二
昔、一匹の龍が何もない世に降り立った。
彼の御方は首のひとつの珠に自らの血を与えて噛み砕き、その珠から男神と女神を創った。
次に男神に月を、女神に陽を与えて、夜と朝が生まれた。
最後に自らの御身を横たわらせて、その体に流れる血が大地を潤す水脈となり、草木が育ち、この東和葦原国全ての祖となった。
東和国という国は全部で十三の国と一つの皇家で成り立っている。
一から十二までの国はそれぞれ宮家から分かれた国長が統治しており、国の中央にある神祖の頭であった白龍山を芯にして、始まりのまほろばは在る。皇、引いては天帝陛下直轄の国と分家筋の十二の国、それらを纏めて東和葦原国と呼んだ。
男神と女神に生まれた十二の子が国長の始祖となり、最後に生まれた龍を宿した末御が皇となったと言われているが、実際の所はわからない。神話なんてそんなものだ。ただ皇は、この国が生まれてから一度たりとも血を絶やした事はなく、その玉座を創世から守り抜き、天と共にある。
そして鈴の里があるのは西の九国またの名を青領といって、その中でも南隣の八国・橄欖領との境にある霊峰、九頭龍山の麓にある小さな里だった。
鈴の家のすぐ裏手にある九頭龍山は東和国でも宮城のある白龍山、帝国と七国、六国との境に裾を広げる天龍山の次に高い霊山で、里の者達はこのお山を神の依代として祀って来た古き民だ。
婆さまはその山守の一族の裔であり、里長とも親戚関係になるらしく婆さまより偉そうな人間がこの里どころか近隣全て纏めてもいないのはそのせいだった。
まあ婆さまは、例え山守の一族でなくとも偉そうに違いないのだと思う鈴だった。この気性の荒さは天性のものだろうし、小鞠の父である里長のおしめも変えてやったというこの老婆が一体幾つなのか、鈴はおろか兄二人も知らないらしい。恐ろしい話だ。
しかしそれよりも恐ろしい話なのは、その宮家の皇子さまに、この山守の娘を嫁がせよという星の導きが出たという話だった。
「松葉、それは確かなのか」
里長の屋敷の一室に、胡座をかいた松葉と婆さま、それから鈴が所在なさげに座っていた。
上等な絹の衣を身に纏った松葉は里長の問い掛けに、神妙な顔で頷いた。
「まほろばの斎王であらせられる真陽瑠の御方は東宮である若宮様の妃に、菫青石の星石をお選びになった。方角は西、歳は今年十六。七日間の占の末に、鈴に辿り着きました。間違いありません」
「いや冗談でしょう……」
当事者である鈴は呆然と首を振る。まだ今から青天が落っこちてくると言われる方が信じられる。慌てて着物を整えて里長の屋敷に連れられて来たはいいが、つい先程まで洗濯をしていた指はかさついてお世辞にも美しいとは言えず、お姫様の滑らかな白魚の手には程遠い。
一体どこの世界にそこらへんにいる村娘を捕まえてこの国の若宮へ嫁がせる者がいるというのか。残念ながら、ここにいるのだが。
宮からの使者である松葉は、しかし鈴の言葉に同調するように「だよなあ」と言った。
「俺だって驚いたんだぞ、上官に呼び出されてみて何かと思えばお前の妹の星石はなんだと聞かれ、答えたらその娘は若宮の妃に選ばれたとか言われるんだもんよ。この鈴がだぞ? だからつい、うちの妹は腹が減ったと言って枇杷の木に登って落ちて、ぎゃん泣きしながらも枇杷はしっかり離さない、小猿みたいな娘ですよ。朝からお酒でも飲んでるんですか? って聞いちまったわ。ぶん殴られたけど」
「ばかじゃないの」
見知らぬ人にそんな子供の頃の恥ずかしい話をされた鈴の気持ちも考えて欲しい。鈴だってもう十六だ。小腹が空いて果実の木に登って、落ちるようなヘマもしないし、受け身も取れない程鈍臭くもないのだ。
と反論すると、「鈴、問題はそこじゃないよ」と里長に生暖かい目で諭された。
しかし気持ちはわかる。鈴とて、その場にいたら同じ事を聞くだろう。こんな西の果ての山間に暮らす捨て子の娘が、若宮の妃として入内するなんて国がひっくり返る程の大事件だ。松葉が上官の正気を疑うのも無理からぬ事だった。
「ねぇそれ、断れないの?」
「お前空気読めよ……」
「だって松兄さんだって思ったでしょ? こんな山間の里に住む田舎娘が若宮様の妃に入内なんて、無理に決まってるじゃない。妃教育だって受けてないのよ。まだ猿を捕まえて教育させて入内させた方が、賢いと思わない?」
「うちの妹には人間の矜恃ってもんがないのか? いや、そんなことはどうでもいい。そもそも、斎王の占に異を唱える事がどれほどのことか、鈴でもわかるだろ」
「鈴でもって何よ。どうせ頭悪いからわかんないもん。だってわたしの占いはそんな人の道筋を枠にはめ込んで、強制するようなものじゃないもの。こういう道もありますよっていう、星の一粒の可能性を提示してるだけ。占いってそういうものでしょう」
「俺だって何でもかんでも占いで決める上の頭の中は馬鹿げてると思うよ、でもこれは決定なんだ」
「でも、でもわたしまで出て行ったら婆さまは一人きりになっちゃうじゃないの」
「なんだい、そんな事かい」
それまで息子と娘が言い争うのを眺めていた老婆はほとほと呆れたように娘を見た。その視線に、鈴はむっと眉間に皺を寄せる。
「そんな事とは何よ」
「馬鹿な事をお言いでないよ、鈴。あんたが妃になるってんなら、あたしはその金で人でも雇って左団扇の生活でもしてやるよ」
「あらまあご自分がどれだけ偏屈なのか、よくご存知でいらっしゃるようね。賭けてもいいけど、人を雇ったって絶対三日と持たないわよ。前に足を折った時、手伝いに来てくれた里の方を一日で追い返した事をもうお忘れのようで。婆さまもお年には勝てないようね」
「跳ねっ返りが一端の口をきくじゃないか。あんたは自分が嫌だからあたしをだしに駄々を捏ねてるだけだ。こっちはむしろ早朝の鶏より喧しいのが居なくなって清々するさ。さっさとお行き」
「そんな風に言う事ないじゃない!」
しっしと犬を払うように手を振られ、鈴はかっとなって声を荒げた。里長も松葉も仲裁に入るような、火に油を注ぐ真似はしない。この二人がこうなっては、鎮火するのをただひたすらに待つ以外術がない事を、長年の付き合いで身を持って知っていた。
「そら、事実だからそうやってがなり立てるしか出来ないのさ。全く幾つになっても子供だね、あんたは」
「どうしてそんなひどいこと言うの?……わたしが、置いてかれた捨て子だから?」
「鈴、母さんは」
「松兄さんは黙ってて。婆さまはいつもそう。わたしが厄介ものだから、売られるように嫁に行かされてもどうでもいいんだ!」
誰かが何か言う前に、鈴は立ち上がって里長の屋敷を飛び出した。りん、と表戸を掃いていた小鞠が自分を呼んだような気がしたけれど、何も聞こえないふりをして家へ逃げ帰り、部屋に閉じこもった。
厄介なものだと言われてきた。
本当は鈴を厄介なものだと思っていないことなど、ちゃんと理解していたつもりだった。
老婆も兄ふたりも心の底から血の繋がらない鈴を愛してくれていたし、そこにどんな思惑があったとしても、鈴にとってはどうでもよかった。
けれど今、嘘でもそうだよと言われたら、きっと泣いてしまう。
「鈴、開けなくていいから聞いてくれ」
松葉の声だった。綿入れを耳に押し付けて鈴は遮ろうとしたが、松葉のよく通る声は、否が応でも鈴の耳に届いた。
どうして、こんな報せを持って帰ってきたんだと鈴は初めて、松葉の事が嫌いになりそうだった。
大好きな兄に、そんな事を思う自分も嫌だった。
「お前は賢いからどれ程駄々を捏ねても最後には宮へあがるだろう。それ以外を選べない事を、お前も、皆も理解している。母さんがあんな風に突き放したのは、お前が決して、この家の厄介ものではないからなんだよ。それをどうか忘れないでくれ」
それだけを言って、松葉の気配はそのまま遠ざかっていく。
鈴もこの決定が最早鈴の心ひとつで変えられるようなものではないことはわかっている。この話を拒めば婆さまだけでなく、松葉や里の人達の首まで危うい。松葉の言うように、他に道はないのだ。
引きこもっている鈴の後ろで、入内の準備は着々と進んでいた。里長の家には入内の支度金として多額の金や玉が運ばれ、鈴が今まで見たこともないような錦の反物や染め織物が溢れかえっている光景は、それが自分の身の値段でなければ素直に喜んでいただろう。
里の女達は総出で着物を縫い、その中には小鞠や玉藻もいた。里中皆大騒ぎの中、ひとり渦中の鈴だけが、ぼんやりとその様子を見ていた。
鈴はあれから里長の屋敷に泊まり、下にも置かぬ扱いを受け、食事から湯浴みまでを他人に世話をされる事にうんざりして部屋に閉じ籠っている。数日前までは一人で野山を駆け回っていただけに、常に人が側にいる事に辟易していたのだ。
「鈴、夕餉を持ってきたわ」
「……ほしくない」
「またそんな事言って。いいの? あなたの好きな散らし寿司作って貰ったの。ね、一緒に食べましょうよ」
「……」
残念ながら、どれ程怒りに燃えていたとしても拗ねていたとしても、腹は減るのだ。鈴は戸をほんの少しだけ開けて、湯気の立っている小さな桶と山菜の天麩羅と和え物の小鉢を乗せた盆を持った小鞠を迎えた。断じて散らし寿司に釣られたわけではない。戦略的休戦だ。
茶碗に盛られた散らし寿司を受け取って、鈴は息を吐く。祝い事の日でしか作って貰えない大好物の散らし寿司を前にしても、気分が晴れることはなかった。
「里中大騒ぎね」
「そりゃそうよ、若君の妃に選ばれたのよ? 入内の日取りまで時間もないし、隣の里の子たちまで駆り出されてるわ。今玉藻の縫ってる紫苑の唐衣、絶対鈴に似合うと思うの。すごく綺麗なのよ、あんなに美しい染物、見たことない」
恋しい人の事を話すようなうっとりとした声音で、小鞠は言った。いつもならその話題に嬉々として乗る鈴だが、今は到底そんな気分ではなかった。
「……本当に、わたしなのかな。その、斎王様の占いが間違ってるとか」
「鈴ったらまだ疑ってるの?」
「だって捨て子よ。何処の生まれの娘かもわかんないのよ? そんな得体の知れない娘を宮家に入れる? 正気とは思えない」
「そうかしら」
自分の茶碗にも寿司をよそって、小鞠は可愛らしく小首を傾げる。その姿は同性の鈴から見ても愛らしく、可憐だった。
「私ね、実を言うとあまり驚いてないのよ。だって鈴、昔からどこか違ってたもの。占いが出来るし」
「それは、この首飾りがあったからで」
「そうそれ、生みの親が残した唯一の物だって言ってたでしょう。鈴のご両親がどういう人だったかわからないっていうのは、逆の可能性もあるってことでしょ?もしかしたら尊き御方の血を継いでいるのかも。山神さまとか」
「やめてよ、そんな筈ないじゃない」
「あら、どうしてそう言い切れるの?」
小鞠は頑なだった。鈴は幼馴染みの少女が、まるで自分とは違う生き物のように見ていた事に、不意に脇腹を突かれたような衝撃を受けた。
「わたし、鈴はきっとこの里にずっといる事はないんだろうって思ってたわ。何となくだけど。決して入ってはいけないって言われてたお山に入っても何ともないし、それに……」
小鞠はそっと鈴の顔に近付いて息を潜めるように「そもそもあの山上の婆様が育てたってだけで、人間離れしてこない?」と少し悪戯めいた笑みを浮かべて言った。
その言葉に、鈴は先程の痛みも忘れて「……それは、確かに」と神妙な顔で頷いてしまった。
婆さまが一体幾つなのか知らないが、彼女は鈴が物心ついた頃には既に顔も手も皺くちゃの老婆だったのでもう既に相当歳だろうに今も一人で兎やら雉やらを狩ってくる妖怪だ。
どう考えても腰が曲がって杖をつく年頃でもしゃんと自分の足で歩くし、里の子供は度胸試しに山へ入り、主である婆さまにこてんぱんにされるのが恒例だった。走る速度など老婆とは到底思えない。山の木々を縫うように駆け上がってくる婆さまの姿を直視した者は大体三日三晩魘されるものだ。
そんな妖怪じみた婆さまに育てられた占いが得意な娘というのは、確かにどこか浮世離れしているようにも見える。
それを言ったら松葉や上の兄の縁寿もそうなのだが、彼らは互い武と文という、現実的な得意分野を持っていた。
「だから、里の皆もそれ程驚いてはいないわよ。困惑してるのはあなたと、松葉さんくらい」
「当人と身内なんだから当然でしょ」
「まあね」
天麩羅に箸をつけて小鞠はくすくすと笑った。
このあたりの里の中ではいちばん大きなお屋敷でのびのびと育った彼女はいつも前向きで、鈴が里の子供達から爪弾きにされてもお構いなしに手を引いてくれた。小手鞠を啄む小鳥のような愛らしい容姿と恋多き女であるが故に、同性からは度々やっかみも受けていたが、それにいつだって真っ正面から受けて立つような芯の強さもあった。
そんな彼女が、鈴は大好きだった。これからもずっと大好きだろう。
そこでようやく、鈴は自分が彼女達から離れて暮らす事に、大きな不安を抱えている事に気が付いた。小鞠はそんな鈴の手をわかっているというように握って、ゆっくり抱き締める。
「……寂しいの」
「うん」
「ここにずっといたかった」
「うん」
「婆さまのいう通りよ、わたし、自分が行きたくないから婆さまを使って駄々を捏ねてたの。きっと婆さまはひとりでもうまく生きていくわ。わたしが、寂しいの」
「生まれ育った土地だもの、当たり前だわ」
「小鞠……」
幼馴染の少女に縋って鈴は声を上げて泣いた。謝る事をやめた鈴はよく笑い、よく怒り、そしてよく泣く子供だった。癇癪を起こして駄々を捏ねながら泣く光景など、里では別段珍しいものでもなかった。
それでも十六年生きてきて、今日ほど泣いた事はないと鈴は思う。身体中の水分がみんな目から零れ落ちて、このまま泣き続けたら婆さまより皺くちゃの枯れ木のようになってしまうのではないかと思った。泣き続けて、泣き続けて、涙に融けてしまえたらとさえ思った。
そんな鈴が泣き疲れて眠るまで小鞠はただ手を握って、背中を撫でてくれていた。