八
蛍辺の宴も事後処理も終わり、ようやく東宮にも夏を楽しむだけの余裕が出て来た頃、東宮御所の庭に、ふたつの影があった。
寝殿から出てすぐの白砂の庭の先には大きな池があり、白耀殿の滝から引かれた遣水のせせらぎがさらさらと音を立てている。池の真ん中には大きさの違う島がふたつ浮かんでいるが、中島に植えられた木々は常に美しく整えられて、今の時期は濃い緑の影が水面に揺れて目に涼しい。
その中島に立つ茅羽夜の前には風早が静かに佇んでいた。茅羽夜は一度深く息を吸うと、木刀を片手に地を蹴り、カン!という高い音が夏空に響く。
茅羽夜の振りかぶった筋を最小限の動きで止めると、風早は木刀を滑らせて薙ぎ払う。一瞬飛び退いた茅羽夜が円を描くようにして体を捻り、風早の手元を狙うと、彼は分かっていたと言わんばかりに木刀を右から左手に持ち替えてそれをかわし、体を反転させて叩いた。寸前で止めるも、右から左から上下から息のつく間もなく繰り出される斬撃に防戦一方になる。
木刀の打ち合う甲高い音が庭に響き渡る。暫く風早の木刀とは思えない鋭い斬撃を受け、防戦に甘んじていた茅羽夜は一度大きく踏み出すと、その勢いのまま回転しながら彼の顎目掛けて蹴り上げた。
それを木刀で受け止めた風早の顔に僅かに驚愕の色が浮かぶが、それは本当に一瞬のことだった。風早はすぐに体勢を持ち直すと、そのまま胴へ木刀を振る茅羽夜の動きをいなし、手首を掴んで思いっきり投げ飛ばした。
「先程の踏み込みは迷いがなくて良かったですね。ですがまだ動きが単調です」
「……わかってる」
「焦り過ぎず、相手の内兜を見透かすのが肝要ですよ。殿下は愚直に走りすぎです。力を飼い慣らすには、もっと鷹揚自若に構えなくては」
「……」
真顔のまま、投げ飛ばされた先で一回転して着地した茅羽夜は「ああ」と頷いた。助言を素直に受け取るものの、その表情はやや悔しげだ。長年仕えている風早は、茅羽夜の冷淡な印象を受ける顔の下に飼っている負けん気の強さを知っていた。面倒臭がりなくせに、勝負事になると途端に意地になるのは出会った時から変わらない。
「お取り込み中ですか」
不意に庭の向こうから声が掛かる。ゆったりとした足取りで廂を歩いているのは、東宮付きの医官である、縁寿だ。茅羽夜にとっては風早と共に心から信頼出来る部下であり、また茅羽夜の妻である鈴の兄でもある。戸籍上は義理の叔父であるが。
縁寿はその流麗な顔に不釣り合いな分厚い丸眼鏡の奥で目を細めると「稽古もいいですが、程々にしておいて下さいね」と言った。随分前、稽古に興が乗り過ぎてあちこちに打ち身をこさえた事を未だ覚えているらしい。
「殿下。東宮の前にお客人がいらっしゃいましたよ」
「客?」
「ええ、さあ此方へどうぞ」
そう言って縁寿に押し出されたのは、深緑色の衣を着た青年だった。茅羽夜も見覚えのある顔に、ああ、と頷く。
縁寿の後ろからおずおずといったように進み出て一揖した青年の手には、あの白い横笛が握られていた。
あちこちに積まれた報告書たちにようやく別れを告げることが出来た部屋の円座にゆったりと腰掛け、茅羽夜は目の前に座る男を見ていた。対して男は緊張したような顔で、背に木の板でも入っているかのように真っ直ぐ腰掛けていた。そして彼の前にある柔らかい布にはあの白い横笛が乗せられており、こうして間近に見るとうっすらと霞のような模様が彫り込まれているのが見て取れる。
あの夜は二十歳を過ぎた頃と思っていたが、明るい場所で見ると彼の顔立ちはまだやや幼さを残しており、茅羽夜とそう変わらない歳頃に見えた。茅羽夜自身、長く伸ばした前髪と無愛想さで年齢を上に見られがちなので、なんとなくわかる。
「先日は悪かったな、無理を言って」
「いいえ、とんでも御座いません。私こそ、先日は大変ご無礼を申し上げました」
頭を打ちつけんばかりに平伏する青年に、茅羽夜は「構わない」と手を振って上げさせる。後ろに控えている風早が怖いのか、ちらりと後ろを見ては青褪めて俯いてしまうので、風早には茶を入れて来るように言付けた。彼は未だに、茅羽夜を「アンタ」呼ばわりした事を怒っているらしい。茅羽夜本人としては別段気にしていないのだが。
沈黙が流れるふたりの間を、夏の熱をはらんだ風が通り抜ける。宮の中はもう夏真っ盛りである。
「清澄殿は無事に彼岸へ向かったようだ」
「そう、ですか……」
ぱっと顔を上げて、泣きそうな、しかしどこかほっとしたように微笑む。彼の視線の先には白い横笛が、静かに佇んでいる。
「これで弟子の私も、ようやく肩の荷が下りました」
そう微笑む青年は名を清野大河と言って、彼は十二年前、茅羽夜が聴いていた笛師・白河清澄の弟子であった。
といっても、そんな長い時間師事してもらっていたわけではありません、と大河は言う。
白河清澄は、紗依姫が亡くなり雅楽寮を辞した後、故郷である四国へ戻ろうとしていたらしい。しかしその道中に、賊に襲われて親を亡くした大河と出会い、これも何かの縁だと彼を引き取ったのだという。
そして笛師としてようやくひとつの街に腰を落ち着けた時、先代の崩御が報された。
「師からずっと聞かされて育ちました。故郷の山間から流れる大きな河の話、実家は和琴を作る工房だったが自分にはその才能がなかったこと、それから琴が上手な幼馴染みの女の子の話……その子と子供の頃に、音を文字に置き換えて会話をする遊びをしていたそうです。彼女は街の良いところのお嬢さんで工房のお得意様の娘様だったらしく、一緒に遊ぶのを父に咎められてから、彼女が提案してくれたのだと言っていました」
とても耳のいいお嬢さんだったらしいです、と大河は言った。どんな音も正確に拾って、聞き分けられる程だったとか。
「けれど彼女はさる御方の妃に迎えられることになり、彼女を追って、京まで行ったはいいけれど……到底、お会い出来るような身分でもなく、せめてと思って笛を吹いていたら、ある日応えるように和琴の音が聞こえてきたのだそうです」
清澄と紗依は笛と琴の音でずっと心を通わせていたのだ。高い壁を隔てて、決して届かぬ言葉を、音色に乗せて。例え目に見えずとも、変わらぬ想いがそこにはあった。
「それからは亥の刻になると内廷の端で笛を吹き続けたそうです。ほんの僅かな時間でも幸せだったと。彼女がそこにいるというだけで、それだけでよかった。しかし、ある日を境に和琴はぱったり聴こえなくなってしまった。不思議に思って同僚に聞いてみれば、どうも彼女がずっと伏せっているらしいと教えられたそうです。いても立ってもいられず、師は笛を吹き続けました。夏が終わり、秋が過ぎて冬になっても、彼女から返事の音が返ってくることはなかった。そして師は、その方へ共に逃げようと、告げたそうです」
先帝の悪評はその頃、すでに京中に届いていた。朝廷にも顔を出すことはなく、殆どを後宮か白耀殿で過ごす帝を見限る官吏も多かった。かつて紗依姫が伏せていることを教えてくれた、清澄の同僚もその内のひとりだった。
妃の数は歴史上でも最多となり、生まれた皇子の数も類を見ない程になっていた。紗依には子はおらず、また側仕えもひとりしかいないことは清澄も聞いていた。だから、すぐにはばれないだろう。そうたかをくくっていた。毎朝侍女が水甕に水を汲みにいく隙に、彼女が殿舎を抜け出せたなら。
「……清澄殿は、紗依姫の目が見えなくなったことを知らなかったのだな」
静かに目を伏せて、大河は頷いた。
紗依が彼の提案に乗ろうとしたのか、それとも行けないと伝えに行こうとしたのかは定かではない。しかし目の光を失った彼女は、その途中に池に足を滑らせて落ちてしまったのだろう。
紗依は世を儚んで飛び込んだわけではなかった。きっとそれだけは、確かだろう。
彩雲に取り憑いていたのも、清澄にそれを伝えたかったからかもしれない。彼女にとって、彩雲は自分と彼とを繋ぐ最後の縁だったのだから。
「師がそれを知ったのは、紗依姫が亡くなった後だそうです。入水する程、自分と共に逃げるのは嫌だったのかと、憔悴していた時に聞かされて……あの日程己の浅はかさを恨んだ時はないと、それこそ亡くなる直前まで悔やんでおいででした」
先代が崩御した二年後、清澄は事故に巻き込まれて、呆気なく亡くなってしまった。亡くなる直前まで彼は紗依への謝罪を口にしていたと言う。
ちょうど大河が師を悼むように俯いた時に、風早が茶器を盆に乗せて戻ってきた。茅羽夜が茶を勧めると、初摘の瑞々しい匂いに少しほっとした顔を浮かべて、大河は一口含む。風早はそのまま、静かに部屋の外へ下がっていった。
「……私は只人ですので、幽鬼の類はまるで視ることは出来ません。しかし、この笛を吹いている間は、どうしてか師の声が聞こえるようになりました。姫への想い、嘆き、悔恨……そういった苦しみもがく声がずっと頭の中に響くのです。師は私にとって笛の師匠であるのと同時に父でもあり、兄でもある存在でした。苦しんでいるなら、何とかして楽土へ渡してやりたい。そう思っている所に、とある青年と出逢ったのです」
「とある青年?」
「はい。旅の途中で相席になった方です」
大河は次の仕事を見つけるべく、帝都へ向かっている途中だった。帝都手前の宿場街で、たまたま相席となった男二人がいた。
「一人はとても目鼻の整った男で、もう一人は人の良さそうな顔立ちの二人組でした。どちらもそのあたりに住んでいるというわけではなく、旅の者のようでした。ちょうどお昼時に入った蕎麦屋で相席になったのですが、ふと彼らのひとりが私を見て、言ったんです」
『お兄さん、えらい物抱えてるね。懐に何入れてるの?』と。
大河がその時着物の中にしまっていたのは、清澄の唯一の形見でもあった横笛だった。大河は横笛であることを告げると、男は興味深そうにそれを見た。
『かなり深そうだ。想い人が京にいるのかな』
大河は今度こそ驚いて、食べかけの海老を汁に落とした程だった。師や紗依姫のことを、大河は一言も彼らに話していないのに、どうしてわかるのかと訊ねると、目鼻の整った方の彼は占を生業にしているのだと言う。
藁にもすがる思いで、どうやったら師を楽土へ渡せるだろうか、と言うと男は笑った。
『宮へ行くといいよ。ちょうど今、宴の楽人を探しているだろうから。そうしたら、師の想いがいちばん強い場所に行きな。知っているだろう?』
紗依姫と音を交わしていた、あの場所だろうというのはすぐにぴんと来た。大河は礼を言って、彼らの分の蕎麦代を払って京へ向かい、無事に宴の楽人として宮へ入り、その日の夜にその場所へ向かった。
そうして、茅羽夜に出会ったのだった。
「名前も聞かずに別れてしまった事を、後悔しております。勿論、殿下と妃殿下、並びに四宮様のお力添えあっての事だとは承知しておりますが、彼らの言葉がなければ宮へ行こうとは思いませんでしたから」
「その男たちの容姿はどのようなものだった?」
茅羽夜が固い声で問うと、大河はやや目を丸めたが、すぐにすらすらと答えた。
「占を生業としていると言っていた方は、瑠璃色の瞳をした、それは目も覚めるような美青年でした。左目の下に二連の黒子がありまして、長い髪を緩く編んでおりました。彼の連れは特別目を引くといったものではありませんでしたが、目が細く、さっぱりとした印象の人好きする顔立ちでした。会話からして同郷のようで、歳は恐らく、瑠璃色の瞳をした方が上のように見えました」
それが、何か?と大河は不思議そうに訊ねる。茅羽夜は依然として固い顔のままだ。
「いや、すまない。気にしないでくれ」
「はあ……」
「本当に気にしないでくれ。そういえば、これからどちらへ?」
茅羽夜がやや強引に話を変えるも、彼はそれ以上追求せずに「ああ、そうでした」と頷いた。彼は此処へ、暇の挨拶に来たのだ。
「四国へ向かおうかと思っております。師の墓前に、この笛を返しに行こうかと」
「いいのか?形見なのだろう」
「良いのです。元々、師が彼の姫から賜ったものと聞いていますので」
「そうか。そういうことなら、共に弔ってやるのが良いだろうな」
「はい。それから十二国へも足を伸ばしてみようかと」
「十二国へ?」
なんでまた、と首を傾ける茅羽夜に大河は懐かしむように目を細める。一年の大半を雪片に吹かれて過ごす北端の地も、今は短い夏を謳歌している頃だろう。
「師が亡くなった地なのです。その際に世話になった者へ、挨拶に行こうかと思いまして」
その言葉に茅羽夜の瞳が、僅かに開かれる。
「……清澄殿は、十二国で亡くなったのか」
「ええ。八年前に、例の宗教騒ぎの暴動に巻き込まれて……」
あれは酷い惨状でしたと大河は悲痛な面持ちで首を振った。しかし茅羽夜の目が凍るのを見て、はっと口元を押さえた。かの北国で身内を失ったのは大河だけではなく、茅羽夜の異母兄のひとりも、その暴動で命を落としている。
しかし、茅羽夜の胸の内にあるものは、また違った想いだった。
(───八年前、皇が壊滅させた大海神を祀る宗教の足跡が、ここにも)
七宮が巻き込まれた夢渡りの一件も、彼らが関与していた。そもそも帝が茅羽夜を七国へ向かわせたのも、八年前の一件が絡んでいる。鈴の話を聞く限り、輿入れの際に自分達を襲った青幡という青年も、彼らと繋がっているだろう。
これが必然である、と言いきるのはやや決定打に乏しい。しかし偶然とも思えなかった。
黙り込む茅羽夜を大河は不安そうに見ていたが、すぐに切り替えて、彼を見送るために立ち上がる。
「引き留めて悪かったな、門まで見送ろう」
「そんな、殿下にそのような」
「気にしないでくれ。私がしたいからするのだ。大河殿には世話になったからな」
「世話になったのは私の方で御座います」
「私も世話になったのだ。まあ断られても、ついて行くだけだが」
そういうと、大河は年相応の笑みを浮かべた。東宮を出て、内廷と朝廷を繋ぐ南門まで来ると大河はここまでで、と足を止めた。まだ割り当てられた雅楽寮の寝所に荷物があるらしい。
「こちらへ来ることがあれば、文でも寄越してくれ。そなたの笛の音をまた聴きたい。鈴───ああ、東宮妃も、そなたの笛を気に入ったようだから」
「畏れ多い事で御座います。殿下並びに妃殿下がお望みとあらば、この大河、国の果てにいても馳せ参じまする」
「ああ。どうか息災でな」
「殿下も」
大河はそのまま礼を取り、門の向こうへ消えていった。茅羽夜は彼の姿が見えなくなるまで見送っていたが、やがてすぐそばに風早の気配を感じて、身を翻す。
「調べて欲しいことがある」
抑えた静かな声に、影のように従う青年は頷く。
ふと顔をあげれば抜けるような夏空の向こうに高く積み上げられた雲があった。その遠くに紫電が見えた気がして、目を細める。白雨が来そうだ。夜は幾らか過ごしやすくなるだろう。
それなら、と茅羽夜は人知れず、微笑む。ちょうど、宮の井戸には冷やした桃があった。あれを持って、今夜は菫青殿へ行こう。きっと鈴が事の顛末を聞きたくて、首を長くしているだろうから。




