四
桜の蕾がやや膨らみを帯び、山上にかかる霞の美しい日に、鈴は里を発つ。
この日取りも宮にいる斎王が占って決められたと聞いて、そんな事まで占いに従うのかと途端に憂鬱になったものの、その日になって見ると美しい麗かな陽気に包まれた朝は清々しく鈴も僅かに心を持ち上げた。占にあったように、佳き日であることは間違いなかった。
小鞠と、小鞠の母である百合絵は朝早くから鈴の支度を手伝ってくれた。自分の事は自分でやると突っぱねてきた鈴も、今日ばかりは手伝って貰う事を拒まなかった。本来これは婆さまのお役目だろうが、見送りにも彼女の姿は見えないらしい。
小鞠が鈴に一番似合うと言っていた玉藻が仕立てた菖蒲色の唐衣を肩から羽織る。結い上げられた髪に挿された何連にも連なる紫水晶の簪は、鈴の菫色の瞳の色に合わせて作られたものだ。目利きが出来るわけでもないが、これ一本で鈴の一生分の食費にもなりそうだった。
白粉を叩いて紅をさしてもらうなんて、以前近隣の里をあげての祭で巫女役をやった時以来だったので何だか面映ゆく、くすぐったくて笑えば玉藻に叱られ、鈴が動くたびに結い上げられた髻に挿された簪がしゃらしゃらと涼しげに鳴るのが楽しくなって頭を無意味に振っては小鞠に散々叱られた。
「すっごく綺麗だよ、鈴」
「うん、あの人の家の姫苹果を盗んで尻叩きされてた娘には見えないよ」
「玉藻ったら、もう!」
大声で笑いたかったが、あまり顔を動かすと化粧がダメになるとかで百合絵からきつく言い含められていた。お姫様って何て窮屈なのだろう。宮の中では常日頃からこんなに化粧して過ごさねばならないのだろうか。
「ありがとう、小鞠、玉藻。百合絵さまも」
「いいえ。わたしも、生きている間にこんな美しい衣を仕立てられる日が来るとは思いませんでしたわ」
小鞠と玉藻の母である百合絵は、このあたりの里で一番と讃えられるほっそりとした面立ちを和らげて、鈴に微笑む。いつまでも少女のようなあどけなさは確かに、小鞠の母だなと思わせる。
百合絵達に手を引かれて、里長の屋敷を出るとすぐ側に松葉たちが馬を引いて待っていた。その行列を遠巻きに見守るように里の者達が立っている。
涙ぐむ里の者達に惜まれながらも馬に乗りこむと、後ろが何か騒めいた。不思議に思って振り向いて、目を見張る。山上の方から飛ぶ鳥落とさん勢いで駆けてくる老婆がいたからだ。まだ顔まで判別出来ないが、鈴も松葉もあれが誰なのかすぐにわかった。というより、あんな速さで地上を駆ける老婆がこの世に二人といるわけない。
鈴のそばで傘を持っていた男が「ひっ!」という短い悲鳴をあげたが、すぐ側にいた松葉が「大丈夫だ、害はないから」と宥める。自分の母親になんて言い草だろう。
「婆さま!」
「朝っぱらから大きな声を出さないどくれ、聞こえてるから」
「都合の悪いことはよく聞こえなくなるくせに」
「うるさいね、ほら。これを持ってお行き」
ぽいっと投げるように差し出されたのは掌よりもちいさなお守りだった。慌てて受け取って、手元でなぞる。さらりとした乳白色の布地に、菫の刺繍がさしてあった。
「これ……」
「あんたのお包みから作ったもんだ」
「お包み?」
両親が彼女を籐籠に置き去りにした時、鈴を包んでいたものだろう。だがそんなものを十六年も取っていた事に少なからず驚いた。とっくに捨てているものだと思っていたのに。
昨日、夜遅くまで家に灯りがともっていたのはこれを仕上げていたからなのだと、鈴はすぐにわかった。
「バカだね、こんなことで泣くやつがあるか。白粉が落ちるだろう」
「泣かせたのは婆さまじゃない」
「しようのない子だね、ほんにお前は昔からすぐ泣くんだから。でも、お宮へ行ったらそうやってすぐめそめそ泣くのはおよし。涙はここぞという武器にとっておくんだ」
「小鞠のお母様みたいな事を言う」
「違うね、あたしが百合絵に教えたんだよ。あの子が嫁いで来た時にね。本家本元はあたしさ」
ふん、と鼻を鳴らして笑う。鈴は思わず御守りを落とす所だった。すぐ側に控えていた松葉も信じられないものを見たように目を見開いている。
いつも顰め面で、無愛想で偏屈で、子供達から妖怪だ山姥だと恐れられている婆さまの笑顔を見たのは、これが初めてだったから。
「綺麗にしてもらったんだから、胸張りなさい。鈴はあたしの娘なんだからお宮でもどこへ行っても大丈夫さ」
「……ばあさま」
「さあもうお行き。二度と帰ってくるんじゃないよ」
最後まで憎まれ口を叩く所が婆さまらしかった。
彼女が一歩二歩、離れたのを確認して再び松葉の号令で行列が動き出す。
「みんな!」
遠ざかっていく、十六年育った鈴の故郷。小さな里では、皆が家族みたいなものだった。
悲しいことも苦しいこともたくさんあった。捨て子だと罵られて輪に入れて貰えなかったこと、その事で喧嘩したことも、山の祠でひとり膝を抱えていたことが次々に眦に浮かぶ。
けれど、楽しくて嬉しい事の方が、よっぽど多かった。
「婆さま!」
もう小指の爪程にもなってしまった、母を見る。彼女がどんな表情をしているかはもう分からない。
白粉が落ちたって構うものか。どうせここから宮は遠いのだから、途中宿を取るし着替えもする。それに頭から日除けの紗を被っているから、道ゆく人にも鈴の顔はそこまではっきりと見えるものでもない。だから今どれだけ泣いたって、ひどい顔になったって、今日だけは許されるだろう。
でも泣くのはこれが最後だ。
今日まで育ててくれた母の教えと小さな御守りを、胸に抱いて。
「ありがとう、みんなのこと、絶対に忘れない!」
忘れない。
朝焼けに染まるお山の雄大さも、雪解け水の染みる小川の冷たさも。その小川に友人達と足をつけて涼を取ったことも。野山を駆け巡り、きのみを取って食べあったことも。
忘れない。
思い出のすべてが、鈴そのものだから。
だからきっと、忘れない。