三
それからというもの、何故か鈴と小鞠は新見の編纂を手伝ったり、行き詰まった銀朱の話し相手と言う名の案出しに付き合うことになった。
銀朱は筆が乗っている間は寝食を忘れて文机に向かうので、適度に休憩を促す必要もあったが、そういった世話は新見が基本的に行っていた。さすが幼い頃から共にいるだけあって、彼女の休憩の取らせ方は絶妙で、銀朱が詰まり出す頃にさっとお茶と茶菓子を出してくる。
時々ご相伴に与りながら、鈴達は彼女の求める文献から資料を探したり、それを分類別に纏めたりしていた。勿論、鈴たちの手が空いた時のみであるが、新見からは拝み倒す勢いで泣いて感謝されてしまい、今がどれ程切羽詰まった状況かそういったことに疎い鈴でも何となくわかった。何しろ宮市まではもう十日程しかないのだ。
基本的に物腰の柔らかい、穏やかな新見も校正中は誤字脱字に親兄弟でも殺されたのかと思う程、鬼気迫る勢いで原稿を睨んでいたので、本を作ることがいかに大変なのか改めて思い知った。
言ってみたら、本を書いているのは銀朱の仕事というわけではない。
銀朱は後宮の女御であり、物書きで飯を食べているわけではないのだから、この作業は彼女の趣味という以外他ならない。
それでも彼女は寝食を削ってまで文机に齧り付いている。あれ程着飾る事に心血を注いでいる彼女が簪一本も付けず、一心不乱に筆を執っていることに、鈴は驚いたのと同時にそんな銀朱を好ましく思えた。
それは小鞠も同じようで、更にいえば彼女は元々銀朱の作品の愛読者だったのもあり、銀朱への態度もだいぶ軟化してきたように思う。どれくらいと言えば、鈴に作ってくれた作った焼き菓子を、鈴の知らない間に差し入れするくらいには歩み寄りを見せていた。
「詰まりましたわ……」
三日振り、十一回目の集中力終了のお知らせと共に、銀朱は執筆用にしている部屋からのそりと出てきた。ちょうど鈴達は資料編纂の休憩を取っていた所だったので、新見がさっと銀朱の分も円座を出し、お茶を淹れる。
その傍の机には何通か手紙が置いてあり、銀朱はそれを手に取って、一通り目を通したあと顔を顰め、くしゃりと丸めて屑籠に放った。
あまりいい報せではなかったのだろうか。
「主人公の台詞に悩んでいるのです」
そして何事もなかったかのように、鈴が持ってきた抹茶餡の最中をなにも言わずに口へ放って、銀朱は大きな溜息を吐いた。最中なら執筆しながらでも片手で食べられるかなと思って持ってきたのだ。
「物語の佳境で、主人公が相手の青年を迎えに行く場面なんです。でもどうしても、しっくり来る言葉が見当たらなくて……」
「あ、あ、お待ち下さい、わたくし、少々席を外しても宜しいですか」
「どうしてですの?小鞠、貴女の意見も是非聞きたいわ」
「ああああどうかお許し下さい、そのお言葉は紙面で読みたいのです……!」
小鞠の懇願に、銀朱は胸を撃たれたような顔をして「ええ、そうね、わかるわその気持ち。種明かしは嫌よね、ごめんなさい……」と小鞠の手を取って、目を潤ませて謝罪した。小鞠もお役に立てなくて申し訳ないと言って、借りていた蔵書を返しにいく為に六宮を退出していった。愛読者心理というやつだろうか。小鞠は根っからの消費者側のようだ。時々彼女たちとの温度差についていけないのが少し寂しくある。
「初菫の方は、お話しても?」
「あ、はい。わたくしで宜しければ」
「貴女がいいのよ。悩んでいるのは主人公の台詞ですもの。それでね、先程も言ったように、悩んでいるのは主人公が、囚われの恋人を助けに行って、ようやく見つけ出した場面なのです」
葉牡丹先生の新作はやはり恋愛物のようで、明るくて元気な主人公と無愛想で冷淡に見えるが実は優しい青年の恋愛模様を中心にした冒険譚らしい。登場人物像と大筋を聞いて、鈴は思わず顔を覆った。
「……その無愛想な青年の名前をお聞きしても?」
「青年の名前にはかなり悩みましたのよ。闇を背負った青年ですし、涼やかな響きが良いかと思ったのですがここは敢えて、千輝という名前にしましたの。千の夜に輝く星という意味を込めて」
(茅羽夜だ……!)
読まなくてもわかる、そのお相手の青年は名前こそ違うものの茅羽夜だ。そして先程の銀朱の言葉からして、その主人公というのが自分に似せて書かれているのだと悟った。茅羽夜の名前は銀朱に伝えていないのに、またこの微妙に近しい名前をどうして選んだのか。これが作家の勘だろうか。なんて恐ろしい。
いや、しかし明るい主人公と冷静な性格のお相手というのは割に良く見る組み合わせだ。小鞠の蔵書にも何冊かあった気がするし、いつも顰め面をしていた主人公の親友とくっついた少女も、いつもにこにこしているような娘だった。対極な二人組というのは大体どの作品でも一組はいる。さすがに自意識過剰だろう、と鈴は片付けて、銀朱の話に頷く。
「いい名前ですね」
「そうでしょう?最初はそのまま、夕凪という名前にしようかと思ったのですがさすがに御本人に悪いと思いまして」
「やっぱり殿下なんですか!?」
東宮の宮号は夕凪宮だ。そのまますぎる。
「あ、勿論わたくしの想像で書いておりますので、殿下そのものではありません。あくまでわたくしの印象です」
「でも骨組みは殿下なんですよね……?」
「それは勿論。ご安心下さい、お相手の主人公は初菫の方を骨組みに作っておりますので」
「一体それの、どこの、何が安心なんでしょうか」
「あらだって……流石に物語でも殿下のお相手が自分以外というのは、嫌じゃありませんか?」
「そ……」
そんなことはない、とは確かに言えなかった。あくまで想像、銀朱の中の茅羽夜であって、実在する人間ではないとわかっていても、その根底にいるのが茅羽夜だと思うと何だかもやもやするものがある。
皇家を継ぐものとして茅羽夜はいつか、鈴以外の妃を迎える日も来るだろう。茅羽夜がどんなに帝位を嫌がっても、今上帝に御子がいない以上、陛下に何かあれば彼が嗣がねばならない。その時彼に必要なのは後宮を纏め、後継を生んで、心身共に支えてくれる妃だ。
その存在に鈴が成れるのかと問われれば、正直言って自信がなかった。鈴も毎日刻葉の妃教育に頑張って耐えているが、結局今まで築き上げてきたものはそう簡単に崩せない。幼い頃から教育されてきた姫を正妃にと周囲から願われたら、鈴は身を引くしかないのだ。
と、頭ではわかっていても、いざそうなったらきっと嫌だろうなと鈴は思う。本の架空の青年の相手が自分以外であることを想像して「嫌だなあ」と思ってしまったように。
銀朱は言葉に詰まる鈴を見て、柔らかく微笑んだ。
「実を言うと、わたくしは恋を知りません」
湯気の立つ茶器を両手で持って、銀朱は静かに言った。
「陛下の事は勿論お慕いしております。陛下もわたくしの事も決して蔑ろにしたりせず、気に掛けて情を下さいますが、それでもそれは、恋ではないのです」
今上帝と銀朱の婚姻は、皇と南部を繋ぐ縁のひとつであり、政治的な意味合いが大きい。その事を理解出来ない程、銀朱は愚かでも夢見がちな小娘でもなかった。
国長の娘に生まれて、恋しい人の元へ嫁ぐことなど出来るはずもないことも、夫の唯一になれない事も、銀朱にとっては当たり前のことだった。その事に関して、銀朱は別段自分を憐んでいないし、嘆いているわけでもない。陛下は充分過ぎるほど、銀朱に良くしてくれる。
でもそれは、情はあっても恋ではない。お互いに。
「初菫の方が殿下の話をされる時、ああこの方はとても大事にされているのだと思ったのです。互いに恋をして、手探りで、共に歩もうとしていらっしゃるのだと。わたくしはそれを、とても美しいと思ったのです」
美しいものが銀朱は好きだった。宝石でも着物でも、言葉でも、なんでも。
「だからわたくしはお二人が仲睦まじくいてくれるのが一番嬉しいのですわ。例え物語の中でも」
「銀朱様……」
じんと暖まる胸の奥から滲んだものが、鈴の菫色を潤ませる。母のような慈愛の眼差しで鈴を見る銀朱は、わかっているというように深く頷いた。
「やはり、推しと推しはくっついて貰いたいものですしね。公式関係に勝るものはなくってよ」
「わかります。公式からの需要は大事ですよね。しかし公式の隙間を想像するというのも読者の楽しみのひとつかと思いますが、姫様」
「流石新見、やはり目の付け所が違うわね。なので今回は少し話に余白を持たせていて……例えば第二章の主人公と青年の出会いの回想ですけれど」
「あの、申し訳ございませんが、わたくしにも理解る言語で話して下さい……」
いつも専門用語を訳してくれる小鞠は、残念ながら未だ帰ってくる様子はなかった。




