金魚姫 一
丸い玻璃の器を眺めながら、鈴は密かに嘆息する。それは鈴が両手で持たねばならない程に大きく、底は平で、縁が柔らかく波打っていた。鉢の底には白い玉砂利と名もわからぬ水草が入れられており、たっぷりと注がれた清水は先日蛍見をした白耀殿の森にある滝から汲まれたものだと説明される。
その中で、ひらひらと紅の尾を揺らしながら泳ぐ、一匹の金魚がいた。
「……どうして皆して、そういったものを此処へ持ち込むの?うちは怪異お悩み相談室じゃないんだけど」
「気が紛れるかと思って」
それを持ち込んだ本人は至って真面目な顔をしてそう言った。相変わらず、対話能力が若干欠けているなと鈴はもう一度溜息を吐いた。
茅羽夜が菫青殿を前触れもなしに訪れるのはいつもの事だが、大抵彼が持ち込んでくるのは菓子か果物か、食べるものと相場が決まっていた。しかし今日は珍しく黄昏の黄金色の陽射しが差し込む時間帯に来たと思えば、この大きな玻璃の器を両手に抱えていたのだ。刻葉の小言が増したのは言うまでもない。
出来れば必要以上に彼女をかりかりさせないで貰いたいのだが。鈴自身も彼女を無駄にかっかさせている自覚はあったが、それはそれ、これはこれだ。
だが確かに、水の中を優雅に泳ぐ金魚は確かに目に涼しく、この茹だるような暑さの中、見ているだけで幾らか気が紛れそうだった。
金魚はこれまた、数年前に六国が外国から輸入したものを五国の職人が改良して小型にしたり尾鰭や背鰭の美しさを磨いたりと、今では貴族の道楽のひとつとして浸透していた。
鈴も存在は知っていたが、何しろ高級品なのでそのもの自体を見るのは初めてだ。黒々とした丸い目と紅の体は光を浴びて黄金にも煌めき、大きな襞を描く尾鰭が衣の裾のようで大変に美しい。金魚飼育に全財産をかける程のめり込む貴族がいるというのも肯ける雅さだった。
しかし、それは、これが普通の金魚ならばの話だ。
茅羽夜が菫青殿に持ち込んだ金魚は、この世の者ではなかった。鈴と茅羽夜には金魚の姿は確認出来るが、小鞠には見えなかったのがいい例だ。彼女は鈴と茅羽夜が水を張った空の金魚鉢に話しかけているのを見て、随分訝しんでいた。
「金魚の幽霊とはまた、珍しいこともあったものね」
「ああ、献上してきた者も、扱いに困っていたらしくてな」
「そりゃそうでしょうよ」
視えないのに在る。そこに在るのに視えない。それだけで、普通の人は怯えるものだ。怪異好きだと言う璃桜あたりは喜んで引き取りそうだが、葵依などは怯えて近寄らないだろう。あんな深窓の姫君という概念が人の形をとったような女性なのに、怪異や怪談が好きとは人は見掛けによらないものである。
人と違って生き物は、肉体を亡くすとそのまま迷うことなく幽世へ渡る。勿論、知性の高い生き物は人や物に憑いて惑うこともあるが、ただでさえ寿命が短いのに留まっていては、世の中惑いの魂で溢れ返る事になるだろう。魂とは川の流れのように絶えず流れて巡るものだ。
しかしどうも、この金魚はまだ迷う事があるらしい。自分が死んだことに気付いてないだけかもしれないが。
「送ってやることは出来ないか」
「そりゃあ、この金魚の迷いがわかれば出来るだろうけど……茅羽夜は出来ないの?」
葬送は巫術師の基本だ。鈴を育てた婆さまも、山守の役目と共に近隣の里での葬送を主に引き受けていた。茅羽夜も術者であるならば出来るだろうと思っていたのだが、彼は鈴の問い掛けにふるふると首を横に振った。
「確かに端くれだとは言ったが、俺は術者としての才がなかったらしい。武術に応用するくらいで、鈴がやるような術は殆ど使えない」
「そうなの?」
「龍の血が濃いすぎて、師からは相性が悪いのだろうと言われた。それで、武の道に進んだのだ。こちらも極めたというにはまだ道半ばだが……」
菫青殿の寝殿に置かれた掛台を見て、茅羽夜は僅かに表情を曇らせる。龍の彫られた玉の下がったそれは彼がいつも腰に佩いているものだ。六歳の頃から剣を握っていても、まだ道は長いらしい。かく言う鈴も、幼い頃から術者として育てられてきたが、まだ分からない事は多い。それと同じことだろう。
「茅羽夜にも師がいたのね」
「ああ、九条家にいた時に空鷹に仕えていた術師だったのだが、この人がまた剣も強くて……いや、術が使える剣士だったのか、正直わからないんだが。けど結局一度も勝てなかった」
「今はどうしてらっしゃるの?」
「さあ……」
「さあってどう言うことよ」
「よくふらりと居なくなる人だったんだ。空鷹もあれはそういう性分だからといって放っていた。俺が十二になるまでは九国にいたが、その後の消息はわからない」
「捜そうとは思わなかったの?」
「最初は捜したが……」
見付からなかったらしい。空鷹もまあ、彼のことだからどこかで生きているでしょうと放置したのだと言う。養父にそこまで言われる茅羽夜の師とは一体どういう人物なのか。
「まあ、空鷹の言うようにどこかで生きてはいると思う。医学にも精通しておられたし」
「剣も術も出来て、その上医学まで?」
鈴と茅羽夜と縁寿を足したような性能ではないか。高性能にも程がある。術と医学は重なる部分も多少あるが、本来は全く違うものだ。
「術はそういう家に生まれついていたからだと聞くが、医学と剣に関しては流浪する内に身に付けざるを得なかったと言っていたな。だからきちんとしたものを習ったわけではなく、独学なのだそうだ。しかし残念ながら、生活能力は皆無だった。彼の淹れる茶だけは二度と飲みたくない」
「そ、そう……」
天から二物を与えられてはいたが、それと引き換えに生活能力の一切を奪われた男だと茅羽夜は評した。ますます人物像が謎めいている。
しかしそういう師に育てられたからこその、今の茅羽夜なのかもしれない。どこか浮世離れしている雰囲気は、もしかしたらその師から譲り受けたものなのではないか。そう思うと益々、会ってみたくなる鈴だった。
「まあ、そういう事ならとりあえずこの金魚は預からせて貰うわね。何かわかったら文で伝えるわ」
「頼む」
「でもこの子、一体誰から貰ったの?」
「式部少輔だったか。最初は陰陽寮かどこかに持ち込まれたのが、流れに流れて俺のとこにきた」
「式部少輔……」
式部省は文官の人事考課や礼式などに携わる官庁だったか。そこの少輔ならばそれなりの家の者だろう。
「ああ、七宮の兄君だ」
「えっそうなの?」
「確か。七宮は八人兄弟の末の姫であったから……その二番目の兄だった筈だ」
葵依が末っ子であることは聞いていたが、上にそんなに兄弟がいたとは知らなかった。ならば葵依も何か知っているかもしれない。また話を聞きに行こうと考えていると、茅羽夜は唐突に立ち上がった。帰るらしい。相変わらず鈴の元に通いはするが、夜を明かさない。鈴としても、未だ燻るような不満はあるものの、それを言うのは何だか先日の一件もあり、気恥ずかしくて黙っている。
茅羽夜を見送る為に立ち上がろうとする鈴を留めて、代わりに鈴の掌に小さな錦袋を置く。開いてみると中に干し棗が入っていた。この辺りで棗が実をつけるのはもう少し先のことだが、どうやら南国ではもう実を結ぶ頃らしい。棗は生のまま齧っても苹果に似たしゃりしゃりとした食感で美味しいけれど、乾燥させるとより甘味が増すのだ。里にいた頃もよくおやつとして食べていた馴染のある果実だった。金魚だけでなく、餌付けも忘れないらしい。
「……茅羽夜って、わたしに食べ物与えておけばいいと思ってるでしょ」
「要らないのか」
「要らないなんて言ってないじゃない」
「そうか。なら良かった」
ふっと目元を和らげて言われると鈴としてもなにも言えない。それに茅羽夜の持ってくるものは確かにどれも美味しかった。そのままどこに潜んでいたのかいつの間にか側にいた風早を伴って、茅羽夜は菫青殿を出て行った。
鈴は残された丸い玻璃の中で泳ぐ金魚を硝子越しに指で突きながら、三度目の溜息をこぼすのだった。




