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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
二章 まどいの星々
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 菫青殿に戻ってから鈴はすぐに夕餉を食べて、刻葉からの課題である書物を手に取るも、最近目を酷使することが多かったせいか目がしぱしぱして仕方がない。指で擦りながらもなんとか文字を追うけれど、ちっとも頭に入ってこなかった。明後日までに読み切って感想文を提出しなくてはならないのに。

(……いや、今日はだめだ、一旦休ませよう)

 頑張ってみたけれど時間の無駄だと悟った鈴はすぐに和綴じになったそれを閉じた。

 目頭を指でほぐしながら御簾の向こうに浮かぶ朗月を見上げる。風も強くなく、夏程雲の掛からない今頃の空は月見に最適だった。佳宵とまで行かずとも、りぃりぃと鳴く鈴虫の声を聴きながら、とろりと丸い月の浮かぶ空を見上げるのはとても贅沢な時間に思えた。

 鈴が一番好きな月は九頭龍山の祠の、ぽっかりと開いた空に浮かぶ月だが、こうやって御簾越しに見る月も中々乙なものだ。ここに団子のひとつでもあれば文句なしなのだが。

 机に頬杖をついて、ふう、と息を吐く。

 秋月しゅうげつ九宮くのみやと呼ばれるだけあって、菫青殿は月見に拘った宮だった。東棟には他の宮にはあまりない畳の敷かれた和室となっており、円窓えんそうが造られている。そちら側には空を狭める紅葉や楓等の樹木は敢えて植えられていないが、代わりに桔梗や菊、竜胆などが池の道に沿って淑やかに佇んでいた。

 庭には龍と花が彫り込まれた灯篭が点々と置かれており、中秋の名月にはこれら全てに燈が入れられる。

 廂に出れば尾花すすきに囲まれた池に映る鏡月を眺める事も出来るし、円窓から覗く月もまた風情があっていい。

(厨から何か持ってこようかしら……)

 丸々とした月を眺めていたら、なんとなくお腹が空いてきた気もする。しかしそれよりもどうにも目が疲れていて、段々と抗えない眠気に目が霞んできた。

 食欲か睡眠か。ぐらぐらと揺れる意識の中で、鈴は睡眠を取った。

(ちょっとだけ……)

 机に重ねた腕の上に頰を寄せる。刻葉に見つかれば小言半刻は確実だが、刻葉も小鞠もとっくに部屋に下がらせている。突然の来訪者でもない限り、見つかる事もないだろう。

 小鞠あたりが聞いたら「伏線フラグですよ」と言いそうなことを思いながら、鈴は束の間の夢の世界へ旅立った。



 餡を包んだ団子を片手に菫青殿を訪れた茅羽夜は、文机の上の書物と自分の腕を枕にすよすよと眠っている少女を見て、目を瞬かせた。

 最初にそれを発見した小鞠は「きょ、今日は少々お疲れのようでして……」と主を庇っているが、後ろの刻葉は目元を覆っている。額の青筋は見えなかったことにした。

「姫様、姫様、起きてくださいまし」

「いやいい。寝かせておいてくれ」

「しかし……」

「疲れているのだろう、寝かせておいてやってくれ。私が寝台まで運ぶから、二人は下がってくれて構わない」

 団子の包みを小鞠に預けて下がらせてから、茅羽夜は突っ伏して眠る鈴の側に膝をついた。顔に掛かっている横髪をどけると、あどけない寝顔が覗いて、茅羽夜は知らず顔を綻ばせた。口元が僅かに動いているから、何か食べている夢でも見ているのかもしれない。

 黙っていたら五つは年上に見られる茅羽夜と違って、鈴は年相応の少女らしい顔立ちをしているが、寝ていると幾分幼く見えた。

 肩に腕を回してゆっくりと上体を起こし、膝裏に手を入れて抱き上げる。ふわりと控えめながらも甘い、銀木犀の香りがした。名前は知らないが、鈴が好んで焚いている香だ。彼女の寝室に置かれた香炉からは大抵これと同じ匂いがする。香なら伽羅や同じ木犀でも金木犀の方が好まれる傾向があるけれど、彼女はどうもこれが一番好きらしい。

 御帳台の几帳を潜り、既に小鞠が整えていた褥へ少女を下ろすと微かに身動ぎする。起こしただろうかと顔を覗き込むと、微かな寝息と共に何か呟く声が聞こえた。

「……ち、あき……さ……」

(ちあき?)

 思わず眉根が寄る。誰だ。少なくとも茅羽夜の知っている名前ではない。その後にもにゃむにゃむと何か言っているようだが、聞き取れる単語はそれだけだった。

 鈴にだって、当然茅羽夜の知らない交友関係がある。年頃の近い七宮の更衣の葵依や、四宮の中宮、最近は六宮の女御にも仲良くしてもらっているのだと先日言っていた。その中にちあきという名前の侍女がいても、何らおかしくはない。ちあきは女子にも付けられる名前だ。

 しかしなぜか、茅羽夜はそれが男の名前であるように感じた。直感とも言える部分で。胸の内の騒めきが、細波のように広がっていく。

 重い何かが胃に落ちていく感覚に眉根をぐっと寄せた時、鋭い痛みが頭に走った。

「────っ!」

 瞬間にその痛みが何か理解する。息を短く吸って、吐く。喉から取り込まれたそれが肺を刺す。

(どうして)

 ()()()()()()()()()()()

 ぱきぱきと肌が変質していく感覚に、茅羽夜は後退り、転がり落ちるように御帳台を出た。奥歯を噛んで胸元の着物を握りしめ、その場に蹲る。頭の中に何かが流れていく。

 古い景色、広い神殿。自分の知らない何処か。滲む視界の向こうに、微笑む女がいる。顔までは見えないけれど、その女の隣には別の()()がいた。

 それを見た瞬間に、かっと体が燃える。

(────いやだ)

 頭に響いたのは、自分の声じゃなかった。けれど確かに自分の喉から発せられた叫びだった。いやだ、いやだ、いやだ。絶叫が頭を叩く。実際に自分が叫んだのか、それとも頭の中の幻聴なのか分からない。目の奥が痛い。腕が、足が、体全てが、刺すように痛み、血が沸騰でもしているかのように熱い。

 掻き消すような潮騒が聞こえる。そして、水底に引き摺り込まれる。

「……茅羽夜?」

 いつのまにか、鈴が目を覚ましていた。最悪だ、と茅羽夜は唇を噛んだ。新月ではないから変質もそこまでではないはずだが、きっと酷い顔をしている。

 鈴は部屋の隅に蹲る人影を認めて、茅羽夜の呻めき声に一も二もなく駆け寄った。

「大丈夫?痛いの?」

「鈴……」

「ねえどうしたの、もしかして龍の血のせい?夢だけじゃなくて、現世でも苦しいことがあるの?」

「ちあきって、だれ」

 肩に置かれた手を掴んで、茅羽夜は低い声で聞いた。掴まれた鈴は「へ?」と虚をつかれた顔をする。

「え、なに?」

「さっき寝言で呼んでいた。だれ?」

「あ〜……え?そんなこと言ってたの?聞き間違いじゃない?」

 嘘だった。こんなあからさまに目を逸らして、ばれないと思っているならおめでたすぎる。どうして、嘘をつくんだろう。どうして、ねえ。

(いかないで)

(ここにいてよ)

(どうして、そっちに行くんだ)

 懇願と、怨嗟とが混ざった声がギリギリと茅羽夜の頭を締め付ける。

「そ、そんなことより、今は茅羽夜でしょう。ねえ、わたしに出来ることがある?あ、そうだ前にやったように、あの首飾りなら……?」 

 襟元に手を伸ばすその手首も掴むと、鈴は目を大きく開いた。両手を捕まれていても、その無邪気な眼差しには茅羽夜を心配する色しか浮かんでいない。どうしたの?という無垢で、優しくて、柔らかい声が、より痛みを促進している気がした。

(あたまがいたい。だれなんだ、おまえは)

 頭の中を掻き回す叫びは、一体誰のものなのか。自分じゃない、そう思うのに、自分かもしれないとも思う。混ざって、解けて、何が自分の本当なのかわからない。わからない。わからない。いたい。くるしい。いたい。本当に、頭がどうにかなりそうだ。

 不意にぷつ、という微かな音が聞こえて、鉄臭さが鼻腔を擽った。胡乱げに視線をずらせば、鈴の白い手首に茅羽夜の変質した鋭い爪によって傷が出来ていた。月明かりに照らされた白い手首を伝って、赫の珠玉が自分の指を流れていくのが、とても。……とても、美しくて。

(────喰らえ)

 頭の奥で誰かが言った。ああ、そうか、と茅羽夜は燻るくらい焔の影で嗤った。

「ち────」

 駆り立てられるように少女の手首に白く尖った歯を突き立てると、金臭い味が口内に広がる。小さく息を飲む声が聞こえて、その瞬間だけ、茅羽夜の頭痛が遠退いた。夢と現世の境界がはっきりと見える。

「茅羽夜」

 静寂しじまの声が響いた。闇夜に清浄な銀木犀の香が濃くなる。

 鈴の声は静かだった。静かに、震えていた。

 茅羽夜はようやく、自分のした事を見下ろす。唇の端から自分のものではない血が僅かに滴り、体の奥から震えが全身に広がって、鈴の腕を解放すると自分の顔を覆った。

 ────自分は、いま、なにをした?

「……おれ、は」

 よろよろと立ち上がろうとして、足に力が入らずまたその場に蹲る。頭痛はまだ目の奥に残っており、吐き気と痺れがあった。せり上がってくる何かを押しとどめようと体を折る。

「茅羽夜!……誰か来て!……、……!」

 血と胃液とが混ざって酷い味がした。鈴の声の向こうに、風早の声が聞こえた気がしたけれど、それももう遠い。目の前が真っ暗になっていく。何もかもを闇が飲み込んで、塗り潰して、覆っていく。星が見えなくて何処にも行けない夜のようだと掠れていく意識の中で思った。

 暗闇の中で、必死に自分を呼ぶ鈴の声だけが、光のように瞬いていた。




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