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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
二章 まどいの星々
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 真っ白な几帳が雨の匂いをはらんだ風に揺れて、鈴は梅雨が近いのだとぼんやり思う。水無月に入り、あれ程晴れやかだった空には今日も厚い雲がかかり、照日奈大神は御顔を隠してしまわれた。

 真陽瑠は開けられた蔀戸の向こうを仰ぎ見て、一雨来そうだの、と言った。

 鈴もそうですね、と空を見上げて頷く。

「ですが雨は悪いものを洗い流してくれると言いますから。もうすぐ夏越の祓えもありますし」

「そうじゃの、憑物を落として、七宮も早う良くなればよいが」

 脇息に凭れかかった真陽瑠は側に置いた盆からちいさな饅頭を取って口に運ぶ。みじん粉に砂糖と蜜を混ぜた柔らかい、落雁にも似た皮で漉餡を包んだもので、餡には塩味があり、またこれが甘味の中にうまく調和している。饅頭と落雁の間のような菓子だ。

 これもまた、真陽瑠が鈴を呼び出す際に、厨の者にわざわざ作らせたのだという。

「兄さ……内薬司の方々によると、七宮様は順調に回復してらっしゃるとの事ですよ。他の侍女達も、皆意識もしっかりしているようですし」

「それは良かった。これも皆、そなたのお陰よ。ほんに此度は大義であったの、初菫の。うむうむ、妾の目に狂いはなかったな!」

 むふー!と腕を組み、胸をそらして見せる真陽瑠は、とても三十過ぎには見えない程無邪気だ。並んでみるとよく分かるのだが、彼女の背丈は鈴の肩程もないのだった。それが余計に、愛らしく見えてしまう。

「お役に立てたなら何よりで御座いました。ですがその後、彼らは?」

「それがの、流石に追いきれなんだ。逃げ足の速いことでな」

「そうですか……」

 渡り部と名乗っていた占い師は先日の夜を境に、京から綺麗さっぱり姿を消してしまった。事の顛末を聞いた真陽瑠が帝へ進言し、すぐに跡を追わせたものの、彼らは商隊ごとどこかへ消え去った後だった。

 不思議なことに、少女達がもっていた瑠璃石はひとつ残らず砕け、跡形もなくなっていたと言う。鈴達が砕いたものだけでなく、全てがそうなっていたらしい。

 おかげで彼らの足跡を辿る事も出来ず、彼らの正体は依然として闇の中であった。

 しかし、八年前の宗教とは何らかの関連があるとして依然調査は進め、何か分かれば知らせようと真陽瑠は約束してくれた。今はその言葉を信じるより他にない。


「……真尋はの、妾とは唯一同胎の姉弟だったのよ」

「え?」

 ぽつりとこぼされた声に、鈴は目を見張った。まひるとまひろ。言われてみれば、名の響きは近しいものがあった。

 先帝の妃は多かったが、同胎の兄弟は少ないと聞いている。十四名居た皇子達は皆、母が違うというのだから驚きである。皇女や私生児を含まれていないことを考えると、軽く眩暈がしてくる数だ。

「ほんに幼い頃は共に育ったが、彼奴が十になるかならんかくらいの時に、七国へ療養を兼ねて引き取られたのじゃ。生まれつき、少し身体が弱くてな。まあ七国の水が合ったようで、元服する頃にはすっかり逞しくなっておったがのう。再会した時の事を今でもよく思い出すぞ」

 懐かしむように遠くを見る真陽瑠の横顔から目を逸らして、鈴はお茶を一口含む。

 真尋は月黄泉様の統べる彼の国へ無事に辿り着けただろうか。

 魂は河を渡り、海を降って、いつかまた新たな命として巡る。それが正しいことだ。いつまでも彷徨っていては、葵依の執着に当てられて、いずれ遠からず彼も悪鬼へ身を落とすことになっていただろう。生者の妄執は、死者にとって毒である。

「だからそなたには、本当に心から感謝しておるのじゃ。あの子を……あの子らを救ってくれて、ありがとう」

 鈴は緩く首を振った。

「彼らはお互いがお互いを、救ったのです。わたくしは二人を隔てていた壁を一瞬取り払っただけで」

 まあ水もぶっ掛けたが。

 そういえば、あれからすぐに湯浴みと着替えに連れて行かれた為、鈴は茅羽夜とまだまともに話すらしていない。一体いつ帰ってきて、菫青殿に忍びこんだのか。自分に何か言う事はないのか。鈴としては言いたい事は山のようにあるのだが。

 鈴のやや剣呑さを帯びた菫色に気付いたのか、真陽瑠が「そういえば」と手をひとつ叩いた。その仕草ひとつとっても、とても三十路を過ぎた妙齢の女性とは思えない愛らしさがある。勿論良い意味で。

彼奴(あやつ)も戻って来ておったの。今ちと空けておった間の雑務に追われて手が離せんようだが、それもそろそろ落ち着くであろう」

「……そうですか」

 声に変な不機嫌さが乗ってしまい、鈴は慌てて「色々と大変なんですね」と言って微笑んだものの、真陽瑠は鈴の拗ねた気持ちもお見通しのようだった。

「前から思っておったのだが、そなたら……もう床は共にしたのか?」

「と……!?」

 口に含みかけていたお茶を出すわけにもいかず、慌てて飲み込んで盛大に噎せた。真陽瑠はそれを咎めることはしなかったが、扇を揺らして目を吊り上げた。

「その様子だとまだのようだの。入内と婚儀の後、すぐに七国へ降りてしまったゆえ、もしやと思っていたが……あの朴念仁め。自ら(こいねが)って娶っておいて、一月半も放ったらかしとは何事か!」

 よもや斎宮の舌打ちを聞く事になるとは思いもよらなかった鈴である。なんだか鈴よりも真陽瑠の方がいたくご立腹のようだったので、鈴は自分の中の怒りがするすると凪いでいくのを感じた。誰かが自分より感情を露わにしているのを見ると、逆に心が落ち着くものである。

 さすがに、鈴も夫婦となったからにはそういうお役目があることも、理解していたし覚悟もしていた。

 しかし婚儀を済ました後、真陽瑠の言うように茅羽夜は鈴に一言も告げずに下山してしまい、共に夜を明かすどころか夜に菫青殿を訪ねて来た事すら、先日の一件を含んで良いなら別だが、ただの一度たりともなかった。

 周囲は彼の不在を知らない。その為この一月の間に一度も御渡りがなく、鈴は周囲から散々同情的な目で見られることになった事を、彼は知っているのだろうか。聞かせてやりたいと何度か思った事はあるが、いざ彼が宮へ戻って来ると知られたくないとも思う。

 妃ともなると夜事情は周囲に筒抜けになるのが、鈴にとっては普通に恥ずかしかった。どうして他の妃たちは平気でいられるのか不思議なくらいだ。やはり育った環境の違いだろうか。

「初菫の、次に宮へ来た時は思いっきり叩いて良いぞ。妾が許すゆえ」

 和を尊ぶ斎宮らしからぬ声音で拳を握る真陽瑠に鈴は苦く笑った。

 まさか既に夢の中の別人とはいえ一発叩いた上に、頬を思いっきり抓りましたなどとは、言えなかった。



 * * *



 紅玉殿の母屋で、鈴は葵依と並んで座っていた。白桂殿を後にした足で訪れた七宮は先日見たときとは打って変わって蔀戸は開けられ、そこから風が入り、薄浅葱の几帳を揺らす。

 焚かれた香がふんわりと柔らかく二人の少女を包んでいる。側の盆には器に盛られた紅玉のような桜桃(さくらんぼ)がころんと置いてあり、これは鈴が持参したものだった。

 暫くは褥から起き上がれない程に衰弱していた葵依だったが、今はすっかり顔に血の気が戻り、目の下の隈も薄れて彼女の本来の顔を取り戻していた。

 青梅達侍女は彼女よりも軽症だったので、一日養生した後いつも通りの生活を再開している。

 青梅は鈴が菫青殿の主人であったことに、真っ青になってご無礼をと謝罪したが、騙していたのはこっちで、むしろ謝らねばならないのは鈴の方である。畏まらずに話せる気楽な間柄でなくなったことが、惜しいくらいだ。出来たらまたあの侍女の装いで出歩きたいものだが、さすがに刻葉がもう許してくれそうもなかった。

 暫く並んで庭の紫陽花をぼんやりと眺めていた二人だったが、話し始めたのは葵依だった。

「……先日、真尋様の墓参りに行ってきました」

 ぽつりと話し始めた葵依の声に、鈴は黙って耳を傾けた。

 真尋の墓は今上陛下が戦地から遺灰と遺品を持ち帰り、宮の敷地内に弔われていると、真陽瑠から聞いていた。

「すぐ側にありながら、どのような顔をして参ればよいのかわからず、怖くて参ることが出来なかったのです。わたくしは、真尋様の遺体を見ていませんから、彼が本当に死んだのだと……もうわたくしの元へ帰ってきては下さらないのだと、理解するのが怖かった。どうしてあの時、戦地へ向かう事をお止めしなかったのかと、いっそ共に逝けたならどれ程良かったと、そればかりを思って生きてきた八年間でした。陛下のご好意を素直に受け取る事も出来ないまま……」

 許嫁を亡くした後、彼の魂だけを弔って生きていく事は、葵依の家の位が許さなかった。どこか別の家に嫁ぐよりは……それを苦に命を断つくらいならと、今上帝は彼女を後宮へ上げたのだそうだ。お召しがないのも当然の事だった。

 勿論、そこに情以外の政治的理由が一切なかったかと問われれば、是とは言えまいが。

「巷で噂の渡り部が瑠璃を使うと聞いて、わたくしは八年前のあの噂を思い出しました。彼らもまた、石を用いて占を行い、信者を得た一派だったと聞いた覚えがあったのです」

「それで侍女を宿下りさせ、持ち込ませたのですか」

 葵依は、その問いに是と答えた。

「もしも彼らが八年前の生き残りであったならと思うと、居ても立ってもいられなかったのです。彼らが何故そうまでして皇を恨むのか、聞きたかったのです。けれど彼は教えてくれなかった。次に聞いたのは彼らが真尋様の仇であるかどうかです。これに彼らは是と答えた。そこからは、九宮様が見られた通りです」

 男は百回自分を殺すことができたら真尋を返そうと言った。葵依はむしろ好都合とばかりに従った。彼がそんなつもりなど更々ない事は、理解していたつもりだったが、もうその時には既に冷静な判断を下せる状態ではなかった。

 百超える前に葵依は夢に囚われて、二度と目を覚まさなかったろう。

「勿論わたくしも時代が悪かったのだと、今では理解しています。国が荒れて、一番被害を受けるのは民です。北国の惨状は南国でぬくぬくと育ったわたくしには計り知れないものでしょう。彼らが教えを拠り所に生きることを、咎める事など出来ません」

 ですが、と葵依は言葉を切って、両手を握り締めた。蔀戸の外へ向けられる紫檀の瞳が僅かに潤む。

 先程より雲は重く垂れ込み、生温かい風が二人の間を吹き抜けていく。

「……ですが、あの人が、一体どのような罪を犯したというのです?あの方は陛下と共に、何とか国を立て直そうと必死に走り回っておいででした。七国は真尋様を擁立しては居ましたが、真尋様自身は別段帝位が欲しいというわけでもないと、常日頃から仰っておられました。父も真尋様のご意志を汲んで下さると約束して下さったのです。ただ、ただ……あのかたは」

 あの激動を生き抜くには、優しすぎるあの方は。

「この国を、おまえが泣かなくて済む場所にしたいと……」

 葵依の目に張ったそれは、鈴の予想に反して頬を伝う事はなかった。

 泣くことを、鈴は悪い事だとは思わない。涙は彼の岸へ向かう河となり、海となって想い人へと届くだろう。それは魂を抱く揺籠となり、そうやって再び、現世に新たな命として生まれ落ちるのだ。

 彼女はもう道を見失う事はない。

 だからその道に時々蹲って誰かを偲ぶ事を咎める人はいない筈だ。

「真尋様はわたくしの笑った顔が好きだと仰って下さいました。だから今は無理でも、笑って過ごしたいと思います。それに泣いても、涙を拭ってくれる指は、もうありませんもの」

「葵依の方……」

「ああ、いえ、そんな顔をしないで下さいな。九宮様はわたくしの恩人なのです。今日はお礼を申し上げたくて、お呼びしたのですから」

 そのまま葵依は手を付いて鈴に深く頭を下げた。

「あの方に会わせて下さり、本当に、ありがとうございました。この御恩は一生忘れません」

「そんな、大袈裟です。むしろわたし、葵依の方に思いっきり水を掛けてしまって……謝らねばと思っていたのです」

「あの水で目が醒めたのですから、やっぱりお礼を申し上げねば。ずっと悪い夢を見ていたのです……きっと八年前から」

 上げられた顔にもう先日の悲愴感はなく、ただほんの少しの寂しさを残して、晴れやかに微笑んだ。

 その笑みを見てようやく、鈴は彼女が帰ってきたのだと実感することが出来た。

「あ、そうだ、六宮様にも謝罪に参らねばなりませんわね……」

「いえ、あれは銀朱の方にも非があったかと思いますけれど」

「ですがその後の見舞いも突っぱねてしまって……先日、改めて見舞いの品が届いたのですけれど、まだお礼にも伺えてないのです」

「見舞い?」

 そういえばと鈴も先日七宮の前で銀朱に会ったことを思い出す。青梅に会いに行った帰りだ。そこでふと、鈴は今部屋に焚かれている香があの時すれ違った銀朱から薫ったものと同じものであるのだと気が付いた。

「もしかしてこの香、銀朱様から頂いたものですか?」

「ええ、よくお分かりになられましたね。先日、侍女の方が届けて下さったのです。生薬と一緒に」

「生薬?」

「吉根草を」

 ああ成る程、と鈴は頷いた。菫青殿を退出する際に、縁寿は六宮へ行くと言っていたからあの時に受け取ったのだろう。それで、香に使われているものに確信が持てた。

「この香、多分ですけれど、銀朱様が調合されたものだと思います。薫衣草(くぬえそう)じゃないかしら」

「薫衣草?」

「外国で栽培されていて、六国で取引があるものだと先日聞いた気がします。まだ輸入数が少なくて、かなり希少価値が高いのだと散々自慢……いえ、お話頂きまして。それで兄に聞いてみたのですが、効能としては安眠効果があるそうですよ」

「え?」

 ちなみに鹿子草の根を乾燥させて作る生薬、吉根草も神経過敏等、心を落ち着かせて安定させる薬として用いられる。癖のある芳香がするのだが、これを良いと感じる場合は少々気が昂っている時らしい。以上、内薬司医官、縁寿からの豆知識である。

 つまるところ、銀朱も彼女なりに、葵依を心配していたらしい。首飾りを触ろうとした件についてもどこか罪悪感があったのだろう。

 そもそも茶会に誘ったのも、引きこもりがちだった葵依と鈴を気遣っての事だったのかもしれない。これにも彼女なりに、というのが頭につくが。まあなんというか。

「悪い人じゃないんですよね、彼女。少し、いえかなり、上から目線なだけで」

「そうですわね、悪い方ではないんですけれど……少々押し付けがましいだけで」

 そう言い合って、ふたりの少女は目を合わせてから、ふふふっと笑い合った。


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