五
帝は東宮を便利な雑用係だと思っていると冗談半分に鈴に言った茅羽夜だったが、白耀殿の東に建てられた東宮の執務室に積まれた紙の塔を見下ろして、あながち間違いでもなかったなと大きく息をついた。
どうして帝主催の宴の運用についての各所からの報告やら申請やらの最終確認がこちらへ回ってくるのか。これは本来帝へ回すものではないのか。
しかし、茅羽夜としても帝である異母兄に強く文句を言うことは躊躇われた。何しろ、何の後ろ盾もないただの村娘であった鈴を妃に迎えるにあたって相当な無理を頼んだのは茅羽夜であり、彼女を自ら迎えに行きたいという我が儘を決行したのも自分だ。夕凪宮の不在は公にはされていないので、こういう形で責任を取らされているわけである。婚儀を終えた直後に突然な密命を受けて七国まで行かされたのもその一端であった。
故に、茅羽夜は頭痛を抑えながらも積まれた紙の束を捌き、淡々と風早からの報告に耳と目を通す。
「こちらが宴の会場となる庭園の修繕の進捗報告です。九割方行程も終了しており、予定通りですが、それに伴って警備配置の見取り図が一部変更になっております」
「先日報告にあった舞台の修繕の件が無事に終わったか。改訂版はいつ頃出来る?」
「既に木版印刷へ回してありますので明日には担当部署へ配られる予定です」
「助かる。警備に配置移動はあるか」
「兵部省からは特に大きな変更はないとの返信が来ています。こちらがその最終決定案です」
「そこに置いておいてくれ、後で目を通す」
「畏まりました。雅楽寮の頭から外部からの楽人の受け入れが無事に完了した報告と、明日の通し稽古について舞台使用の申請が来ていますが通して宜しいですか」
「舞台の修繕が終わっているなら構わない。待たせて済まなかったと伝えてくれ」
「承知致しました、ではそのように。あと、こちらが例の件です」
茅羽夜は流れるような手付きで差し出された紙を受け取り、書面に目を通し終わると立ち上がってすぐそばの燈台にそれを焼べた。ぱちぱちと小さな音を立てながら燃えていく紙を振って火を消し、握り潰すと黒ずんだそれは粉々にばらけ、跡形もなくなった。開いた掌には火傷すら残っていない。
「……まあ、流石に十年以上も前の事だからな」
「はい」
風早が頷く。先程燃やしたものは、とある年代の雅楽寮の名簿録と転属先を纏めたものだ。ちょうど茅羽夜があの笛の音を聞いていたのは三つか四つの頃の一年程。その時代の雅楽寮に所属していた者で、例の琴の名手であったという姫と同じ年代、同郷の男が一人だけいた。
「男の名は白河清澄。四国の東南にある街の和琴工房の次男坊でしたが、紗依姫が入内した数月後に、伝手を頼って雅楽寮に入ったようです。しかしその伝手となった当時の楽師も流石に残ってはおりませんで、清澄氏自身も十二年前の冬の終わりに雅楽寮を辞しています。例の姫が亡くなった一月後です」
「わかった。ありがとう、助かった」
「いいえ、これくらい」
目を細める風早の顔は、まだ二十やそこらだ。しかし無駄のない足捌きや立ち振る舞いは影に身を寄せる者のそれである。彼は茅羽夜が九つの時に九国で出会って以来ずっと付き従ってくれているが、彼は九国の出身というわけでもない。
息を吐きながら、茅羽夜は椅子に凭れる。正直、笛の奏者がもう宮に残っていないことは、何となく予想はしていた。
茅羽夜があの離宮を出たのは六つの頃だが、あの笛の音が聞こえていたのはほんの一時だけだった。五つになる前にはもう、和琴も笛の音も記憶の片隅に追いやられていたくらいだ。
「捜しますか」
奥の部屋から湯気の立つ茶器を持ってきた風早はそれを惚れ惚れするほど美しい所作で茅羽夜の前に置いた。一口含むと酸味のある味が喉を通り、腹の中に落ちていく。疲れた体に染み渡るような暖かさが広がって、茅羽夜は小さく息をついた。
「頼む、と言いたい所だが、間に合うかどうか……」
鈴は蛍辺の宴までに何とかしたいと言っていた。宴まではもう三日もない。清澄の実家は四国の東南にある小さな街にあり、どれ程早馬を飛ばしても片道だけで宴が終わってしまう。
それに十中八九彼だろうとは思うが、確証があるわけでもなかった。先代の御代に四宮にいたという紗依姫と同郷である事まではわかったが、どのような間柄だったかまで調べるには時間が足らない。丸一日でここまで調べ上げただけでも上々である。
「紗依姫の霊か……」
「彩雲という和琴に取り憑いているとのことでしたね」
「ああ。あれは先代がその姫の為に作らせた和琴だと聞いているが、彼女から取り上げて以降はずっと宝物殿に仕舞いっぱなしだったはずだ」
「無理やり、引き剥がす事は出来ないのですか」
「出来るには出来るが……」
背凭れから起き上がり、机に肘をつくと手に持っていた茶器を置いた。茅羽夜も、鈴に比べたら真似事程度ではあるが、多少の心得はあった。
「あまりよくない。無理に断ち切ろうとすれば、魂そのものが変質するだろう。鈴もそれを恐れて、未練そのものを昇華する形で解決しようとしているんだと思うが、何分時間がない」
「陛下にお伝えしてみては」
あの和琴でなければならない理由はないだろう。しかし。
「いや、多分だが陛下は知っているだろう」
風早は形の良い眉をほんの少し吊り上げた。緩慢な動きで腹の前で手を組んで、茅羽夜は目を閉じる。
これは茅羽夜の直感であるが、陛下は彩雲に紗依姫の霊が取り憑いていて和琴が鳴らないことを知っている。茅羽夜が独自の情報網を持っているように、彼も凡ゆる手を忍ばせているのだ。そもそも慎重な性格である彼が、仕舞いっぱなしだった和琴を調弦なしに璃桜に渡すとも思えなかった。
そして当然ながら、真陽瑠も承知しているだろう。後宮内の事の八割は真陽瑠に知られていると思って良い。鈴はバレていないと思っているかもしれないが、璃桜の方は初めから真陽瑠に筒抜けである事は理解しているだろう。彼女はおっとりしているように見えて、その実聡い女性だ。
「……試されているんだろうな」
「東宮妃様がですか?」
「私達が、だろう」
鈴からしても茅羽夜からしても、心底迷惑な話だと思う。東宮の席など自分にとっては枷でしかない。他の誰かに譲れるならば諸手をあげて譲ってやりたいと常々思っているのに。
早く帝に子でも出来れば良いのだが、今上帝が即位して六年、未だお子が生まれる様子はなかった。最初の一、二年は確かにそれどころでもなかったので誰も何も言わなかったけれど、治世も安定した今、世継ぎの誕生は急務だろうと左大臣あたりがせっついている事も知っている。
とっとと御子を作って東宮に据えて、茅羽夜を臣下に下ろしてくれたらいいのに。他家としても、その方が安心だろう。
はあ、と重い息を吐き出すと、風早は静かにお茶のお代わりを注いでくれる。それを飲み干してから、もう少し書類を片付けようとした時、不意に細い音が耳に届いた。つい、と顔をあげると、風通しを良くするために蔀が上げられており、そこから風に乗って届いたようだった。それは遠くてか細いが、笛の音に聴こえた。
椅子から立ち上がって茅羽夜は上衣を羽織る。時刻はもうすぐ子の刻が近い。
「どちらへ」
「以前私がいた離宮に」
「お供致します」
と言いながらも、今からですか?とその目が言っていた。そんな時間があるなら早く休めと言わんばかりだが、止めるつもりはないようだ。
「しかし殿下、一言申し上げてよろしいですか」
「なんだ」
「出られるなら、きちんと正門を通って下さい。最短距離で行かれるのは困ります」
今し方廂から勾欄へ足を掛けようとしていた茅羽夜は内心舌打ちをしながら回れ右をして、正規の出入り口へ向かう。東宮からかつていた離宮まで行くには白耀殿の裏手にある森を突っ切って行った方が速いのだが、生真面目な従者はそれを許してくれない。優秀な部下なのだが、融通がきかないのが玉に瑕だ。
「私はどちらで?」
「そのままで良い。どうせ誰も居ないだろうし時間が惜しい」
「畏まりました」
早足で向かうと、何度か見回りの衛士に遭遇したが、茅羽夜も風早も咎められる事なく離宮へ辿り着いた。
内廷の後宮側の壁の近くに建てられたそれは離宮というより、物置小屋を大きくしただけのような、粗末な殿舎だった。茅羽夜がいた頃はもう少しましだったが、住人を失った建物はあちこちが錆び付き、床の一部は腐りかけているようだった。戸は歪み、隙間から何やら獣の匂いもする。山から降りてきたものが住み着いているのかもしれない。
近くには森に囲まれた大きな池があり、白龍山の山頂付近に湧き出る湖からそのまま小さな滝となって流れ込んでいる。その為、昔から湿っぽく夏は涼しいが、冬は体の芯から凍える程冷え込むのだ。
此処へ足を運ぶのは、実を言うと六つの時に出て以来、初めてのことだった。特別思い入れがあるわけでもなく、茅羽夜にとって此処で過ごした六年は正直言って、時々手に取って珠玉の記憶のように思い返したいものではない。
手燭を持った風早がゆっくりと周囲を見る。茅羽夜は離宮をぐるりと周り、後宮と内廷を隔てる壁の方へ向かう。
するとそこに、一人の男が立っていた。
年の頃は二十歳を少し過ぎたといった所だろう。黒に近い深緑色の上等な衣を纏ってはいるが、文官にしてはやけに体格が良く、無造作に結い上げられた髪は赤茶っぽい色をしていた。
男はじっと後宮の方を見上げていたが、茅羽夜達に気付くとひどく驚いたように目を丸めて後退る。
男の手には、白い横笛が握られていた。
「まて、危害を加えるつもりも誰かを呼ぶつもりもない。話がしたいだけだ」
「……」
「かつても此処で笛を吹いていなかったか?具体的に言うと、十二年程前くらいに」
「……アンタは誰だ」
警戒を滲ませた声で誰何する。聞きたいのはこちらなのだが、と茅羽夜も思ったが、先程彼にも言ったように争う気はない。むしろ逆だ。手で後ろの風早を制しながら、茅羽夜は男に近寄る。
「私の名は茅羽夜という。東宮御所の者だ」
「東宮……?」
「お前に話を聞きたい。紗依姫という者を知っているか」
僅かに息を呑む音が聞こえて、先程の茅羽夜の問いが間違っていなかったことを悟った。そもそもこんな場所にやってくる物好きはそう滅多にいるものではない。
「……俺に何を聞きたい?」
未だ警戒は解けていないものの、話を聞いてくれる気にはなったらしい。茅羽夜は壁の向こうを見上げる。かつて、あの場所にいた哀れな少女を。
「紗依姫を救ってやってくれないか」




