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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
二章 まどいの星々
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 廂の勾欄に凭れかかったまま、鈴はぼんやりと考え事をしていた。降り頻る雨はもう止み、新月である今日はいつもは月明かりに翳っている、満点の星々がきらめいており、普段は見えない小さな粒までよく見えた。

 頰を撫でる風は湯上りの火照った体をやんわりと冷ましてくれ、鈴は随分と伸びてきた髪をあの黄玉と菫青石の簪で結い上げ、翳で首筋に張り付いた汗をあおぐ。


 蛍辺の宴は、もう間近に迫ってきていた。

 このままでは事の一件が耳に入るのも時間の問題だったが、どうしても後一歩、何かが足りない気がして鈴はゆっくりと目を閉じる。そして和琴に取り憑いた紗依姫の面影を思い浮かべ、無意識に首飾りを指でなぞりながら、意識を潜らせる。

 どうして紗依は命を絶ったのか。

 目を斬られ、和琴を弾く事が叶わなくなったからか。ならば何故、冬まで命を絶たなかったのだろう。

 彼女が斬られたのは蛍辺の宴の直後だというなら、ちょうど今頃だ。冬の初めまで季節はひとつ分もある。

 命を絶つ方法が見つからなかったのか。盲目ならば確かに毒を用意するにも、首を吊ろうにも、刃物を手にするのも難しい。そう思ったら、せせらぎの音を頼りに池へ向かうことは、一番楽そうだ。

 冬の池は冷たく、きっと一瞬で彼女の体温を奪っただろう。元々体が弱い姫だったなら、尚更だ。しかし夏だろうが秋だろうが人は長い間水の中で呼吸は出来ない。近江のいない隙に壁を伝って殿舎から抜け出して、身を投げる事くらい冬まで待たずとも出来そうだと思った。

 そして、どうして彩雲に取り憑いているのか。

 どうして演奏を途中でやめてしまうのか。

 必要な星はもう掌にあるのに、それを繋ぐ一粒が見えないままだ。


「……鈴?」

 ふと呼ばれた気がして瞼を持ち上げると、すぐそこに、茅羽夜の顔があった。一拍、二拍。三拍目でようやく我に返って、うっわ!と姫らしからぬ声をあげて思わず仰反る。

「ごめん、寝てるのかと思って。流石に風邪引くから、寝台へ連れて行こうと」

「び……っくりした……」

 早鐘を打つ心臓を宥めにかかるも、中々落ち着いてくれそうにもなかった。考え事からの真正面の近接は心臓に悪い。

 なんとか落ち着こうとゆっくりと深呼吸している鈴を、茅羽夜はいつもの真顔で眺めている。

「何でここにいるのよ……」

 ここ数日は奇襲、もとい御渡りもご無沙汰であった。しかし先日の別れ際のことがあったので、やはり怒らせただろうかとか色々考えていただけに、何でもないように顔を見せてくれた事にほんの少しほっとしたのも事実だった。

「また来るって言っただろう」

「言ったけど……」

「それに空鷹が、鈴が寂しがってるって言うから」

(お義父様が!?)

 予想外の斜め後ろからの攻撃に頭が混乱する。何故、どういうことだと考えて、はっと思い出す。先日書いた手紙に、茅羽夜はどうしているか聞いたのだった。それに対しての返信はなく、鈴もすっかり書いたことを忘れていた。

 まさか本人を寄越してくるとは。もしや「遣いをやる」というのは、これの事も含まれていたということなのか。

 しかし、誓って言うが、鈴は茅羽夜が顔を見せなくなって寂しいとは一言も書いていない。何なら茅羽夜だけでなく、縁寿や松葉も元気にしているのかとしたためたはずだ。どう湾曲して受け止めたらそうなるのか、義父にもう一度手紙を書くべきか悩むところだ。

「寂しかったのか?」

「いや、別にそういうわけじゃないけど……」

「けど?」

「……変な事言ったから、ちょっと気にしてただけよ」

「?」

 首を傾げる。なんのことかわからないらしい。察しが悪い。

「忙しいなら、無理に来なくていいって言ったやつ」

「ああ、別に気にしてなかったが」

「あ、そ」

「忙しくても来るからな」

「いやそこはちゃんと屋敷で寝なさいよ。また忙しいの?」

「まぁ少し。蛍辺の宴の運営にも駆り出されてる」

 意外な返答だった。しかし警護の配置確認や楽人の手配、造園の修繕など、やる事は多そうだ。東宮はそんなこともやらされるのか。

 しかし普通、楽人といったら治部省の雅楽寮の領分だろうし、警護は中務省の舎人の領分だったはずだ。造園は宮内省だったか。忘れてしまった。なんだってこんなに部署が多いのだろう。

「陛下は多分、東宮を体のいい雑用係だと思ってると思う」

「でも東宮は殆ど公務には携わらないって聞くけど」

「夕凪宮としてはな。茅羽夜としてはあちこち行かされる」

「ああ、そういう……ねえ、あなたちゃんと寝てるの?」

 そっと茅羽夜の目の下を指でなぞる。ここまでくるのに覆面をつけていたからだろう、彼は菫青殿にくる時には眼帯をつけていない。だからいつもは隠れている黄金(こがね)の左目も、左瞼に浮かぶ鱗のような肌も、少し手を伸ばせば見えた。

 今日は月がないから、彼の左目がまるで夜空の月のようだ。

「隈、酷いよ。あまり寝てないでしょう」

「元々寝が浅いんだ」

「そうなの?こないだはぐっすり朝まで寝てたのに」

 茅羽夜が寝落ちた時のことだ。布団をかけても鈴が隣で寝てても彼は全く起きず、そのまま小鞠が起こしに外から声を掛けるまで、彼は鈴の褥の中にいた。勿論、余程疲れていたというのもあるだろうが。

「鈴のすぐそばだと、よく眠れる。夢を見ないから」

「ゆめ……?」

「龍の血に苛まれる夢。毎夜ではないけれど、子供の頃からずっとある。もう慣れた」

 端的に言う声音にはなんの感情も読み取れなかった。輿入れの際に、鈴が水の中を歩いて降りた時の夢────あれがもしかして、そうなのだろうか。あんな痛みを夢の中でずっと?

 そっと労わるように目の下を撫でていた指を頰にやると、茅羽夜は擦り寄るように目を閉じて鈴の手に頰を寄せた。甘えたい時の北斗や天草のようだ。そのせいか、何だか滅多に人に懐かない獣を手懐けた気分になる。

 あながち間違ってないのかもしれない。

「……そういえば、いっときだけ夢を見なかった時期もあったな。三つか四つかくらいの時だ」

「そんな昔の事、覚えているの?」

 鈴なんてそんな昔のことはさっぱり覚えていない。

 十年前の六つの頃、茅羽夜を介抱した時の記憶だって、助けたと言う記憶はあるがどんな会話をしたかとか、細部までは怪しかった。

「断片的なものだけど覚えている。たぶん、龍の血のせいだと思うんだけど。あの時はずっと、毎夜和琴と笛の音が聞こえていたんだ」

「和琴?……笛?」

「ああ。後から聞いたら、先代の四宮に和琴の名手がいたらしい。俺が閉じ込められていた離宮は内廷の後宮側の端だったから、たぶんそこから聴こえてきたんだと思う。でもいつしか和琴の音色が聞こえなくなって……それでも笛の音は聞こえていた。毎夜、ずっと」

 紗依姫だ。しかし笛の音色は初めて聞く話だった。胸の奥で何かが騒ぐ。

 ────もしかしてその笛が、彼女の心残りなのか。

「ねえ、その笛の奏者が誰かわかる?」

「さあ……毎夜聞こえてきていたから、当時の雅楽寮の者だとは思うが……でも変わった吹き方をする者だった。和琴の方も、それに合わせて弾くような……ああ、そうだ、会話しているみたいだった」

 相手が弾けば、笛が響く。笛の音色に、和琴が応える。絶対に会える事のない、隔てた世界で何の気兼ねなく交わせる唯一のものが「音」だったのだとしたら。

 それが本当だとしたら、紗依姫のあの顔は。

 先帝が彼女を裁った、理由も。

「茅羽夜、その……」

「笛の奏者?」

「うん……忙しいのは、重々承知しているんだけど、困っている人がいるの。何とか、蛍辺の宴までには助けて差し上げたくて」

「いいよ。調べてみる」

 あっさりと言う。頼んでおいて言うのもなんだが、こんな隈を作るくらい忙しいのに、厄介な調べ物を増やして大丈夫なのだろうか。

「自分で言うのもなんだけど、茅羽夜って、どうしてそんなにわたしに甘いの?こないだも結局、杏を一口も食べなかったでしょう」

 何となく理由は鈴もわかっていた。鈴が杏を好きだからだ。でも鈴としては、好きなものだからこそ、茅羽夜にも食べて貰いたかったのだが。

「本気で言ってるの、それ」

 閉じていた左右で色の違う眼が「わからないの?」と言わんばかりに、呆れたように鈴を見る。頰に添えたままの手は上から茅羽夜の手を重ねられて、そのまま固定されてしまった。雪のような白い手は、思っていた以上に大きくて、節くれだっていて、熱かった。全然、雪のようじゃない。

 ふと思い出す。ああ、そうだ、あの時、妃に来てくれと希われた時も、握られた手は熱かった。そしてもっとずっと前も、こうした気がする。うまく思い出せないけれど。

 雪のようなのに、雪みたいに冷たくないのだと、思ったような記憶があった。

「だっていつも、帰っちゃうじゃない……」

「朝まで此処に居て良いの」

「こ、こないだは、朝まで、いたでしょ。茅羽夜が寝落ちたとき」

「一緒に寝るだけ?」

「…………いや、こないだ寝落ちたのはどこの誰よ」

「まあ、あの時は本当に何日も寝てなかったから……限界だったんだ。鈴に簪を渡せて、気が緩んで……」

「限界なのは今もでしょ。何度も言うけど目の下、すごい隈よ。少し寝て行ったら?」

「……さっきの流れでそれを平然と言うのが鈴のすごい所だと思う」

「ごめんなさいね、色気も何もない女で」

 こっちは心配しているんだけど。思いっきり睨め付けると、茅羽夜が微かに笑う。本当に、本当に僅かに口角を持ち上げただけのわかりにくいものだったが、鈴の鼓動を速めるには充分すぎるものだった。

「なら、少し……寝ていっても良いかな」

 鈴が承諾する前に、茅羽夜は一度手を離してそのままぽすんと鈴の太腿に頭を乗せた。以前、鈴が彼の頭を無理やり乗っけた時とは反対に固まるのは鈴の方だった。仰向けになった茅羽夜はそのままお手上げみたいな体勢で固まる鈴の左手を取って、指を絡めて目を閉じた。

「ちょ、ま、まって此処で寝ないで。わたしじゃ茅羽夜を抱き上げて寝台まで連れていけない」

「いいよ、此処で。ちょっと寝たら、戻るから」

「えっ帰るの?」

「うん」

 もしかしてさっきの話をちっとも聞いていなかったのだろうか、この男は。半眼になって見下ろしていると、目を閉じたままの茅羽夜が若干睡魔に負け始めた声で、ぽつりと。

「……多分、今そっちに行くと、寝れなくなっちゃうから」

 そう言い終わるか否か、規則正しい寝息が聞こえてくる。左手は勿論繋いだままで、彼の微かに上下する胸の上に置かれていた。

 そういうとこだぞ!ほんとに!と叫びたいのをぐっと我慢して、最後には仕方ないなあ、と鈴は茅羽夜の白い額を指で撫でた。


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