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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
二章 まどいの星々
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 菫青殿を無事に賜り、鈴がほっとしているのも束の間、すぐに妃教育が始まった。

 最初に教えられたのは歩き方だ。

 板の間の部屋の端から端まで歩かされ、少しでも背筋が悪ければ叱られ、顎の引き方、音を立てない足捌き、すべてに置いて厳しい駄目出しを受けた。丸一日歩き続けた初日は流石に鈴もくたくたになってご飯を食べる事すら出来なくなり、鈴は輿入れの際に初めて馬に乗った日を思い出したが、もうそれが遠い昔のように思えた。

 けれど歩きの稽古よりも鈴が嫌になったのは、座学だった。元々座って文字を書きつけるのが不得意な鈴はすぐに集中力が切れてしまい、刻葉から「ここまで落ち着きのない娘を教えるのは初めてです」とまで言わしめた程だ。

 日が落ち始め、刻葉の今日はここまでという言葉を聞いて彼女が退出すると、ようやっと息が出来る気がした。

「今日もお疲れ様でございました」

「うん……疲れた……」

「お食事の前に、お身体をお清め致しましょうか」

 刻葉と入れ替わりに小鞠がやってきて、湯浴みと新しい衣の用意をしてくれる。宮に上がってからというもの、毎日何回着替えるのだろうと鈴は不思議でならなかった。これから梅雨に入ってくるというのに、同じ頻度で着替えていたら流石に着るものがなくなるのではないだろうか。

 小鞠に体を拭いて貰い、髪を梳かして貰いながら、鈴は深い溜息をついた。お湯は贅沢品であるが、此処では水の様に使われている。しかもど田舎の山守の娘に。勿論ここでは《九条家の養女》として通っているが、鈴としては長年の村娘感覚が未だに抜けきれずにいた。

「随分、堪えてらっしゃいますね」

「そりゃそうでしょうよ……今までこんなに頭使った事ないもの……そろそろ刻葉様が夢に出てきそうだわ」

「それだけですか?」

 悪戯っぽく小鞠が含み笑いをするので、鈴は後ろを振り返って唇を尖らせて見せた。

 慣れない生活に嫌いな勉強、厳しい教育者の叱責。しかし鈴の憂鬱の理由はそれだけではない。

 鈴の夫となった東宮夕凪宮である茅羽夜とは婚礼の儀を終えてから、なんと一月も顔を合わせていないのだ。

「……別に。忙しいのはわかってるもの」

 人の前に滅多に姿を現さないで居住の宮へ引き篭もっている若宮殿下は、しかし茅羽夜の方となると多忙を極めているらしい。

 元々彼は九条家へ亡命していた頃から松葉と同じく士官して武官として勤めていたのだそうだ。松葉と同時期に士官していたというのだから、鈴と別れてすぐに剣を取った事になる。そりゃあ当然「ちびで剣に振り回されているような子供」だっただろう。十年前なのだから、その頃茅羽夜はまだ六つになったばかりのはずだ。

 まさかあの時の男の子が、九国へ亡命してきた若宮だったとは。そう言ってくれたら、さすがの鈴だってあんな粗末な場所で介抱したりしなかった、と思う。婆さまはああ見えて、子供が虐げられているのが我慢ならない性格だ。茅羽夜が口止めしなければ、せめて婆さまにだけは教えてもいいと言ってくれれば、もうちょっとやりようもあっただろうに。

 しかし、あの頃は国もかなり荒んでいた時代だ。覇権争いから逃げてきた小さな若宮が自分を守る為に、用心するに越した事はなかったのかもしれない。

 まあ最終的に彼は九条の者と再会し、東宮として皇家に返り咲く事も出来ている。終わり良ければ全て良しだ。

 おかげで鈴がこんな所で毎日机を扇で叩かれながら教育係の嫌味に耐えている件については、脇に置いておくとして。


 夕凪宮が人前に出ないのを逆手に取って、彼は堂々とあちこちに出ているらしかった。今どこにいるのかと問えば、何と下山して七国の方へ貴人の護衛に出ているのだという。

(そう言われると、輿入れの際も平気で隊に加わってたし。本当に若宮様の顔って知られてないのね……)

 そりゃ人嫌いの噂も立つ筈だ。ちなみに、これらは東宮付き内薬司の医官である縁寿にこっそり聞いたものだ。

 彼は東宮付となっているものの、時々腕を買われて後宮へもやってくる。白桂殿の許可さえ降りれば、医官や内舎人といった男性も後宮へ立ち入る事が許されていた。勿論、二人きりで会う事は禁じられているが。

(まあ東宮付きっていっても当の本人がいないんだもんね)

 調薬などの雑務もあるだろうが、基本的に内薬司とは帝並びに貴人の診察が仕事だ。病人がいなければ、更に言えば本人がいなければ仕事も何もないだろう。

 もう一度溜息を吐き出す。

 輿入れの際は一月近く顔を突き合わせていたが、婚姻後の方が会わないとはどういうことだ。仮にも新婚であるというのに、一月もお召しのない鈴に、周囲が何と噂しているか遠い他国の地にいるあの澄ました顔に聞かせてやりたい。

(次に会った時、もう一回横面を引っ叩いてやる)

 そう心に誓ってみると少し気持ちがあがり、鈴は出された夕餉をぺろりと平らげたのだった。



夢渡(ゆめわた)りの星鴉(ほしがらす)?」

 今日も和歌をこれでもかと叩き込まれ、書き取りさせられ、字が乱れれば机を叩かれ、有難い小言を頂戴し、そろそろ指に力が入らなくなってきた頃ようやく許された休憩時に、小鞠が盆に外郎(ういろう)と煎茶と一緒に持ってきた話題に鈴は首を傾げた。

 鈴の思い浮かべる星鴉と言えば焦茶色に白い斑点模様のある鳥の事だ。鴉と言うが見た目はどちらかというと雀のような可愛らしい顔立ちをしている。いや、鴉も勿論、充分に可愛らしいと鈴は思うのだが、小鞠には酷評だった。あの粒らな黒目と黒い嘴が可愛いというのに。

 しかし当然ながら、普通鳥は夢を渡らない。

「ええ、七宮の侍女の子から話を聞いたのですけれど、最近宮で流行っている占いだそうです」

 小鞠はこの一月ですっかり他の宮の侍女とも打ち解けているらしい。流石の対人能力と言えよう。滑らかな舌触りが絶品の外郎を切り分けながら、鈴は小鞠の話を聞いてる。

 後宮には、何と言っても娯楽が少ない。

 ゆったりとした時間の中で永遠とも呼べそうな程この箱庭で過ごさねばならない年頃の少女達の関心は専ら噂話か、市井の流行だ。

 宮へ一度入れば滅多な事で外出する事は叶わず、宿下りも容易ではないが、しかし皆無でもない。また末端の宮女は遣いに街へ降りる事もあり、そういった所から小説や占いなど市井で流行っているものが持ち込まれるのだ。

 今回のそれも、どうやら先日父が病気で倒れたと聞いて宿下りした七宮の侍女から流出したらしい。

「なんでも、とある物に寝る前に聞きたい願い事を訊ねてから眠ると、夢の中で星鴉が答えてくれるのですって」

「星鴉が喋るの?」

「いいえ、最初は星鴉の姿で現れるらしいのですが、お告げの際に人に変わるのだそうですよ……それが何でも、物凄い美青年らしく」

「へええ」

 成る程、そりゃあ流行るわけだと納得したように頷く。後宮で出逢える男といえば限られている。帝か、帝に従事する者か、医官くらいだ。東宮は今まで現れた事がないので鈴の中では除外されている。

 縁寿が後宮に呼ばれる日は、朝からどの宮でも身支度に時間が倍掛かるらしいと聞くくらいなのだから、夢で会える美青年というのは中々魅力的だろう。縁寿には妻子がいるし。いや、そこがまたいいという女官もいるらしいとは聞くが妹としてはやや複雑である。出来たら兄(叔父)夫婦には平穏でいて貰いたい。

 自他共に認める面喰いの小鞠は「どのような方なのでしょう……」と頰に手を当て、思いを馳せるように呟く。

「松兄様はいいの?」

「それとこれとは話が別です。わたくしだって日々の潤いとして、目の保養くらいはしたいのです」

 自分に正直な点が小鞠の美点である。欠点でもあるが。

「その占いって今そんなに流行ってるの?」

「ええ、やっておられないのは妃様方と斎宮様くらいじゃないでしょうか。あ、でも確か、七宮様は御本人も随分陶酔いらっしゃると聞いておりますよ」

「七宮様……」

 あの挨拶の場で、唯一声を聞けなかった葵依の姿を思い浮かべる。他の三人が向かいに座っていたのもあるが、彼女はどちらかと言えば控えめな大人しい性格のようで、鈴の中でも少し印象が薄れてきてしまっていた。

 だが青みを帯びた美しい豊髪に飾られた紅玉と衣の深い藍色の美しさははっきりと思い出せる。七国は染物の他に紅玉の産地でもあった。

 彼女は四人いる妃達の中で唯一、鈴と同じ西側に宮を構える姫だ。年頃も近そうなので、出来ることなら仲良くしたいと思うのだが。

「七宮様は占いがお好きなのかしら」

「さあ……ですが聞く所によると、着るものも炊く香の種類も、占なしには決められないとか」

「そ、それはまた筋金入りね」

 ちょっとした方向性を占うならまだしも、そこまでいくと異常な気がするが他家の事に口出しするのも気が引けた。

 元々、貴族は占狂いだ。大貴族ともなればお抱えの占者がいるものだし、内裏にも中務省の中に暦を作成したり星読を主にする陰陽寮が存在する。こちらは占というより学問的要素が強いらしい、というのは縁寿から聞いた話だ。

 そういえば今上帝は占嫌いと聞いていたが、そんなものが流行って大丈夫なのだろうか。咎められたりはしないのだろうか。

「ああ、確かに後宮は主上のものではありますけれど、現在の長は斎宮様ですもの。占いを流行らせるなという方が無理なお話ですわ。でも、そうですね……別系統の占が流行るというのも、宮様にとってはあまり気分の良いものではないかもしれませんわね……」

「占いに系統があるの?」

「そりゃあ、ありますよ。わたくしも、学者でないので詳しくは存じ上げませんが、星を見て占うものもあれば、手や顔の相を見て占うもの、動物の骨を使ったものなど色々派閥が御座いますよ」

「へえ……」

 自分の襟元に隠している玻璃の首飾りを布越しに撫でる。自分の占いは星石を使うことはあるが、星や手相も見ないし動物の骨を使う事もない。今小鞠があげた中には当てはまらない系統らしかった。

 しかし派閥があるのなら貴族がそれぞれお抱えの占者を持つのも何となく肯けた。違うものをあれこれ手を出すのは、占いをする者にとってはあまり宜しくないものだと鈴も婆さまから教えられている。

 もちろん、色々な占いに手を出したとしても、それにのめり込まなければそこまで大きな害はない。一対一の占いならお互いに心を賭けねばならないが、今回のような一対多数であれば、お互いに何かあっても責任が分散されるからだ。

「七宮様と、一度お話してみたいわ。ご挨拶の時はろくにお話も出来なかったし」

「今のご自分が他の妃様からお話を賜れる価値があると、本気で仰っておられます?」

 鈴は思わず口の中で「げっ」と言いかけて、慌ててそれをお茶と共に飲み込んだ。恐々と振り向くと、真冬の雪原よりも冷たい眼差しをした刻葉がそこに立っていた。

「いつまで休憩なさっているおつもりでしょう。それに、その作法のなっていない茶器の持ち方は一体どういうことですか?指先まできちんと揃え、一気に煽らないようお教えした筈ですが、初菫の君はどうも喉元を過ぎるとすぐお忘れになるようで。鶏でも、もう少し物覚えが宜しくてよ」

 ぱしん、と閉じた扇で自分の手をひと叩きし、刻葉は鈴と並んでいた小鞠を見下ろす。

「小鞠、貴女もいつまで幼子のままでいるおつもりですか?この方は既に貴女の御友人では御座いません。弁えなさい」

「ちょっと、それは」

「初菫の君、言葉遣いが乱れおります」

「……はい。申し訳御座いません、ですが小鞠は」

「いえ、わたくしが出過ぎた真似を致しました。申し訳御座いません」

 頭を下げ、小鞠はそのまま刻葉に言われるように盆を持って退出していった。鈴が力の限り睨んでも、刻葉は痛くも痒くもないようで、さっと書取りの巻物を取り上げて添削に入った。

「小鞠はわたしの友人です」

「初菫の君、御自分のことはわたくしと仰いませと、何度わたくしに言わせたらご満足頂けるのでしょう」

「小鞠はわたくしの友人です」

「ご自分の御立場を未だ理解されておられない御様子。貴女はもう童女ではないのですよ、いつまで山の子でいるつもりです」

「わたくしが、わたくしでいる限りずっとですわ。刻葉様」

 赤い墨で字の乱れや綴りの間違いを書き込んでいる刻葉は眉一つ動かさないまま、鈴を見た。

「わたくしがどれ程言葉を改めようと、今まで育ってきた果てにわたくしが居るのです。貴女様に作れるのは明日のわたくしだけ。今までのわたくしへ、口を出せる者は今までわたくしを育ててきてくれた者達だけですし、わたくしと共に手を取って、育ててくれた友人に感謝こそすれ、無下にするなど和を尊ぶ神祖を奉る民として恥ずべき行いではないでしょうか。それとも刻葉様は、何かの形でわたくしの存ぜぬ所でわたくしを育てて下さったのかしら」

「まあ、ほんによく回る口ですこと」

「お褒めに与り光栄です」

 ばちばちと鳴る火花が見えた気がした。だが言葉遣いを改めようと、甘味を食べられる代償であっても、鈴にも譲れないものはある。今まで十六年、鈴を育ててくれたのは婆さまや兄達や、小鞠達里の者達であって刻葉ではない。

 鈴自身が別に何と謗られようと(やり返すので)構わないが、鈴は自分が今まで良くしてくれた人達へ冷たく当たってまで今の地位を守りたいとは思わない。それは今までの自分自身を詰る行為だ。

 刻葉はあいも変わらず北風の染み込むような眼差しで鈴をちらりと一瞥して、添削の終わった和歌の書取りを戻した。赤墨だらけの紙面に鈴は顔を顰め掛けたがここでまた小言の種を増やすのは癪なので、ぐっと堪える。

「では直した所をもう一度書取りするように。終わる頃にはちょうど夕餉に良い時間でしょう」

 少しばかり西へ寄っているとはいえ、まだ日は高い。どうせ夕餉まで掛かるだろうという遠回しな嫌味だが、そんな事で鈴が挫けてめそめそするような女の子だと思ったら大間違いだ。

 鈴は刻葉が退出していった方に舌を出すと、速攻で終わらせてやると息巻きながら書取りを再開した。


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