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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
二章 まどいの星々
32/114

 翌日、わざわざ菫青殿まで出向いてくれた璃桜が、駄目でしたといって首を横に振るのを見て、鈴も僅かに落胆した。そう簡単な話ではなかったようだ。

「侍女総出で片付けさせ、一晩見張って見たのですけれど、やはり同じでした」

「えっ 一晩ずっと?璃桜様が?」

「はい」

 平然と頷いてみせる。本当に、あの二間もない小さな殿舎で一晩過ごしたらしい。

 璃桜しか彩雲の音を聴けないとはいえ、幽霊と同じ部屋で夜を明かすのは中々勇気がいる事だろう。今のところ紗依が執着を見せるのは彩雲に対してのみだが、いつ変質して人へ危害を加えるようになるか分からないというのに。

 鈴は璃桜に対しての評価を改めなくてはならなかった。ふわふわとした姫君の顔をして、彼女は思いの外肝が据わっており、その天女の顔の下には強い好奇心が住んでいるようだ。

「彩雲を弾くというのが未練そのものではないようですね……」

「物、場所でなければあとは……人でしょうか」

「紗依姫周辺のお話が聞けたらいいのですけれど。璃桜様はどなたか先代の頃から四宮に勤めていた侍女か女官がいないか、ご存知ではないですか?」

「ごめんなさい、わたくしにも分からなくて……でも名簿は残っていると思いますし、もしまだ居られるようなら配属先も書かれていると思います」

「名簿」

 はっと鈴は気が付いた、そうだその手があった。

 小鞠を呼んで、鈴は早速筆を取った。宛名は中務省長官である九条家当主、空鷹───つまり、鈴の養父である。



 返事はすぐにきた。空鷹の字は大変に流麗で、彼の人柄が如実に現れていて、鈴はまだ数回しか会っていないこの養父をとても好ましく思っていた。

 帝の政務を助けるこの官庁は後宮女官の人事も任されている。

 鈴はそろそろ小鞠以外の側仕えの侍女が必要で、出来たら先帝の御代から長年仕えている古参の者がよい、といった趣旨の文をしたため、それを理由に女官の名簿を閲覧する許可とその件について相談したい旨を送った。勿論名簿を閲覧する為に適当に作ったそれらしい嘘である。手紙も誰が見るか分からないので、用心にこしたことはなかった。

 空鷹からの返信は「遣いを送る」といった簡素なものだったが、鈴が宮中で恙無く過ごせているか、足りないものはないか、気になっていることはないかなど、丁寧に書かれていた。

 また文末には「真玲にも良かったら手紙を書いてやって欲しい。貴女の事をいつも気にしている」と締められており、血の繋がりはないが、養父母の気遣いにじんと胸が暖かくなる。今夜早速、お義母様にも手紙を書こうと思った鈴だった。

 その遣いとやらの正体もすぐに判明した。予想はしていたが、翌日菫青殿を訪れたのは縁寿だった。彼は東宮付きの医官の筈だが、何だかすっかり鈴と空鷹との間を繋ぐ使いっ走りになっている。大丈夫なのかそれは。

「以前四宮に勤めていた女官ですが、殆ど宿下りしておりました。しかし一人だけ、まだ宮仕えをしている者がおりまして」

「その方は今どちらに?」

「縫殿寮の糸所におります、近江(おうみ)という女官です。先代の御代では四宮に住んでおられた紗依姫の侍女をしておられたようです」

「!」

 紗依姫の侍女がまだ宮城に残っているとは僥倖だ。身を乗り出して、縁寿の手元の名簿録の写しを見る。

「その方に、お話を伺えない?」

「畏まりました、早速連れて参りましょう」

「あ、縁兄……縁寿殿、四宮様もご一緒していいかしら」

「構いませんよ」

 璃桜に遣いをやり、縁寿がひとりの女官を連れ立ってやって来る頃に、ちょうど彼女も菫青殿にやってきた。

 近江と申します、そう言って服令した女官は、真陽瑠よりひとつふたつ歳下だろうといったくらいの若い女性だった。突然、訳もわからず東宮妃と中宮に呼び立てられ、緊張の色が浮かんでいる。

「そんなに緊張しないで。貴女にお聞きしたい事がありますの」

「はい、何なりとお申し付けくださいませ」

「貴女は先代の御代で、紗依姫の侍女だったそうね?」

 はい、と頷く近江の顔色はあまり良いとは言い難い。容姿通りの三十頃であるならば、紗依に仕えていた頃は十五やそこらの娘だったはずだ。主君が入水で亡くなるというのは、自殺や暗殺の多い後宮においても、やはり心に遺るものだろう。溌剌とした真陽瑠よりも、やや疲れて老け込んでいるように見える。

「もし良ければ、紗依姫のお話を聞かせて下さらないかしら」

「それは、その……構いませんが」

 今更何故聞きたいのか、知りたがっている顔だった。鈴と璃桜は顔を見合わせて頷く。

「彩雲という和琴を覚えていらっしゃるかしら?」

「ああ、はい。先代から姫様に下賜されたものです」

「その彩雲に紗依姫の霊が憑いているの」

 近江は目を大きく見開いて、わかりやすくざあっと蒼褪めた。まあ、普通そういう反応だろう。

 鈴は昔から術師として育てられてきたので慣れているが、普通幽霊というものは只人には見えないし、何かの媒体を得て可視化出来るようになってもその者が近しいものでなければ大抵は拒否するものだ。璃桜のような平然としてる人間の方が稀なのだ。

「紗依姫は……未だ迷って、おられるのですか?」

「ええ。でも、いつまでも迷っているのは彼女にとっても良くないことです。わたくしも、何とかして幽世へ送って差し上げたいのですが……貴女は、彼女が何を想っているのか、ご存知でいらっしゃる?」

 一瞬、近江は迷ったように視線を這わせる。しかし、すぐに「いいえ」と首を振った。

「あの、紗依姫はどのような方だったのでしょうか?」

 鈴が訊ねると、近江はいくつも歳下の少女をまじまじと見た。中宮である璃桜よりも、年若い鈴のほうが話しやすいと思ったのかもしれない。まだやや青褪めてはいるが、次第に話始めた。

「紗依姫様はとても、繊細な御方でした。人見知りの激しい方で、年頃が近いという理由でわたくしはお仕えすることになり、わたくし以外にはいつもどこか怯えておられるような方でした。元々身体の弱い方だったので、行事にも他の姫様とも交流はあまり深くなく……」

 それで先代が彩雲を与えてやったのだという。

「それ以降は一日の大半を彩雲と共にお過ごしでした。四宮にはいつも紗依様の和琴の音色が響いておりまして、当時の四宮様もそれはそれは褒めてくださり、当時にしては珍しく、お二人の関係も良好でいらっしゃいました。当時の四宮の主人であった姫様は舞がお好きだったので。先代も……」

 近江は一度唇を結ぶと、視線を彷徨わせる。彼女がちらりと見た方向には、四宮がある方面だ。

「……いいえ、何でもありません。紗依姫が亡くなったとき、わたくしは水甕に水を汲みに行って、殿舎を暫し離れておりました。わたくしの他に側仕えもおりませんでしたし、紗依様のお住まいであった殿舎は母屋から随分と離れておいでだったので……」

「彼女は本当に自ら命を絶ったのですか?」

「それは……わかりません。わたくしも、冷たくなった姫様を発見しただけで彼女がどうして池の側に行ったのかまでは」

「けれどなにか、命を絶つかもしれない程の理由はあったのね」

 はっと近江は口元を覆った。入水自殺してもおかしくない、そう噂されるだけの理由が紗依にはあったのだ。

 鈴は彼女の住んでいた殿舎のそばにあった池を思い出す。七宮程ではないが、それでも向こう岸まで行くには迂回せねばならないほど大きく、深い池だった。道は整備されておらず、足場も決していいとは言えなかった。母屋へ行こうとして足を滑らせて……という可能性は低くないはずだし、そもそも入水しそうな理由がなければ、他の宮まで届く程の噂にもならないだろう。

「近江様、どうか……あのままではいずれ、彼女は悪鬼に堕ちてしまいます。そうなれば、もう幽世へも渡れなくなってしまう」

 悪鬼に堕ちれば、もう鈴でも送ってやることは出来ない。人に仇為す前に滅するしかないのだ。しかしそれは、鈴としても最終手段にしておきたかった。滅した魂は黄泉へ渡れず、輪廻からはずれ、もう二度と巡ることはないからだ。

 鈴の声に何かを感じ取ったのか、近江はやがて顔を上げた。

「姫様は、目が見えなくなってしまわれたのです」

 長い沈黙の後、近江は絞り出すような声で、ぽつりと言った。

「目が……?」

「はい。先帝の怒りを買って」

「まさか」

 璃桜が息を呑んだ。見れば縁寿も眼鏡の奥で悲痛な色を浮かべ、僅かに頷いて見せる。内薬司に記録が残っていたらしい。

「────斬られたのです。目元を」

「そんな……」

 何て酷い。鈴の胸の内に、形容しがたい嫌悪感が落ちる。それは近江も同じらしく、膝の上で拳を握ったまま彼女は震える声で話し始めた。彼女の声を震わせているのは、怒りだった。

「あの日は、蛍辺の宴が終わった頃でした。陛下───先帝陛下は、四宮様の主催した小さな宴にご出席しておいででした。四宮様が舞手を務め、紗依様が和琴の奏者をお務めした、ほんに小さな宴です。しかし陛下は突然、和琴の音が悪いと言って、その場で紗依様の目をお斬りになったのです。紗依様は彩雲を取り上げられ、しばらく傷が元で熱に伏せっておいででしたが、何とか一命を取り留めました。しかし目が覚めたときには既に光を失って……もう、二度と、他の琴も爪弾く事は叶わず……それまで毎日、弾いておられたのに……」

 同じ年頃というくらいだから紗依も十代の半ば頃だろう。親元から離れ、後宮の数多の妃のひとりに並べられ、唯一の和琴も取り上げられて。

 挙句世界の色まで奪う必要性が一体どこにあったというのか。紗依に一体どんな罪咎があったというのだろう。

 確かにそれは、世を儚むには充分過ぎるほどの理由だった。

 けれど、ならば彼女の未練とは何だろう。彩雲に未練があるのは和琴に憑いている以上間違いない。彩雲は既に彼女と共にある。思う存分弾く事が未練でないなら、今も尚彼女を繋ぎ止めているものは。

 演奏を途中で辞めてしまう理由とは────。

 泣き出した近江の肩をそっとさすってやると、彼女は暫く啜り泣いていたものの、小鞠が持ってきたお茶を飲むと少し落ち着いたようだった。

 申し訳ございませんと謝罪し、縁寿に連れ立って、菫青殿を退出した。

「あの、最後に聞かせて。その宴があったのは、亥の刻限頃かしら」

 鈴が問うと、それに近江は泣き腫らした顔で「いいえ」と首を振った。

「ですが姫様は毎日、亥の刻になると彩雲を弾いておいででした。毎日、欠かさず」


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