九
十二国の空はいつもどんよりと深く、重い雲がかかっていた。東和葦原国の最北端に位置するこの国は一年の半分を雪と共に過ごすが、今の時期だけはその白い面影は消え、大地が顔を覗かせる。
皐月に入った頃に雪が溶けて桜が蕾をつけたかと思えばすぐに西から梅雨がやってきて、半月近く雨に打たれた大地が蒸した甘い土の匂いを漂わせると、ようやく北国は短い夏を迎えるのだ。
夏蝉の声も眠る頃、戸を叩く音を聞いて、男はふと机から顔を上げた。
陽はとっくに西の空に沈み、近所に住む夫婦もそろそろ床へ着く頃だろう。急患だろうかと手燭を掲げて腰を上げてから、戸の外に佇む懐かしい気配を読んでおや、と目を丸める。彼がついと指を動かすとまるで見えない糸にでも引っ張られるようにして扉が開く。外にいた青年はその術を見てやや目を丸めるも、慣れたように内側へ滑り込んだ。
「お久し振りです、明堂先生。夜分に申し訳ありません」
「いいえ構いませんよ。しかし本当に久しぶりですね、大河。少し見ない間に、随分と大きくなって」
「はい。もう十八になりますから」
「清澄殿が亡くなってからもうそんなになりますか」
明堂と呼ばれた男は優しげな面立ちに僅かに寂寥の色を滲ませて大河を居間へ招いた。居間といっても厨のある土間に面した、囲炉裏と丸卓がひとつだけ置かれた板の間で、隣に障子で隔てた寝室兼作業場があるだけの小さな家だ。
囲炉裏のそばには大河にもよくわからない生薬の詰められた小瓶やら薬板やら薬研が無造作に置かれていて、明堂がそれらを端へ追いやるとようやく大河の座る空間が出来る。
明堂は客人のために茶を煮立てようと向かうが、大河がそれを押し留めた。火加減が下手な彼の茶は酷く、人が飲めたものではないことを知っているからだ。薬湯を煎じる時はそんなことはならないのに、料理となると途端に駄目になる。そんな彼が一人暮らしでも何とかやっていけるのは、ひとえに近所に住む夫婦や里の者たちの助けがあってこそだった。その代わりに、彼はこの近隣の里では唯一の医師として留まっている。
勝手知ったるとはこのことで、大河は手際よく囲炉裏で茶を煮立てると戸棚の茶器にそれを注いで、明堂に渡す。彼の目元の皺が深くなり、大河は月日の流れを感じた。
「君の淹れるお茶がいちばん美味しい」
「それ、お隣の蘭おばさんには言ったら駄目ですよ」
「人には得手不得手があるものです。筑前煮なら彼女のが一等美味しい。そういえば、夕方持ってきてくれたものがまだあるよ。食べるかい」
「ご相伴に与らせて頂いても?」
「勿論だとも。その代わり、そっちの味噌汁も温めてくれると助かるな。いやはや、どうしても火加減が苦手でね」
「本当に変わりませんね、先生は」
厨の鍋にある豆腐の汁を見て、大河は笑う。恐らく近所に住む奥方が作り置いたものだろう。
彼は大河の師である清澄の知人で、師が亡くなる前は大河もこの近辺に住んでいた。明堂は流れの者だったのだが医師としての腕は申し分なく、また腕も立つのに生活能力というものが著しく欠如していた。家事能力に関しては師もそれほど得意ではなかったため、大河が近くに住んでいた頃は、家事の一部を引き受けたりもしていたのだ。師が亡くなる、ほんの一年間の事だ。
「清澄殿の葬送が終わったのだね」
温められた汁を啜りながら、明堂は静かに言った。大河の懐にはもうあの横笛はない。此処へくる前に寄った四国の墓に、共に葬ってきたのだ。
「はい」
「そうか、彼は無事に、紗依姫に会えたか……」
「東宮殿下と妃殿下、並びに四宮様のおかげです」
その言葉に明堂は箸を止めて、驚いた顔で大河をみた。
「お二人にお会いしたのですか」
「そうなのです。ああ、いえ、妃殿下にはお会い出来ませんでしたが……殿下と妃殿下は、どうも和琴に取り憑いた紗依姫の霊を渡してやりたいとなさっていたようで」
「それは、巡り合わせが良かったですね」
「はい。今日はその報告に参りました」
そうでしたか、と微笑む明堂の顔はなにかを考え込むふうで、大河は「どうかしましたか?」と訊ねた。彼が食事中に物思いにふけることは珍しくないが、研ぎ澄ましたような色が、彼の瞳に浮かぶ。
「葬送を行なったのは、妃殿下でしょうか」
「え?ええ、そういえば……そうですね、殿下の口振りからすると恐らく」
「成る程」
碗を傾けて、明堂は独り言のように呟いた。おかわりはと訊ねる大河に、もう一杯頼んで彼が厨の鍋へ向かう背中から視線を逸らして、遙か南東にあるまほろばを見る。
「────かの東の龍が、斎妃を御迎えになったか」
その呟きは大河にも、誰にも届くことなく闇夜に溶けていった。




