五
銀朱の執筆は順調だった。元々速筆だった彼女は予定よりも二日早く、仕上げの作業に入っていた。原稿はもう既に書き終え、あとは新見が確認して、木版印刷業者に渡すだけとなっている。書き上げるまでは銀朱の顔が死んでいたが、ここから先は新見の仕事だ。いや、彼女には六宮の女御付き侍女という職があるはずなのだが、深く考えてはならない。
「今回のは推敲までは難産でしたが書き始めるとするとると書けましたわ!」
得意げに言っているが、鈴は計二十四回集中力の終了のお知らせを聞いている。終わり良ければ、と言うので何も言わないが。
解放された銀朱は久しぶりにその夕焼け色の髪を菊の花簪で華やかに結い上げ、金糸銀糸に彩られた唐衣を纏って菫青殿を訪れていた。昨晩たっぷりと寝たのか、肌の艶もここ最近見た中では一番良い。
鈴は印刷業について全くといって詳しくないが、このたった一冊分の紙の束が市井へ流通するまでに、驚く程時間がかかる。紙の原料となる楮や雁皮、三椏を多く栽培し、宮中の紙の生産の九割を担う紙大国、五国の目覚ましい進歩により東和で紙に困る事はあまりないが、印刷に使われるような上質な紙は本はまだまだ高級品だ。銀朱曰く、荒い紙だと印刷墨のノリが悪いらしい。
故に市井の娘さんたちの手に渡るのは大抵、業者の出した数冊が誰からの手によって写されて出回る写本だったり、古本だったり、貸し本だったりする。今回銀朱が書き上げた小説を読めるのは恐らく数月後になるだろう。
てっきり宮市に本が並ぶものと思っていた鈴がそういうと、銀朱は呆れ顔で紙の製造業やら流通についてを語ってくれたが、鈴の頭では「銀朱の本が読めるのは数月後」ということしか理解出来なかった。
「ところで、初菫の方、手首をどうなさったの?」
紙製業の話から何故か六国の特産品の話になっていたのを聞き流していたら、ふと銀朱が鈴の手首に目を止めて丸めた。鈴の右手首には白い包帯が巻かれていた。
「ええっと、ちょっと燭台で火傷をしてしまって……」
「まあ!本当に、なんてそそっかしいのですか貴女は。医官の方にもきちんと診て頂きました?」
「ええ、はい、それはもう」
「ならよいのですけれど。痛みます?」
「少し。なので今、あまり多くの事が出来なくて。何しろ利き手だったもので」
「確かに、利き手は困りますね。筆の持ちすぎで手首を痛めたことがありますけれど、あの時は辛かったですわ」
あれだけの枚数の字を書いていたら痛めることもあるだろう。新見が今頃確認している紙束の厚さと来たら、しっかり縛れば人を殴り殺せそうだった。
「心配して下さり有難う御座います」
「そっ!別にそういう、心配したわけじゃありませんけれど!」
そう言ってつんと扇で顔を隠してしまう。何故そこで照れるのか。今更鈴に取り繕っても仕方ないだろうに。
執筆中はめそめそとしたり逆に突然笑い出したり、歌い出したりと何かと不安定だった銀朱だが、執筆が終わると元の高飛車な姫君に戻っていた。髪を結い上げると性格でも変わるんじゃないか、と鈴は思っているが、案外あの情緒不安定さを見せてしまったことが恥ずかしいのかもしれない。
鈴は手首の包帯を見て、重く息を吐いた。
昼過ぎ、菫青殿を訪れた縁寿によると茅羽夜は昨夜からまだ目を覚ましていないらしい。疲れて眠っているだけだから、そう心配する事はないと言っていたが、それでも気が気じゃなかった。
正直言って、今銀朱の相手をしている気持ちの余裕はないのだが、ただぼんやりしているのも気が滅入る。こういう時は誰か延々と喋ってくれる人間が近くにいてくれた方が気が紛れてよかった。
「……初菫の方?」
「えっ?あ、はい、何か」
「もう!ですから殿下とは最近どうなのかとお聞きしているのです!」
「あー……」
ぼんやりと考えている内に、話題が変わっていたらしい。しかも今、一番気不味い名前だった。
「別に、最近はこれといってなにも」
「ですが昨夜も御渡りがあったとお聞きしましたけれど。そういえば三日前もでしたか?」
「後宮の情報網って本当にどうなっているんですか……?」
ここまで他人の御渡り事情に疎いのは鈴だけなのだろうか。鈴は陛下が一体どれ程妃たちの元へ通っているかなんて全く知らないし、敢えて自分から知りに行こうとも思わないのだが他の妃たちは違うのか。
同じ帝に侍る妃同士ならまだ分からないでもないが、鈴は東宮妃だ。気にした所で何も益はないと思うのだが。
「いえ、話の種になるかなと。それで、何かありまして?」
「本当に何もないですよ……」
いや、あるにはあった。鈴にとっては大事件があったが、これは人を選ぶ話だ。鈴の好き嫌いの感情で話して良い相手を選べる程、容易い話ではない。
(……龍の血って、何だろう)
ふと、そう思った。
昨夜の茅羽夜は、どう見ても正気を失っていた。一体何が引き金になっているのかはわからないけれど、呪詛のようなものがかけられているわけではなさそうだった。考えられるのは、彼の中にある龍の血だが、そもそも龍の血筋とは一体何だろう。
「銀朱様は、この国の創世神話にもお詳しいですか?」
「神話ですか?ええ、一時期、物語の参考になるかもと調べたことがありますが」
「皇の祖である神龍とは、一体どのようなものですか?」
「神祖様ですか?」
突然の鈴の言葉に、銀朱はやや訝しげに扇を下げて目を細めたが、しかし教えを乞われたことに気分を良くしたのか、一つ咳払いをして語り始めた。
「皇の祖先と言われている神祖様は、白銀の躰に黄金の瞳を持つそれはそれは美しい龍神であったと言われておりますね。人々へ火の加護と水の恵みを与えて下さり、双玉から男神と女神を生み、躰には樹々が根付いて泉が湧き、遍く全ての祖となられた御方です」
「その男神と女神の生んだ十三の子が国長と皇家になった、ですよね」
「その通りですわ」
「なら、皇家と同じ血が、銀朱様にも流れていらっしゃる?」
男神と女神の子が国長と皇家ならば、大元を辿れば国長の血筋も龍の血が入っている。いや、もっといえば東和葦原国全ての民に、龍の血は混じっているのではないか。
だが、鈴はあのように夢に苛まれたことはない。
「確かに、大元を辿ればそうなりますけれど……ですが、皇家が皇家たる所以は、何も血筋だけでは御座いませんわ。双玉がありますもの」
「双玉?本当に実在するんですか?」
あれは親が子供に寝物語として聞かせるような、ただの神話というわけではないのか。驚いたような鈴に、銀朱は呆れた顔をした。
「当然でしょう。初菫様はそこの刻葉女史から一体何を学んでいらっしゃるの?」
「……」
ぐうの音も出ない。言われてみればここへ来て東和葦原国の歴史についてもやった気がするのだが、もうすでにきれいさっぱり忘れていた。
後ろに控えている刻葉の方を見なくても今彼女がどのような顔をしているのか鈴にはわかる。出来るなら一生振り向きたくない。
「双玉は陽神と月神の二柱にそれぞれ渡されて、ひとつは皇家の始祖となった末子に、ひとつは月黄泉様がお持ちのまま幽世に祀られていますの。実際見たことは御座いませんけれど、陽神の双玉はきちんと宮に保管されていますのよ。そもそも、斎宮というのはその双玉を祀る為に作られたのですから」
「今代ですと、真陽瑠の御方が祀っていらっしゃるということですのね」
「そういうことですわ。まさか初菫様が知らなかったということに、驚きを隠せませんけれど」
一般教養ですわよと扇をあおぐ銀朱の目は冷ややかだ。後ろからのちくちくとした視線も合わせてまるで針の筵だった。国の歴史なんて知った所で作物ができるわけでもあるまいし、などと言っていた過去の自分を猛省する。
「双玉は神龍の力のそのものとも言うべき宝玉です、皇家以外の人間が触れればたちどころにその身を焦がし尽くすと言われています。以前、千年以上も前ですけれど、確か玉座を簒奪しようとした国長もいたらしいですけれど、やはりすぐに身を滅ぼしたそうです。皇が創世以来、ずっと絶やさず玉座に坐しているのはその為ですわ。例え同じ二柱の子であっても、国長と皇を一画するのはその一点です」
双玉を御せるか否か。
国長の血筋では、陽神のお眼鏡に叶わなかったということだ。
(でも茅羽夜は龍の血が他の兄弟より濃いから先帝は離宮に閉じ込めたと言っていた……)
あの時は何となく聞き流してた言葉が、今になって妙に引っかかる。
東和葦原国は、帝の代替わりで元号が変わる。今上帝の宮号である白月宮からとって今は白暦六年だが、皇暦で言えば二千年を超えている。つまり創世から今の皇は二千年以上続いているのだ。血なんてとっくに薄れているだろう。
単純に考えたら双玉を御せる血が濃い方が良いはずだ。それだけ始祖に近い証なのだから。けれど。
(……血に苛まれる夢を見る)
夢だけじゃない。現実だって、彼はその血に苛まれている。昨日のように。
「銀朱様は、夢見が悪いことって、ありますか?」
「夢見?そりゃあ、まあ、締め切り前ですとか。この所はあまり良い夢を見ませんでしたわ。原稿の主人公の字をすべて間違っていたのが書き終えてから発覚したり」
「そういう……そういうのじゃなく……いえ、なんでもないです」
いや、それも確かに悪夢には違いないのだろうけれど、どうも鈴の思っているような悪夢に心当たりはなさそうだった。もっと近しい存在、そう例えば真陽瑠や今上帝陛下も、茅羽夜と同じ夢を見るのだろうか。それとも、彼だけなのか。
知りたいことも、わからないことも、たくさんあり過ぎて鈴の頭は最早いっぱいだった。こんなことならもっと真面目に勉強していれば良かったと、今になって思う。
(茅羽夜は、わたしがこんなだから、話してくれないのかな)
鈴とて彼の全てを解決出来るとは思っていない。けれど何か一つでも、茅羽夜の背負っているものを軽くすることは出来ないのだろうか。
それすら出来ないのなら一体何の為に、自分はここにいるのだろう。
「……そういえば、明日には商隊が宮へ入ってきますわね。市が開かれるのは四日後ですが、準備は明日から始まりますのよ」
何かを感じ取ったのか、銀朱がつとめて明るい声で言った。その声音があまりにも取り繕ったようなものだったので、鈴は銀朱もたまには空気を読むのだな、と大変に失礼な事を思ってしまった。
「今年は東宮殿下の婚姻を祝して献上品に力を入れている商家ばかりだと父からの手紙にありましたの。初菫様も、是非楽しみにしていらして。六国の品々はどれをとっても一級品ですわよ」
「はい。楽しみです」
鈴が微笑んで見せると銀朱はもう一度、楽しみにしていらしてと言った。
それが彼女なりの「元気出して」に聞こえて、今度こそ本当に、少しだけ笑った。




