彩河 一
夏至を過ぎて夏越の祓えを終え、じめじめとした梅雨が通りすぎると、宮から見上げる空は一気に夏となる。
土から這い出た脂蝉が暑さを駆り立てるように鳴き始め、小鞠が持ってくる衣装も袷から生絹の単衣へ変わり、蔀戸を開けると目映い程の陽光が目を焼くのに、不思議と水の匂いが濃くなっていく。
「蛍辺の宴?」
鈴がそう聞き返すと、葵依はええ、と頷いた。葵依の纏う縹の単衣に藍色の袴は目に涼しく、南国育ちである彼女にとって京の夏は別段苦にならないようだった。かく言う鈴も西国出身な為、そこまで暑さに参ってはいない。
鈴は持参した甜瓜を紅玉殿の侍女に小さく切り分けて貰い、歯で噛み潰すと甘い水気が口に広がるのを楽しんでいる。さっぱりとした西瓜もいいが、これはまた格別の甘さだ。
切ってくれた侍女は玉野といって、六宮でも葵依に付き添っていた二十代後半ごろの女性だ。ぱっと目を引くような美人とまではいかないが、切れ長の一重に癖のない髪をひとつに纏めあげ、ハキハキと物を喋る声が実に好ましいと鈴は六宮の件から思っていた。聞けば玉野は葵依が七国にいた頃からずっと世話をしてくれているらしく、真尋の事も当然知っている。
星鴉の一件以降、葵依も玉野も、鈴に対して他家の姫以上に良くしてくれて、鈴がたびたび紅玉殿を訪れる際にはいつも甘い菓子とお茶を用意してくれていた。
「陛下がご主催になられる蛍見です。今年は東宮殿下が妃をお迎えになられたので、いつもより力を入れてらっしゃるようですよ」
「それはわたし達も招かれるの?」
「勿論ですわ。後宮を出られる数少ない行事ですもの」
葵依も甜瓜の一欠片を口に含んで「あら、美味しい」と微笑む。喜んで貰えて何よりだ。
「昨日、茅羽夜が持ってきてくれたのよ」
「東宮殿下が?」
「そうなの。また一報もなしに夜半に現れたかと思えば、こんな大きな甜瓜を抱えてて、びっくりしちゃった」
身振りで円を書いて見せると、葵依は大きな紫檀の目を丸めて、そして袖の向こうでふふと笑みを溢す。葵依は星鴉の夜に暗がりではあったが茅羽夜と顔を合わせており、今では小鞠に次ぐ鈴の良き相談相手となってくれている。
本来なら口調ももっと畏まらねばならないのだが、これは葵依本人の希望だった。鈴としても、気を緩めて話せる相手は貴重なので、お言葉に甘えさせて貰っている。
「東宮殿下の事は噂程度であまり存じ上げなかったのですけれど、初菫様のお話を聞いていると、とても素敵な御方だというのがよくわかります」
「そう?」
「はたから見ても、初菫様の事をとても大事にしてらっしゃるもの。先日の噂の周りようは凄かったですわね」
葵依の言葉に「うっ」と鈴は言葉を詰まらせて、視線を逸らす。
人嫌いで有名な東宮、夕凪宮が菫青殿で一夜を明かしたという噂は翌日には瞬く間に後宮どころか朝廷にまで鳴り響き、どこへ行っても噂される為、鈴は暫く外出を控える程だった。一躍、時の人ですねと小鞠にも散々からかわれた後だ。
初めは心臓が口から飛び出しそうな顔をしていた小鞠も、段々と茅羽夜の襲来に慣れてきたのか、冷静に鈴に渡すようになっていた。つまりそれだけ、茅羽夜は足繁く菫青殿に通っているのだった。
刻葉は毎回、一報を入れない茅羽夜に鋭い小言を投げ掛けているのだが彼はどこ吹く風である。東宮にあれ程お小言を被せられる刻葉も凄いが、あの針でちくちくと刺すような嫌味を聞き流せる茅羽夜はもしかしたらかなりの大物なのかもしれない。
しかしそうなるとまた、周囲は「あの東宮殿下が妃の元へ足繁く通ってる!」と騒ぐのだった。茅羽夜の無愛想、朴念仁、人嫌いの噂は鈴の想像以上に根深く浸透していたらしい。
「もっと冷たい御方なのかと……ああ、いえ、すみません」
「いいのよ、実際愛想がいい方ではないもの」
「でも初菫様には随分打ち解けていらっしゃるようで、陛下も安堵しておいででした」
「陛下が?」
思わぬ方向に鈴は驚いた。
顔どころか未だお声すら聞いた事のない、天上の御方。茅羽夜の異母兄であるのだから、鈴からしても義兄に当たるのだが、雲の上の存在過ぎてどうにも実感がわかない。
でもそうなると目の前の葵依は兄嫁だ。もっと不思議な感覚だった。
「ええ。先日の見舞いに来て下さった時に。人付き合いの苦手な子だからと心配しておいででしたが、杞憂だったと仰っておられましたわ」
「何だか恥ずかしいわ……」
「まあ、どうして?仲睦まじくて、良い事ではありませんの」
そういうと、葵依はそっと目を伏せた。真尋の事を思い出しているのだろう。
こういう時、鈴は努めて明るい声で話題を変えるよりは、静かに庭の方を見るようにしている。悲しみや痛みは、彼女が一生寄り添っていくものだと理解しているからだ。
紅玉殿の庭は、七の宮に相応しく、夏の花々で彩られていた。囲いの紫陽花は既に見頃を過ぎてしまったが、組んだ木枠に蔦を這わせた朝顔の青と池の辺りに咲く菖蒲の紫は充分美しかった。
池に渡した朱色の橋の向こうには小さな水車もあり、せせらぎが耳に涼しく、涼夏の七宮と呼ばれるだけあって実に夏の涼を取るのに適した庭となっている。部屋には白い葵が生けられており、これは七宮の葵依になぞらえて、陛下が贈ってくれたものらしい。この辺が流石である。
茅羽夜が寄越したものといえば簪と、あとは大抵食べるものか菓子だ。どうやら茅羽夜は鈴に菓子を与えておけば大人しいと思っている節がある。あながち間違いでないのが何とも癪なのだが。
「あ、そうだわ蛍辺の宴ですけれど、璃桜様が今年も演奏して下さるとお聞きしまして。初菫様は、お聞きになったことがありまして?」
「四宮様の?いいえ」
顔合わせの際に会っただけの春の化身のような眼差しを思い出す。四月朔日家は雅楽に秀でた者が多い。
「あの御方の演奏は本当に素晴らしいのです。特に和琴は、彼女の爪弾く音を聞くと他の音では物足りなくなる者も多いのですよ」
「そんなに?楽しみだわ」
「ええ、わたくしも、毎年楽しみにしていますの。蛍も綺麗ですけれど」
「そういえば蛍辺の宴には、茅羽夜も出席するものかしら」
公の場には殆ど出ないと聞いていたが、陛下が東宮の婚儀の祝いのために力を入れているというくらいだから、欠席するのは流石に礼を欠くだろう。
と、思うのだが、茅羽夜なら普通にすっぽかしそうで怖い。
葵依は少し困ったように頰に手を当てる。
「昨年までは欠席なさってましたけれど……」
「やっぱり……」
「ですが今年は出席なさるのではないかしら。何しろ初菫様がおられますし」
「わたし?」
「ええ、だって流石に、初菫様が出席してらっしゃるのに、隣を空けるわけには参りませんでしょう?」
「そうかしら……」
鈴がいた所で出ない時は出なさそうだ。御簾が下げられるといっても、夏場にあの覆面布は絶対に蒸れて辛そうだし、あと単純に彼は「東宮」として人前に出るのが好きじゃなかった。茅羽夜であるなら良いらしい。その匙加減までは未だによくわからなかった。
* * *
その日の夜、暑さにそこそこ耐性があるとはいえ蒸し暑い無風の夜は寝付きが悪く、鈴は廂で団扇を仰ぎながら夕暮れから降り出した雨を見ていた。
そこへ珍しく二日続けてやってきた茅羽夜は、相も変わらず何も報せも寄越さずふらりと現れ、恒例となった刻葉の小言を右から左へ受け流しながら鈴の寝室のある奥の母屋まで歩いてきた。強者である。神経の太さが人の何倍もありそうだ、と鈴は仰ぐ手を止めずにそれを眺めている。最早菫青殿では見慣れた光景になりつつあった。
茅羽夜は手に小さな笹の葉にくるんだ包みを持っており、そばに来るなりぽんとそれを鈴の手に置いた。
開いて見れば黄粉を塗した一口で食べるのに丁度いい大きさの餅が幾つもある。葛餅だ。この時期、冷やして食べるととても美味しい。
「後で小鞠殿達と食べてくれ。風早、茶を入れてきてくれないか」
「畏まりました」
そう言って何の断りもなく鈴の隣に腰を下ろす。ちらりと慣れたように風早が厨に向かうのを見やってから、すぐに隣の長身の彼へ視線を戻した。
もう来る際には一報を入れろという文句はとうに言い飽きており、言っても無駄であることはわかりきっていた。諦めていないのは刻葉だけである。
茅羽夜は襟元を緩めると、庭の方へ視線を投げる。
「今夜は蒸し暑いな」
「そう?雨のお陰で少しは過ごしやすいと思うけれど」
「鈴は九国で育ったからだろう。六国程ではないにしろ、あちらの夏も随分暑かった」
「暑いは暑いわよ。でも茅羽夜も暑さを感じるのね」
「鈴は俺を何だと思っているんだ」
「だってあまり暑がっているようには見えないから。あ、でもそうだ、今度蛍辺の宴があるのは知ってる?」
ああ……と茅羽夜は短く頷いた。その声音からして、楽しみにしているというわけではないのは何となくわかった。
「蛍見か」
「四宮様が和琴を弾いて下さるそうよ」
「ああ、四月朔日家の」
「そう。すごく朗らかでお優しい姫様で、今からすごく楽しみなの。茅羽夜も来るわよね」
「陛下から、今年は必ず出席するよう言われている」
「当然よ。わたし達の婚儀の祝いでもあるって聞いたもの」
「面倒臭い……」
げんなりとした声に鈴は少し可笑しくなって笑った。
この数月でわかった事だが、茅羽夜はかなりの面倒臭がりだった。自分の格好に頓着しないのも、ひとえに「身繕いが面倒臭い」という刻葉が聞いたら眉を吊り上げること間違いなしの理由からだった。おかげでいつも跳ねている彼の髪が、単純に寝癖であることを、鈴は彼の朝の様子から理解せざるを得なかった。全く、なんという宝の持ち腐れであろうか。
「そんな事を言うものじゃないわ、せっかくの宴なのに」
「酒を飲む理由が欲しいだけだろう。同じように蛍を見て過ごすなら、鈴とふたりでいい」
「そ……そういう、ことじゃ、なくてね」
どうしてそう事も無しげに言うのか。茅羽夜の顔はわかりにくいが未だに「面倒臭い」が勝っており、照れた様子は見られない。自分一人が一喜一憂しているようで何となく癪だった。
ぱたぱたと忙しなく団扇で風を送って頰を冷ましていると、厨から風早が盆に茶を入れて戻ってきた。茶器の隣には玻璃の器に盛られた杏が乗っている。そういえば小鞠が井戸で冷やしているから後で持っていくと言っていたのを思い出して鈴は顔を輝かせた。甘やかな橙色が目に楽しい。
「茅羽夜、一緒に食べよう」
「いいのか。鈴の取り分が減るぞ」
「貴方ね、わたしがこのくらいでヘソ曲げるような食いしん坊だと思ってるの?」
「でも鈴は杏が好きだろう。前に寄った龍田の市でも杏飴を食べていた」
鈴はびっくりして、茅羽夜の顔をまじまじと見た。輿入れの際に龍田に寄ったのは三月も前の話だ。
「よく覚えてるわね」
「串焼きのたれを口元につけてたことも覚えてる」
「どうしてそういう事まで覚えてるのよ!どうせ落ち着きのない、はしたない娘だって思ってたんでしょ」
小言を言われることはだいぶ減ってきたものの、未だに刻葉から言われる叱責を思い出してふいっとそっぽを向く。
大体昔から鈴の評価は落ち着きがない、元気はあるが色気はない、旋風のような童女、だった。
「鈴はいつも、何でも美味しそうに食べるなと思っていた」
「それ褒めてるつもりなの」
「褒めてる」
「褒められてる気が全然しないのだけれど」
「それでも褒めてる。鈴が美味しそうに食べてる姿は愛らしくて、見ていて和む」
あんたのそういう所よ!と鈴は叫びたい気持ちをぐっと堪えて、茅羽夜を睨め付けるだけに留めた。耐えられなくなって橙の杏をひとつ手に取って口に運ぶと甘酸っぱさが喉を潤し、つい心がゆるむ。宮に献上されるものなだけあって、甘さも果肉の瑞々しさも今まで食べてきた中で最高級品だ。
(というか、この人がやけに食べ物を持ってくるのはそういう事だったのね……わたし、餌付けされてるんだわ。犬か猫かだと思ってるんじゃないの)
考えてから、大いにあり得ると内心はっとした。
何しろ茅羽夜は、こうして周囲の目玉が飛び出そうなほど足繁く菫青殿に通っているが、一夜を共にしたのは彼が寝入ってしまったあの夜だけだった。大抵はこうして食べ物を持ってふらりと現れては鈴に食べさせ、他愛のない話をして就寝前にはさっさと帰っていく。時々転寝をしていくこともあるが、鈴が床に入る頃には起き出して自分の殿舎へ戻っていくのだ。
鈴が東宮妃として役目を果たした事は、ただの一度もない。
それどころか隣に座るのも、微妙な距離がある。
(……妃になってくれとは言われたけれど)
簪も確かに貰ったけれど、茅羽夜から気持ちを打ち明けられた事はただの一度もなかった。茅羽夜にとって「妃にするなら鈴がいい」というのは「鈴があの時の命の恩人であるから礼がしたい」くらいの気持ちなのかもしれなかった。
人嫌いかつ面倒臭がりの茅羽夜が、見合いに嫌気がさして真陽瑠の占に出た恩人を「まあこいつならいいか」と手っ取り早く迎えたという線もなくもなかった。猫を拾う感覚で。
(あり得る……いやでもその為に西の最果てまで来る……?そこまで見合いが嫌だったとか。大きな面倒を避ける為なら多少の面倒事は厭わない人種だし……)
一度考え出すと中々止まらないのが困りものである。そうやって鈴が悶々と考えている横で、茅羽夜は風早の入れたお茶を飲み切り、すっと立ち上がった。
「では今日はもう戻る」
「もう帰るの?」
「ああ、仕事がまだ残ってるから」
「忙しいなら別に無理して来なくても……」
言ってから、しまったなと鈴は団扇で口を覆う。また可愛げのない事を言った。けれど撤回する気にはなれなかった。
茅羽夜は少し何か言いたげな顔をしていたが、うまく言葉が見つからなかったのか「また来る」とだけ残して、そのまま雨の音に紛れていく。
玻璃の杏はひとつも手をつけられていなかった。




