薔薇を綴る 一
後宮の東側、四宮には今日も鮮やかな和琴の音彩が満ちている。彩雲を自在に操る璃桜は最後の音を爪弾くと、伏せた薄紅の瞳を持ち上げ、ゆるりと微笑む。
「何度聴いても四宮の和琴は良い。春水のような調べが美しく、萌出る新芽のようじゃ」
「身に余る光栄で御座いますわ、宮様」
真陽瑠の賛辞に、璃桜は頬を僅かに赤らめて微笑んだ。上座に座る真陽瑠の隣には玉椿が扇を広げて静かに頷く。
「また腕を上げましたね、璃桜。彩雲も貴女と出逢えて幸せでしょう」
「まあ、一宮様からお褒め頂けるなんて。嬉しゅう御座います」
「ほうほう、堅物生真面目の代名詞であるそなたも、この音の良さが分かるくらいには成長したか。それ程、璃桜の和琴が素晴らしいということじゃな」
真陽瑠の言葉にぴりりとした空気が漂い、玉椿はすっと目を細めて上座を見やる。その柘榴の瞳は静かだが、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さがあった。
「斎宮の御方はどうも、人を貶さねば誰かを褒めることも出来ないようで。言葉は心の鑑と言いますし、そのような詫びしい御心を露わにして、お恥ずかしくありませんの?」
「そっくりそのまま返してやろう」
上座の方の気温は恐らく氷点下に達しているだろうと鈴はそっと腕を摩った。玉椿の隣にいる璃桜はそんな絶対零度の戦いの横でも大らかに微笑んでいる。流石だ。玉椿の斜向かいに座る鈴ですら、その柘榴石の双眸に背筋が冷えた気がしたのに璃桜は「あらあらまあまあ」とふたりを宥めている。玉椿の前に座っている葵依なんて、若干青褪めてちらりと鈴に助けを求めて来ていた。
(ごめんなさい葵依様……わたしにも大蛇と虎の戦いは無理……)
現在の後宮の長は斎宮である真陽瑠だが、本来その役目は皇后のものである。今上帝は未だ皇后を決めておらず、その席は空位であった。
しかし、世論は一守家の姫、玉椿が皇后へ収まるだろうというのが大半だ。現に彼女は常に真陽瑠に次ぐ位置に座っており、真陽瑠に意見出来るのも、彼女以外にいなかった。璃桜も玉椿と同じ中宮であるが、家柄で言えば一宮が遥かに格上だ。
だから、というわけでもないのだろうが真陽瑠と玉椿はやはり、仲が悪いらしい。ふたりの年が近しいというのもあるのかもしれない。聞けば玉椿は今上帝よりも三つ程歳上らしく、真陽瑠と今上帝は一つしか違わないので、彼女より玉椿の方が歳上なのだった。
現後宮の長と次期後宮の長の舌戦という絵面は庶民である鈴にとっては遠い世界の出来事だったが、目の前で繰り広げられると普通に怖い。もう帰りたい。璃桜の和琴の音色だけが鈴の心の癒しだった。葵依も同じ気持ちなのか、西の七宮と九宮はそっと視線を交わし合って励まし合った。
季節は晩夏も過ぎ去り、宮中を通り抜ける風も熱を失い、朝夕も随分過ごしやすくなってきた頃だ。下界では、田殿の稲穂の頭は重く垂れ、黄昏時には周囲が黄金色に輝いている時期だろう。
そんな秋の初めに開かれた今日の集まりは蛍辺の宴の一件に璃桜が言った「皆を誘って茶会をしよう」という例の茶会だった。璃桜が掛け合って、鈴の顔合わせ以来、実に五月振りに後華が勢揃いしたのである。したのはいいが、璃桜の和琴の件についても、今月の半ばにある商隊の宮市についても、果てには茶菓子についてまで、なにかとつけて二人が言い争うので、鈴と葵依は常にはらはらとしっ放しだ。
そういえば、と鈴はふと璃桜の左隣を見る。そこには芳しき薔薇の姫君、六宮・銀朱の方が憂い顔で外の景色を見ていた。斎宮と一宮の手前、脇息に凭れるといった崩した姿勢ではないものの、心此処にあらずというのは目に見えてわかる。銀朱とは以前、反物を仕立てて貰ってから、何度か茶会にも誘われてそのたびに生家や六国の取り扱っている流行りものについて延々と聞かされていたが、今日はどうした事か、ずっとあの調子なのだ。一体どうしたことか。何か悪い物でも食べたのだろうか。
「……銀朱の方、どうなさったの?」
「さあ……でも今月の宮市は六国から商隊を招いての年に一度の御祭りでしょう?彼女も、色々大変なのかもしれませんわ」
葵依の方にこっそりと聞くと、彼女もどうやら気にしていたらしい。銀朱は真陽瑠や玉椿、璃桜をそれなりに立てるものの、彼女達に気後れするような性格でもない。
「銀朱の方、どこか御身体の具合でも……?」
そっと側に寄って、鈴が訊ねると、銀朱は暫くぼんやりした後、すぐ側に控えていた年嵩の侍女に声を掛けられてはっとしたように振り向いた。
「何か?」
「いえ……随分ぼんやりとしていらしたので、御身体が優れないのではと……」
「そうなのか?」
いつの間にか真陽瑠も玉椿達も揃って銀朱を見ていた。真陽瑠が扇の向こうから訊ねると、銀朱は「いえ」と首を振った。しかしその顔も、いつものような晴れ晴れとした生命力に満ち溢れているものではない。
「無理をするのは良くない。今日はもう下がりゃ」
「……そうですね、皆様にも失礼ですし、今日はお暇させて頂きます」
礼を取り、銀朱はそのまま侍女と共に退出していった。あんな銀朱は初めて見たので、鈴も葵依も顔を見合わせる。
「大丈夫かしら……」
「やはり、どこか具合でも」
「気にする事はありませんよ」
ぴしゃりとした声で言ったのは、玉椿だった。それはいくら何でも薄情なのでは、と思った鈴だが真陽瑠も「そうじゃの」と鷹揚に頷く。
「銀朱はたまにああなるしのう」
「宮市が近いですしねぇ」
璃桜まで朗らかに笑いながらてん、と軽く和琴を爪弾く。
まだ宮入りして一年経ったばかりの葵依と、新入りである鈴は揃って疑問符を投げかけたが、三人は何となく察しているらしい。
その後宴は璃桜の彩雲を一曲拝聴した後、お開きとなって、鈴は菫青殿へ戻る道すがら、六宮の方を見る。三方はああ言っていたが、本当に大丈夫だろうか。
鈴は小鞠を六宮のすぐ側の回廊待たせて、璃桜に持たされた茶菓子の包みを持って六宮へ向かった。侍女に渡して貰えばいいだろうと思ったのだが、六宮は珍しく静寂に包まれており、いつもなら忙しく歩き回っている侍女たちも見えない。
「あの、すみません」
声を掛けても、誰も出てこない。奥の寝殿まで行かずとも、誰かしらいるだろうと六宮へ足を踏み込むと、入ってすぐの廂にひらりと数枚の紙が風に乗って滑ってきた。
拾い上げると、それはどうも小説の一節のようだった。そのうちの一枚に、鈴は見覚えがあった。前に小鞠が所持していた恋愛小説の出だしの部分だったのだ。
聞くと市井でもちらほら流行っている作家のものらしく、小鞠も愛読している。鈴はあまり小説というものを読まないので、以前彼女の蔵書を数冊読んだだけなのだが、六宮でも流行っているらしい。誰かが所持していた和綴じのものが解けてしまったのだろうか。それなら大変だと鈴は茶菓子と一緒にそれも持って進む。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
「……初菫様?」
声をのした方を見れば、当の銀朱が紙の束と筆を片手に佇んでいた。先程身に纏っていた蘇芳の亀甲地紋向蝶丸の紋様の入った唐衣は既に脱いでおり、単に五衣を重ねた緋袴姿だった。髪もひとつに紐で括っただけで、いつも仰々しく着飾っている彼女にしては随分と軽装だ。
書物でもしていたのだろうかと思いつつ、勝手に入った事を詫びながら進み寄る。銀朱の顔はざっと青褪めており、かたんと筆が手から滑り落ちた。
「あの、これ璃桜様から頂いたお菓子と、そこで拾ったものなんですが。これ、最近流行っているという小説ですよね」
「お、お読みに、なりました?」
「え?ええ、さわりだけ。もしかして銀朱様……」
「違いますのよこれは!わたくしが書いたわけでは決して!そんなわけ御座いませんでしょう!?」
「え」
鈴はまだ何も言っていない。しかし銀朱は「違う」とか「誤解です」と言った言葉を早口で捲し立てる。
「いえ、わたくしは銀朱様もお好きなのですか、とお聞きしようと思ったのですが」
「…………」
ようやく口を挟めたと思ったら銀朱はわかりやすくよろめき、何ということでしょう……と力なく呟いた。語るに落ちるというのはまさに今、こういう時に使う言葉なのだろうと鈴は一生使うこともないと思っていた言葉を浮かべて銀朱を見る。前から思っていたのだが、彼女はどうしてこんなにも反応の身振り手振りが大きいのだろう。
「あの、銀朱様がお書きになったのですか?この小説を?」
「知られてしまったからには仕方ありません」
彼女の書いた小説に出てくる悪役のような表情で悪役のような台詞を言う。部屋ひとつ分もあった距離を驚く程の速さで詰められ、がっと肩を掴まれて鈴は思わず仰け反った。もしかして此処で消されるのでは……?と覚悟を決めるも、彼女から飛び出したのは思いもよらない言葉だった。
「執筆を手伝って頂きますわ、初菫の方」
「え?」
なんて?




