
(お義父様を坊扱い……)
年齢を考えたら然程驚く事でもないのだが、鈴にとって空鷹は尊敬すべき義父であり、その彼が子供扱いされているのは何だかむず痒いものがあった。しかし、鈴は空鷹と血の繋がりはないし、一緒に暮らしていたわけでもないので、あまり似てないと思うのだが一体どの辺が似ているというのだろう。
佐草はそう言うと、用件は終わったとばかりに立ち上がった。起立する所作まで、彼女は美しかった。
「ほんなら今日はこの辺でお暇しますわ」
「はい、御足労頂き、有難う御座いました」
「菫の君」
退出する際に佐草はふと振り返って、鈴を見た。橄欖石の双眸は日に透かした葉のようで、綺麗だと思うのに、どこか怖いと思った。
彼女は何かを言いかけ、しかし何も言わずに「ほな、また」と言って菫青殿を出て行った。彼女の後ろ姿が見えなくなるとどっと疲れが出て、その場に伏せる。
「はあ〜……」
「お疲れ様で御座いました、姫様」
「うん……まさかここにきて課題が出されるなんて思ってもみなかったわ……落ちたらどうしよう」
「そんな弱気でどうします」
ぴしゃりとした声に、鈴は思わず背筋を伸ばした。佐草を送っていたはずの刻葉がそこで目を吊り上げて立っていたのだ。もう送り届けて帰ってきたのか。
しかしそれよりも驚いたのは、刻葉が鈴を励ますような言葉を投げかけた事だ。常に鈴に対しては嫁をいびる姑のようにちくちく言っていた彼女から「弱気になるな」なんて激励にも似た言葉が聞ける日が来るなんて、明日は嵐か。小鞠も「もしや刻葉様の偽物なのでは」という顔で彼女を見ている。
「言いたい事があるようですね」
「いえ、何も」
「左様ですか。しかし初菫様、これは九条家の今後にも関わる課題です。その事を肝に銘じ、心してかかって頂かねばなりません」
「勿論、手を抜く事などしませんけど」
「それならば良いのです」
満足そうな刻葉は頭の隅に置いておいて、鈴は手元の箱を掲げて見せる。振ってみると中から軽い音が聞こえた。
(中に何か入ってる……?)
しかし箱の蓋はきっちり閉められており、鈴が引っ張ってもびくともしなかった。ぐるりと見たところ、鍵穴があるわけでもない。何か仕掛けでもあるのだろうか。
「うーん……?」
「とりあえずですけれど、明日六宮様に見て頂くのはどうでしょう。そういったものにお詳しそうですし」
「そうね、そうしましょう」
小鞠の言葉に、くるくると見回していた箱を置く。そして何だか、厄介なことになったなあと溜息を吐いた。




