十七
九条家の御屋敷の中で、最も庭が美しく見える一室に、二人は向き合って座っていた。
貴人でしか身に付けることを許されない本紫の袴と宮家の紋の入った羽織りを肩からかけた茅羽夜の前に座ると、鈴は真直ぐに彼を見た。
本来、貴人ともなれば輿入れ前の男女が直に向き合って座る事など許されないのだが、そんなの今更だった。鈴は彼の顔を見る所か共に騎乗したことも、並んで食べ歩きしたことも、山中で一晩を共にしているのだ。けれどやはり、いざそうだと思うと身体の芯が固まって、緊張に顔がやや強張る。
いつもの髪紐で乱雑に結った無造作なものではなく、きちんと櫛を通して結い上げられている髪は鈴と同じ黒だが、こうしてマジマジと見るとほんの少しだけ藍色の艶が見えた。
「身体の調子は、どうだ」
散々視線を彷徨わせて、茅羽夜が最初に告げたのはそんな事だった。無愛想で、どこかとっつきにくい印象を与える無表情を浮かべた、いつもの茅羽夜だ。
緊張が指の先から抜けるのを感じて鈴はにっこりと微笑んだ。
「もうすっかりいいわ。縫ったとこだってもう糸も取れてるし。むしろ重症なのはそっちだったのよ、もう起きて大丈夫なの?」
「ああ、元々龍の血で怪我の治りが早いから。ちょっとしたものなら、一時間もあれば傷跡すら残らない。……だから、平気だと言っただろう」
峠での事を言っているのだ。鈴はむっと唇を尖らせて反論した。
「それでも痛いのは同じじゃない、あの時のご自分の顔色をご存知? すぐに治るといっても、酷い怪我だったのは違いなかったのよ。そもそも、どうして貴方が花嫁行列に混じってるの?」
夫となる者が自ら護衛に混じってるなんて、東和広しといえど聞いた事がない。それも彼はそこら辺にいる貴族とも訳が違う。この国の天に最も近い頂きにいるはずの御方で、宮から大陸の西端まで一日二日の距離でもないのだ。挙句二度も死に掛けるような──本人はすぐ治るので大した怪我じゃないと言い張るが──真似をして、後から思えば顔から血の気が引く思いだ。彼が宮城にいない事が発覚した後、早馬で飛んできた縁寿からしたら、本当に寿命が数年縮まったろう。
ちなみにこれは後から聞いた事なのだが、縁寿は中務省の中の内薬司に所属し、今では東宮付きの医官なのだった。
つまり彼は初めから、茅羽夜が若宮殿下であることを知っていたのだ。
知っていてよくも「存じ上げません」等と言えたものだと、鈴は怒りを通り越して感心すらしたし、年の離れた兄妹を偽ろうという提案が飲み込めたものだと思う。
そう言うと縁寿は大変いい笑顔で「これから義弟とも義理の姪の夫にもなる方ですからね、あながち間違ってなかったのでいい機会かと思いまして」と言ってみせたのだった。あれでいて縁寿は中々お茶目で、案外ノリがいいのだった。それくらいの豪胆でなければ山守の息子が九条家に婿入りなど出来ないのかもしれない。
その縁寿にも散々言われ尽くしただろうが、鈴も一言何か言わずにはいられなかった。
茅羽夜は少し拗ねたように視線を下げる。彼はわかりにくいだけで、意外と感情豊かであった。そして罰が悪い時、彼はいつもよりやや甘えたな、子供っぽい口調になる。
長身と大人びた表情と顔立ちのせいで幾つも歳上だと思い込んでいたのだが、こうして見ると鈴より数月歳下のまだ少年の抜けないあどけなさが見えた。
「だって君も言っていたじゃないか。宮に引きこもってないで、自分で迎えに来いって」
「言った。確かに言ったわよ言いましたとも。だからってねぇ……」
小鞠が攫われて、たくさんの人が苦しんでいるのに、当事者である若宮が高見でいる事が腹立たしくてその場の勢いで言った言葉だった。謝るつもりも撤回するつもりもないが、鈴はやや罰が悪くなって口を噤んだ。まさか本当に迎えに来てるとは露ほども思っていなかったのだ。しかも最初から。
さっきまで叱られる子供のようだった茅羽夜は、深い藍色の瞳を真っ直ぐ、鈴へ注いでいたので一瞬たじろぐ。いつの間にか主導権が逆転していた。
「どうしても君を妃に迎えたかったから、自分で迎えに来たんだ」
「…………」
決定的な言葉を出されて、文字通り鈴は言葉を失った。
「どうして、そこまでして……」
そこまでする意味が、鈴は自分に見い出せなかった。帝都まで轟く美貌でもなければ、才女でもない、多少巫術の心得があるだけの本当にただの山守の娘だ。木登りは得意だけど琴も笛も弾けない。礼儀作法なんて何の腹の足しにもならない。そういう育ち方をした人間だ。もっと相応しい姫は居たはずなのに。
その問い掛けを予期していたように、茅羽夜は頷いた。
「簡単な話だ。十年程前、山で君が匿った子供が居ただろう。あれは、私だ」
───十年前、先代の崩御を受けて宮城は混乱した。先代は多く落胤がいた為に、十二家はそれぞれ皇子を担ぎ上げ、かつてない規模の覇権争いが巻き起こった。朝廷は殆ど機能しなくなり、国も随分荒んだ。当時まだ幼かった茅羽矢は殆ど継承権のない末御だったけれど、先祖帰りとしての血の濃さは、ともすれば先代よりも濃かった。
故に、先代は彼を恐れて誰も立ち寄らない離宮の奥深くに閉じ込めた。殺す事も出来ず、しかし生かす事もしなかった。
彼を見出したのは他ならぬ、空鷹だった。
「先代が崩御して混乱してる間に空鷹の手の者が手を引いてくれて、なんとか殺される前に逃げ出す事が出来た。当時今の陛下と三番目だか四番目だかの御子が優勢だったのは空鷹も知っていたし、私を担ぎ出せる程の力は当時の九条にもなかった。だから熱りが覚めるまで、私は九条家の隠れ家のひとつに身を隠す事になったのだが……その道中に襲われて逃げた先があの山だった」
茅羽夜を見つけたのは追手でも逸れた仲間でもなく、同い年くらいの娘だった。
何も知らない鈴は何の見返りも求めず茅羽夜を手当てし、自分の食べ物を分け与えた。当時気候の穏やかな西の九国はマシな方であったとはいえ、国長を失って荒れ果てており、鈴の住む里もそう余裕があったわけではないのは見ただけでわかった。
それでも、鈴は何も持っていない子供を助ける事を「ひととして、当たり前のこと」だと言った。
泥だらけで何も持っていなくて、今にも死にそうな子供に自分の食べ物を分け与える事を「当たり前」だと言えるような時代ではなかった。
誰もが自分たちの事で精一杯だった。
「人が生きる為に他者を陥れて騙して、殺す事も出来る生き物だと、私は身を持って知っていた。最初、私は君を信用出来なかった。油断させてておいて、役人に売ろうとしているに決まっている。殆ど忘れかけられたとはいえ末席に座る自分を突き出せば、それなりに報酬が出る事を知らない者はいない。あの辺りにも当然、役人は何度か巡回に来ていたしね」
けれど怪我が治るまで、鈴は毎日山の祠まで登ってきた。枯れ草を集めて寝台を作り、包帯を取り替えに現れた。
そして少年の隣に座って、星を、花の名を、食べれるものと食べれないもの、食べても平気だが美味しくないものをひとつずつ、茅羽夜に与えた。
遠巻きに見ている獣達を指差して、名も教えてくれた。彼らは茅羽夜の中にある龍の血を恐れて決して近付こうとはしなかったが、鈴が茅羽夜に構うのを快く思っていないのは見て取れた。茅羽夜は屈託なく笑いかけてくる少女よりも獣達の方がずっと賢く、信用出来る生き物だと思った。
それと同時に、山神に連なる獣たちが慕う少女が茅羽夜にはひどく眩しいものに映った。
龍の血は神獣達の畏れを買っても、信頼は与えてくれない。その事がひどく羨ましくて、眩かった。
怪我が治る頃には彼女への疑心はそのまま、野に吹く風の様な感情に取って変わっていた。だからこそ何も告げずに、その場を去ったのだ。ちょうど空鷹の仲間が茅羽夜を探して近くまで来てくれたということもあり、一もなくその場を立ち去った。
迷いはなかった。ぐずぐずしていればその分、彼女に迷惑が掛かるのは理解していたから。
「でもあの時最後まで礼を言えなかった事が、ずっと心残りだった。山の祠で君を見つけた時、君が十年前の子供を覚えてくれているのだとわかった時、本当に嬉しかった。……それだけで私はこれから先きっとひとりでも生きていけるだろう。そう思えるくらいに」
「……待ちなさいよ。ひとりで生きて行くって、どういうことよ」
「君は宮へ上がるべきじゃない」
暗い瞳を伏せて、茅羽夜は告げた。彼の言葉を鈴はそのまま怒り出すかと思いきや淡々とした表情で受けた。しかしその肩が小さく震えている事に、茅羽夜は気付かなかった。
「ずっと考えていたんだ。鈴の言う通り、どうしても会いたかったのは私の身勝手な我儘で、多くの人間を巻き込んでしまった。君も、君の親友も兄君も危険に晒したし、宮に上がれば安全というわけでもないんだ。むしろもっと陰湿で姑息なやり方で、君は命のやり取りをする羽目になる。この旅でよくわかったよ。君はどこへ行っても真っ直ぐだ。水で、風で、陽の光だ。あんな所へ行ったら絶対に後悔するし、きっとたくさん傷付くだろう」
彼女が、もっと狡い人間だったら良かった。
でもきっと、そんな彼女だからこそ、自分は西の果てまで彼女を迎えに行ったのだろう。
「だから……宮へあがるなって、輿入れを取りやめろっていうのね」
「空鷹にはちゃんと良いように取り計るよう、心を尽くそう。君は何も心配することはない」
「……ば、」
「?」
「ばっっっっかじゃないの!」
鼓膜が破れるかと思う程の声量で叫ばれた。ついでに平手打ちまでされた。乾いた音が部屋に響き渡り、何が起こったのかわからず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている茅羽夜に、鈴は益々腹が立ったように肩をいからせた。
「あんたって人は本当にばか! 今更、ほんっとに今更それ言う!? ここまで来て!?」
「そ、それは申し訳ないとは思って……」
「思ってるならその変な方向の飛び抜けた頭でちょっとは考えなさいよ! ていうかわたし、言ったわよね、青幡か茅羽夜か選べというならあんたを選ぶって。聞いてなかったなんて言わせないわ。わたしは自分の意思で選んだ。それなのに今、あんたがわたしの気持ちを無視するの? ばかにしないでよ」
「でも君は輿入れが嫌だって言ってたじゃないか」
「嫌よ! 勝手に占いなんかで人生決められて、腹が立ったわよ! わたしは誰かに自分を決めつけられる事が嫌いなの、だから、今、あんたにも怒っているの! わかる!?」
「う、うん」
捲し立てる剣幕に押されて、弱り果てたように茅羽夜が頷く。とてもこの国の頂きに席を持つ者とは思えない程、彼は目の前の少女の前で小さくなっているただの十六歳の少年だった。
(……この東和において、若宮を平手打ちにして「あんた」呼ばわりした上に「ばか」とまで言い切る人間が彼女以外にいるだろうか)
いや居ない、居てたまるかと茅羽夜は思った。彼女は血はこそ繋がっていないだけで正真正銘、あの老婆の娘だった。小さな旋風のようで何をしでかすか分からないところがそっくりだ。
幾らか叫んで気持ちが落ち着いた鈴は上下する肩を宥めて、茅羽夜のすぐ前に腰を下ろした。
「あんたはわたしを、どうしても妃にしたいから危険も省みず、西端の田舎里まで迎えに来たんでしょう」
「うん」
「だったらそれを告げた、今、この瞬間の、わたしの気持ちを問いなさいよ」
茅羽夜は幾らか目を瞬かせて、目の前の少女を見た。鈴の菫色の瞳にはもう先程の怒りはなかった。目元を赤らめて、やや斜め下を向いている彼女の帯には茅羽夜が買ってやったあの根付がそこにあるのが当然のように揺れている。
ゆっくりと手を取って、茅羽夜は少女を見た。
そして、恭しく、心を込めて言った。
「九国の霊峰・九頭竜山の社に仕える娘であるそなたに、乞い願う。どうか、私と共に宮へのぼり、私の妃になってくれないか」
九条の娘ではなく、あの日祠で出会った山守の娘がいいと茅羽夜は言った。
誰でもいいわけじゃない。
鈴だから迎えに来たのだと、そう言うのだ。
だったら、と鈴は微笑んだ。
だったら、答えはもうとっくの前に決まっている。




