九
はっと目を覚ますと、いつもの自分の褥の中だった。寝る直前まで焚いていた淡い銀木犀の香りが、ここを夢ではなく現実だと教えてくれる。そのことにほっと胸を撫で下ろそうとして、鈴はすぐに自分の手が誰かに握られていることに気が付いた。
ぼんやりと見上げた淡い月明かりの中、そこにいたのは、夢にまでみた茅羽夜だった。髪は見慣れたように一つに括られ、短い毛があらゆる方向を向いている。
鈴はゆっくりと手を伸ばし、茅羽夜の頬を思いっきり抓った。
「……っっぅ!??」
「あ、もしかして本物?」
「本物じゃなかったら何だと……?」
「いやてっきりまた……でも、だって、あれ?……何でここにいるの?」
まだ寝惚けているのかと思ったが、抓った感触は確かにあった。掌をぐーぱーに握って感触を確かめる鈴を、嫌味なくらい滑らかな頬を少しだけ赤くした茅羽夜は憮然とした顔で見ている。
「……君が夢渡りに連れてかれそうだったから、慌てて七国から戻って来たのに」
「え、そうなの?」
「そうだよ。でもちゃんと身に付けてくれてたんだ、間に合ってよかった」
「……あ!」
鈴はそれの存在を思い出して、握られていない掌を見た。しかし、そこに握っていた筈の根付は粉々に砕けていて、鈴が手を解くとさらさらと溢れて消えてしまった。掌に残ったのは菫色の鈴と、根付の組紐のみだ。
「そんな……夢だったのに」
「確かに夢の中の出来事だったかもしれないけど、仕方ないんだ。もしもの時君を守ってくれるように、術をかけておいたから」
「そんなの、全然……」
唇を噛み締めて、泣きそうになるのをぐっと堪えるけれど、鈴?と気遣わしげに問い掛ける声に、じわじわと喪失感が迫ってくる。
「茅羽夜がくれた、たったひとつだったのに……」
「でも、鈴には代えられないよ」
握る手が強くなった気がした。緩やかにその方を見れば、海色の瞳とかち合う。茅羽夜は鈴の手を取ったまま、不意に視線を茵の外へ向けた。
鈴もならってそちらを見れば、ほのかな月明かりが見えて目を凝らす。寝る前に妻戸はきちんと小鞠が閉めた筈だ。それなのに一箇所、東側の妻戸が開いており、その向こうに人影があった。
「……真尋殿下」
紫の直衣姿の青年は、静かな目でそこに立っていて、名を呼ぶと少しだけ首を傾けた。
茅羽夜の手を握る力が僅かに強張る。見れば茅羽夜は眉根を寄せて彼を見ており、その表情はいつもより硬く緊張しているのがわかる。
今上帝陛下にとっては良き親友であった彼だが、茅羽夜とは何か確執があったのだろうか。
「茅羽夜……?」
「……」
真尋がすっと腕を上げ、北の方を指差す。それから鈴を見て、目を閉じて何かを呟く様に口を動かすと、そのまま煙の様に掻き消えた。
「消えちゃった……でも、あっちの方角って……」
「───七宮がある方だ」
はっと鈴は褥を飛び出した。その際繋いだままの手を忘れており、うっかり茅羽夜まで引っ張ってしまった。
「夜分に申し訳御座いません、初菫の方、起きてくださいまし」
「小鞠!」
「え、え、あれ!?ど、どうして若宮殿下が……!?」
「こっちの話は後で!葵依の御方に何かあったんでしょう!?」
茅羽夜と共に寝室を飛び出した先、ちょうど何かに吸い寄せられるように出会した小鞠は、寝衣姿の主の後ろにいる茅羽夜に面食らったものの、すぐに切り替えて頷いた。小鞠が振り向く先、彼女の後ろには既に着替えている刻葉に支えられている、青梅の姿があった。
「青梅!」
「……鈴?どうして……あなた、もしかして」
「それについては後で説明します、七宮様に何かあったのね?」
そう訊ねると、青梅は見る見る内に青褪め、やがて大粒の涙を溢した。駆け寄って震える肩を支えると、青梅は鈴の手に縋るように握る。少女の力とは思えないほど強く、たすけてという声に切羽詰まったものが滲んでいた。
「お願いです助けてください、葵依の方が……いえ葵依の方だけじゃない、七宮の皆が、目覚めないのです……!」
燈を持った小鞠が先導し、その後ろを鈴と茅羽夜、そして刻葉と青梅が続く形で七宮に足を踏み込むと、異様にくぐもった空気が肌を刺した。思わず袖で鼻口を覆う。空気が澱んで、溜まって酷い匂いがした。
小鞠に灯りをつけるように言い、茅羽夜に蔀戸を開けさせると月明かりと燈台の明るさでようやく母屋が見渡せた。茵の中には今も変わらず眠り続けている葵依が横たわっているが、彼女の周りは黒い霧状のものが澱み、その茵のすぐ側に前に六宮で見た侍女がうつ伏せになって倒れていた。
「これは……」
「二日前くらいから姫様が突然倒れるように眠り出したんです。でも今までも葵依様は眠っておられる時間が長くなってきていたし、何回かあったから、今回もすぐ起きるだろうって……でも、一日経っても起きなくて、ちょっとこれはと思った時に……あの人が」
「あの人?……渡り部ね?」
こくんと青梅は頷く。
燈台に火を灯し終わった小鞠は青梅を支え、刻葉は真陽瑠の方様へ報せに行ってもらった。自分の肩を抱いて震える青梅は、恐怖に顔を歪め、短く息を吸う。
「あの人が、あの人……姫様に殺されたんです……」
「……渡り部が?逆ではなく?」
「いいえ、姫様はここにあの人が現れた途端目を醒して、その手にどこからか包丁を持っておられて……それで、それで……ッ!」
口許を覆ってがたがたと震え出す青梅の肩を小鞠が優しくさする。
「無理に話すことないわ。大丈夫、それは夢よ」
「ゆめ……?」
「そう。とてつもなく嫌な奴が見せた、悪い夢。あなた、わたしに石を渡してしまったから自分の夢に逃げ込めなかったのね。でも血を渡していたから、七宮様の夢に引き摺られちゃったんだわ」
鈴は胸元から鎖に繋がれた玻璃の首飾りを取りだし、何か切るものを探して、茅羽夜を見た。
「茅羽夜、その小刀貸して」
「……」
「大丈夫だから。噛むより治りが早いと思うし」
珍しく茅羽夜が嫌な顔を前面に出しているのが少しだけおかしかったし、ちょっとだけ、嬉しかった。
しかし茅羽夜ものっぴきならない状況を把握したのか、渋々腰の小刀を抜いて鈴に手渡す。鈴は何の躊躇いもなく白刃を掌に滑らせ、青梅と小鞠が小さな悲鳴を上げた。
「姫様!?」
「大丈夫よ、彼女を助ける為だから」
血を指先に取って、鈴は宙に術を描く。しゃーんという玉響の音が細波のように広がり、薄絹のように重なる。しかしそれだけではダメだ、と鈴は直感した。囚われている人が多すぎる。大元を断たねば。
鈴が葵依の眠っている茵まで行き、彼女の胸に掛かっているそれに手を伸ばすと、物凄い力でそれを阻む者があった。見れば先程まで眠っていたはずの葵依の目が大きく開かれ、鈴の腕を掴み、そのまま押し倒される形で床に転がる。
「鈴!」
「来ないで!」
茅羽夜が駆け寄ろうとするのを押し留め、鈴は自分に馬乗りになっている葵依を見上げる。ぎりぎりと喉に食い込む指は驚く程細く、渇いているのにどれだけやっても引き剥がせない。息が詰まり、意識がじわじわと霞んでくる。
「な、なみや、さま……」
「……す、ころ、……てやる、ころしてやる、ころしてやる、ころしてやる!」
「……ッ!」
「お前が、おまえが、彼の方を、ゆるさない、ぜったいゆるさない、約束を、やくそくしたじゃない、かえして、かえして、かえして────かえして!」
それが彼女のすべてだった。鈴は掴まれた指先から流れ込んでくるそれに、喘ぐように息を吐いた。
何度も、何度も、何度も、この人は夢の中で仇である男を殺したのだ。現実ではきっと叶わない。だから夢の中でだけでも、あの人の仇を取るために。
男は応えた。無邪気に、無責任に。
じゃあ自分を百回殺せたら、彼を返してあげる、と。
少女は信じて男を殺した。何度も。切り裂き、殴り、縊り殺した。夢だから。殺して、殺して、殺し尽くして。
彼女を取り巻く黒い霧は、彼女自身から生まれたものだ。鈴はどうして葵依が己の許嫁の敵かもしれない相手に執着するのかが不思議だったけれど、逆だったのだと理解した。彼女は彼らが真尋の仇である事に辿り付いていた。
復讐の夢に取り憑かれて、その甘美な誘いに抗えず、それ以外に生きる意味を見出せず。
────そうしていつしか、帰り道を見失ってしまったのだ。
(……でも)
鈴は葵依の手を握る。自分が此処へ来た意味を、伝えなくては。
だって彼は、彼はずっと。
「真尋様はずっと貴方のそばに居ました!」
ぴくりと指が跳ねた。僅かに力が緩んだ隙に、息を大きく吸い込む。
此処へ鈴を導いたのは青梅であり、そして報せてくれたのは真尋だ。彼はずっと、ずっと、葵依の身を案じていた。
天へ還る事なく、けれど恨みに囚われて悪鬼に落ちる事もなく。
「わたしを此処へ導いたのは誰だと思ってるの! あの方はずっと貴女の側にいたわ、貴女の手を引いて、迷わないようにずっと守ってた! それなのに貴女はいつまで夢に逃げるつもり!? 少し頭を冷やして、その大きな目をちゃんと開いて、よく見なさい!」
柏手をひとつ打って、鈴は自分の首を掴んでいる葵依の頭上から水をぶっ掛けた。当然自分も水浸しになり、母屋の板の間に水が滴る音がやけに大きく響いた。
鈴は葵依が水の冷たさに怯んだ隙に、胸元から下げられていた鎖を小刀で力任せに引き千切って、茅羽夜の方へ投げる。
「壊して!」
茅羽夜は鈴がそう告げるのと同時に腰から愛剣を抜き、その瑠璃石を剣先で砕いた。パキン、という小気味いい音が響いたかと思えば、それは星の粒のように燈台の火に僅かに煌めき、さらさらと風に紛れていった。
「あ……」
少女の赤みを帯びた紫の瞳に光が戻ると、ゆっくりと鈴から手を離して遠去かる。そして彼女の前に一人の男がいた。
「ま、ひろ、さま……」
紫の直衣を纏った男は十代半ばといった頃の、まだ幼さを残す顔立ちをしていた。葵依は震える声で真尋を呼んでそっと手を伸ばすものの、当然ながら触れる事は叶わない。
けれど真尋と葵依の視線は確かに交わり、少女の瞳から大粒の涙が幾つも零れ落ちた。真尋はゆっくりと少女の頰へ手を伸ばし、なぞるように指先を動かす。涙は止まる事なく頰を滑って落ちていく。
少女の涙を拭う指を、彼はもう持っていないのだ。
それでも……それでも。
泣かないでくれと言うように、何度も。
「───あなたは、」
葵依が微笑む。涙に濡れた瞳が痛々しい、けれどどこか、強い笑みだった。雨垂れに咲く紫陽花を思い出させる瞳だった。
「あなたは、死してなお、わたくしの涙を拭ってくださるのね……」
死者とこの世を繋ぐのは強い未練だ。悔恨や強い執着は魂の枷となって現世に繋がれ、それは長い時を経て魂を悪鬼へ落とす。
けれど真尋はずっと、ただ少女を守るために在った。真尋にとっての未練はただひとつだったから。
───自分を思って泣く小さな幼馴染みが、どうか泣き止んでくれますように。
葵依が微笑むのを見て真尋もゆるりと笑って、やがてその姿は解けていき、風にたなびく煙のように溶けていく。まって、と伸ばされた指に、頬に、紫煙がもう一度だけ触れると、そのまま見えなくなった。
顔を覆って、葵依はその場に泣き頽れ、嗚咽を漏らす。
いつの間にか肩を支えてくれていた茅羽夜の手の温もりを感じながら、鈴はただ、彼が今度こそ彼の岸へ逝けるよう小さく祈った。




