十六
庭木に植えられた桃の盛りを迎え、花を啄む鶯が春を告げると、東和の中心部に構えられた帝都にもようやく温かな光が降り注ぐ。
北方から降りてきていた冷気は徐々に北へ北へと押し上げられ、道脇では蒲公英や菫などの可憐な草花もうんと顔を伸ばして陽光を浴びている。まだまだ花冷えする日もあるが、帝都の街並みを歩く人々は外套や襟巻きを取り払い、足取りは軽く、娘たちの着物も桜色や若草色などの柔らかい色合いへ変わりつつあった。
龍田の市場も活気があって良かったが、縁寿のいうようにもっと大きく、人も凄かった。
東和の心の臓、人も物も、凡ゆるものたちの行き着く場所。
それが此処、今上陛下の在わす天峰・白龍山を背に頂く帝都だった。
人々の間を縫うようにして鈴は街を練り歩いていた。薄桃に牡丹と撫子をあしらった着物姿で、帯には鼈甲の板に通された黄水晶の根付が揺れている。
片手にはみたらし餡のたっぷりかかった団子を二本ほど持っており、反対の手には粗目を塗した焼き煎餅が握られていた。ついそこの屋台で買い求めた熱々の一品である。最初の頃はあまりの人の多さにあちこちぶつかり、謝ってばかりいた鈴も人の脇を通り抜けるコツを覚え、今ではこうして買い食いをしながら歩けるようになっていた。
「ちょっと鈴、あんまり遠くまで行かないでったら!」
「そんな離れてないわよ。小鞠も食べる?」
「食べるけど、そうじゃなくて!後から縁寿さまに叱られるわよ!」
後ろから息を切らして追い付いてきた幼馴染を見て鈴は二本あった内のまだ口を付けていない方のみたらし団子を手渡す。咎めるような目で睥睨していた小鞠は、けれどその団子を受け取って溜息をついた。
もちろん都の中と言っても鈴と小鞠だけで歩いている訳ではない。少し離れたところにはちゃんと護衛がついており、小鞠もそれを承知していた。
「あまり沢山食べないで頂戴、帯がキツい緩めてくれなんて絶対聞きませんからね」
「これで最後だもん。それに歩いて戻ればあっという間にお腹からなくなっちゃうわよ」
最後のひとつを串から歯を使って抜き取り、口に含んでから唇を舐めた。その様子を小鞠はまたもや溜息をついて頭を振ったが、言っても無駄だと諦めたのか自分も団子に齧り付いた。
鈴は街の向こうに聳え立つ天峰を見上げる。
左肩あがりの山の裾から中腹にかけて赤い鳥居が蛇行しながら続いており、その上に帝の御住まいになる宮城は建っている。下からその宮城の全容は見えず、白雪の城壁と美しい屋根瓦が小さく見えるだけだ。
祭の時にだけ開けられる里の龍神さまを祀る社に飾られていた、掛け軸の中にしか見たことのなかった光り輝くまほろばがすぐそこにあるのが不思議な感覚だった。もうすぐ鈴も小鞠もあそこで暮らす事になるというのは、もっと実感の湧かない話だ。
でも、あそこからならこの世のすべてが見渡せるのではないかと鈴はぼんやり思った。屋根に登ればきっと気持ちいいだろう。流石にそれを許してもらえるほど寛容な場所でないことは承知しているが。
「……随分、遠い所まで来ちゃったなあ」
「本当ね。わたし達、ついこないだまでただの村娘だったのに」
鈴が独り言のようにぼやくと小鞠も頷いて賛同してくれた。
陽が沈み、星が瞬き始める頃に、鈴はとうとう宮へ登る。その為、帝都は昨日から昼も夜もなくお祭り騒ぎだった。どの家の軒下には宮家の藤の紋を写した祝いの提灯が下げられ、東宮へ輿入れする九条家の姫君の為の噂があちこちに飛び交っていた。
まさか当の娘がその辺をみたらし団子を頬張りながらふらふら歩いていることなど、幼馴染みの少女以外誰一人知るよしもない。
「でも無事に着けてよかった。本当に、鈴が攫われたって聞いた時は心の臓が潰れるかと思ったわ」
「それはお互い様だと思うけど」
串を手元で遊ばせながら、先日の事を思い返す。
小鞠を攫った集団は、やはり峠の奴らの残党だった。彼らは青幡の手引きで宿に侵入するものの思いの外、松葉の感知が早かった為、逃げる際に慌てて火を放ったのだと言う。
松葉が動ける者達を連れて彼らから無事に小鞠を救出し街へ戻ってきたのは、鈴が攫われて、茅羽夜が行き先も告げずに単独で動いた後の事だ。
今回の件で一番割を喰ったのは縁寿だろう。
彼はすぐ様九条家に連絡して街の顔役に話を通し、使えるものは全て使い、松葉達が戻ってくるやいなや鈴の捜索にかかった。
小鞠を攫ったのはいざという時彼女を盾にして鈴を連れて行くつもりだったのだろうが、彼の予想より松葉の動きは早かった。上の指示を待つということが松葉はとにかく苦手なのだ。現場の状況を判断し、即決断、即行動が松葉だった。その場の決断力と判断力に恐ろしく長けるものの、規則に則って物事を計る上の老人達には嫌われるのだろうなと思う。そういう面で見れば、松葉と小鞠は良く似た者同士と言えた。味方も多いが敵も多い。
しかしそれを鈴は知らないのだから、言葉巧みに脅して連れて行く事は可能だったろう。どうしてそれをしなかったのかを想像するには彼に対する情報が少な過ぎた。
賊達も青幡について素性は一切知らされておらず、彼についての情報は何一つ得られなかったが、小鞠が無事に戻って来ただけで鈴は充分だと思う事にした。
彼がどうして皇を憎むのか。鈴を姫宮と呼び連れていこうとした訳も、彼らの国がどこなのかも不明瞭な点は多かったが、とりあえず今の鈴には考える余分がなかった。
掌を縫い、一日眠って食べるだけ食べたら回復した鈴と違って、茅羽夜は重傷だった。
聞けば鈴の見たとおり肋骨が折れて肺腑に喰い込んでおり、一時は予断を許さない事態になったが、五日もすれば自分で起き上がれるまでになっていた。彼の治癒再生能力には、あの時鈴が行った彼の中の龍の血を活性させる為の術を加味しても驚かされるばかりだ。それが皇に流れる龍の加護である事は最早疑いようもなかった。
(この東和をお創りになられた龍神様の血を受け継ぐ皇……茅羽夜の髪色の変化は、彼の血に宿るものってことで……つまり、茅羽夜は龍の御子さまなんだ。ん、あれ、何か……そういえば前にもそんな話を……)
したような、しなかったような。
うーんとこめかみを指で揉んでみるが、思い出せそうで思い出せない。
血といえば青幡は術に血を使わなかった。思い返せば婆さまも血を使うことは無かった。もしかしたら鈴も極めればああなれるかもしれないが、師である婆さまから離れた今、再び師事することは難しいだろう。
むしろ別の勉強の方がこれからは鈴に必要だった。そう、お妃教育である。
事後処理やらこれからの対応やら、あらゆる事が動いて、結局鈴が改めて彼とまともに対面出来るようになるまで十日もかかった。花嫁行列は残すところ帝都の街を練り歩き、宮へ上がるのみとなっている。
その間に鈴は既に九条家の当主であり、これから養父母になる空鷹と細君である真玲とも顔を合わせ、挨拶を済ませていた。
初めて対面した空鷹は想像していたよりもずっと若く、人当たりいいの青年で、ともすれば縁寿の方がよっぽど気難しい性格をしていた。背中まで伸ばした癖のない髪を緩く結わえ、三十代前半の縁寿とそう大きく変わらないように見えたが実際の年齢まではわからない。もっと真四角な顎と厳つい髭面の如何にもな初老の男性を思い浮かべていただけに、鈴は拍子抜けしてしまった。
けれどこの彼が一時は危ぶまれた九条家を建て直して中央に返り咲いた能吏だ。彼にとっては鈴も縁寿も駒のひとつなのかもしれないと思うと自然と背筋が伸びる。
しかし彼らには確かに、鈴に対して情が感じられた。
ずっと子供に恵まれなかった真玲は養女とはいえ娘が出来た事を心から喜んでくれ、手ずから帝都にある九条の屋敷を案内してくれる程だった。
主人も年齢不詳なら、細君もまた思っていた以上の若さだった。とろりとした陶器のような肌にはしみも皺もひとつとしてなく、焚き染められた香の白梅が薫る貴人を絵に描いたような御婦人だったが、奥方自身はどこか無邪気で少女のような方だった。
しかしこの真玲も元は宮家傍系筋の公家の姫君であり、主人が参勤している間は九国に残り、国を預かる国長として立っている女性だ。人は見た目ではないのだと強く感じた夫婦なのだった。
そして今、縁寿たちと共に鈴が滞在しているのはその九条家のお屋敷である。
庭に植えられた花を啄む小鳥たちを見上げていると「鈴」と声が掛かった。声の主はもう、振り向かなくても分かっていた。
「茅羽夜」
月の使者と見間違う美しい人が春の陽射しを受けて、桃の木の下に立っていた。




