十五
濃い花のにおいがする。ふわふわとした意識は夢現に漂って、ようやく鈴の元に戻ってきた。それでも霧が掛かったようにぼやけた頭では今自分がどのような状況に置かれているのかがわからない。
辛うじて首を動かすと、どこかの建物のようだった。前に茅羽夜と一晩過ごした古い御堂のような黴臭や傷みは少ないが、それでも人がこまめに手入れをしているようなものではなかった。板の間から吹き込む風は冷たく、いつの間にか裸足になっていた素足が寒さに痺れている。
ふいに目の前の戸が音を立てて開いた。外の風に花の匂いが逃げて、冷たい風が吹き込んだおかげで、ほんの少しだけ頭がはっきりする。気温の感じや山の土の匂いからして、そう遠く離れた土地ではないことがわかった。
「ああ、起きたんだね。姫様」
にっこりと花巻は微笑んだ。こんな状況に置かれていなければ好感が持てたその人の良さそうな笑顔のまま花巻はその場に蹲み込んで鈴に視線を近付ける。
「喉渇いた?水飲む?それよりも食べ物の方がいいかな、生憎干し肉くらいしかないけど。あ、干し杏とかもあるよ?姫様、甘い物好きでしょ」
「……それよりも、説明を、して。これはどういうこと」
「うーん、やっぱそこだよね」
蹲み込んだ膝に肘を置いて頬杖をつく。段々と明瞭になってきた頭で置かれた状況を確認するように視線を彷徨わせれば、山中の社のようだった。大人が三人寝転べばいっぱいになってしまうくらいの大きさで、鈴がうつ伏せに寝転がっている背後にはかつて何かが祀ってあったのだろう祭壇の名残があった。出入出来るのは花巻のいる引き戸の戸口だけで、彼の背後は真っ暗闇の山中だ。ざわざわという葉の擦れる音が鈴の胸の内の不安を撫でた。
「まあご覧の通り、姫様を攫って来たんだ。俺たちの国へ来てもらおうと思って。大丈夫、危害は加えないよ」
「縄で手を縛っておいて、それを言う?言っている事とやってる事が一致しないわね」
「それはごめんな?でも君が大人しくしてくれさえしたら、本当にこれ以上の危害は加えない」
「信用出来ない」
「だよね」
ごめんねと再び気持ちのこもっていない謝罪を口にする花巻は傘持ちの頃とはまるで口調も表情も違っていた。こちらが素なのだろう。ただ屈託ない笑みは無邪気で、何も変わらなくて、それが一層恐ろしくて、悲しかった。
「峠のあいつらと仲間なの?」
「仲間っていうか雇主の方が近いかな。俺もまた下っ端なんだけどね。でもまさか多勢に無勢であんなにあっさりやられるとは思わないじゃん。正直見誤ってたよ、君達の事」
「君達って」
瞬間キィンという金属が擦れ合う音が辺りに響き渡った。何かに弾かれて床に小刀が刺さる。花巻はさっきまで鈴のほうを向いていたのに、指先ひとつ動かしただけでそれを弾いたようだった。よく使い込まれた洗練された動きは鈴よりもずっと年季の入った術者のそれだ。
「約束通り一人で来てくれたの?いやぁ、いい子だね、茅羽夜くん」
ぼ、ぼ、と高床の階に沿って焔が灯る。その場で立ち上がって花巻が鈴に背を向けると、彼の足の向こうに松明に照らされた茅羽夜が見えた。淡々とした無表情ながらも、その目は明かに怒りを含んでおり、真っ直ぐ男を見据えている。
「お前は誰だ」
「傘持ちの花巻だよ、知っているだろう」
「いいや、違う。だから聞いている」
「はは。うん、まあそうだよね。じゃあここでひとつ、自己紹介をしようじゃないか。銀の髪と黄金の瞳を持つ茅羽夜くん」
茅羽夜の表情は静かだった。予想していた事だったのだろう。
「俺の名前は青幡、姓と出身地と誕生日は秘密。趣味は野鳥観察、可愛い恋人募集中の二十七歳さ。よろしくね」
「そうか、では鈴を返してもらおう」
「あれ、名前は無視?君が聞いたから答えたのに。まあいいか、どうせ君にはここで死んでもらうんだし」
まるで明日の天気でも話すような気軽さで、花巻……いや、青幡は口元に笑みを浮かべた。よく笑う人だ。ちっとも楽しそうじゃないのに。
青幡が指を伸ばすと、宙に臙脂の炎が無数に浮かび上がり、文字を書いていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。お手玉を数えるようにどんどん増やしていくも、十を越えた所で飽きたらしくそれらが一斉に茅羽夜目掛けて飛び掛かる。茅羽夜は最小限の動きでそれの軌道を読みながら避け、斬って捨て地を蹴った。風圧に息が詰まる。
茅羽夜の剣の切っ先が青幡の鼻の頭を掠め、すかさず足蹴が繰り出される。しかしそれも踊るように避けられた。何とか身を捩って顔を上げて、彼らの動きを目で追おうとするものの、開けた広場の端から端をじぐざくに縫うように切り結ぶ彼らを完全に追うことは不可能だった。
青幡は茅羽夜のようにわかりやすい武器を持っていなかった。けれど軽業師のような身のこなしで彼の目にも留まらない斬撃を避け、いなし、指の動きを変えながら焔を生み出していく。
妖術とも、巫術とも少し違う。混じっている、と鈴は感じた。どちらでもあって、どちらでもない。彼自身が変質していくような気配を感じていた。
遊ぶように茅羽夜の攻撃を躱しながら、青幡がついと此方を見た気がした。気のせいだったかもしれない、というのを思い直したのはその直後の事だ。
青幡は耳飾りを取って歯で噛み砕くと、それにふっと息を吹き掛けた。あ、と思った瞬間には欠片の一片一片が鈴の掌程にもなり、放たれた矢のように茅羽夜へ一直線に飛んでいく。肉を切り裂く嫌な音が、嫌に耳に響いた。
「ばか、何で避けないのよ!」
「言うねえ、君を庇ってくれたのに」
「だから怒ってるんだってば!」
あのくらい彼なら避けられた。避けなかったのは、茅羽夜の後ろに、鈴がいる社があったからだ。彼が戸口を開けたままにして戦闘を初めたのはこの為だった。彼の体を掠って軌道のずれた一欠片が戸口に当たって砕けたのを見て、唇を噛む。
欠片が肩や腿、脇腹に深々と刺さった所へ追い討ちをかけるように青幡の蹴りが顔面に入り、茅羽夜の体が吹っ飛ぶ。そのまま木に背を打って落ち、小さな呻き声が届く。もんどり打ったものの、ゆっくりと茅羽夜が立ち上がろうとして、ばたばたと赤いものが唇から椿のように落ちた。
「あれまだ動けるの。すごいねぇ、薬入ってたとしてもあいつらには荷が勝ちすぎてたか」
「薬ってまさか……」
峠の襲撃時の竹筒の水、ここへ来る直前のお茶、突然の眠気。そうだあの時も花の匂いがした。あれが薬の匂いだったとは。縁寿だったら嗅ぎ分けられたかもしれないが、生憎鈴はそこまで薬に詳しくない。
「そうそう、あの時は焦ったなあ。姫様ったら茅羽夜くんにお水殆ど分けちゃうんだもん。おかげで効きが悪くって。茅羽夜くんにもすぐ気付かれちゃうし、おかげで逃げられちゃうし」
「貴方は何の為にこんな事をするの?わたしを攫ったって若宮様も九条家も痛くないわよ。どうせ養女だもの。幾らだって代わりはいるわ」
「君は本当に何も知らないんだね」
どこかで聞いた言葉だった。ああそうだ、鈴は何も知らない。
青幡がどうして茅羽夜を殺そうとしているのか。どうして鈴を拐おうとしているのか。若宮がどうして鈴を選んだのか。何が自分の身に降りかかろうとしているのか、その全てを鈴は手繰り寄せられずにいる。
その事が、歯痒くて。
青幡は茅羽夜を立たせるとそのまま膝で蹴り上げ髪を掴んで放り投げる。彼の膝が胸に入った瞬間、骨が折れる嫌な音がして、堪らなくなってもうやめてくれと叫んだ。ぐったりと倒れ込んだ茅羽夜は胸程微かに上下しているものの、起き上がる様子はない。
「彼を殺す事も俺の仕事だから、いくら姫様の頼みでもそれは聞けないよ」
「どうして……」
大切な人がいると、言っていた。鈴を優しい人だと言ってくれた。彼のその心まで嘘だとは思いたくない。
「俺達の悲願なんだ。俺を育てくれた人が、こいつの中にいるものに会いたがっててね」
「だからって罪のない人を巻き込んでいいの?一体何人死んだと思っているの」
「俺達が殺した人数より、皇が葬り去った数の方が多いだろう。それでも君は彼らの味方をするの?」
「論点をずらさないで。わたしは貴方の話をしているのよ、青幡」
青年の顔に初めて笑み以外が浮かんだ。それでも笑おうとしているのか叱られた子供みたいな、仕損なった歪んだ顔が焔に照らされている。
鈴は戸口まで這いずって少しでも彼らの側に寄ろうとした。硝子の破片がきらきらと水飛沫みたいに反射する。
「貴方の悲願とやらをわたしは知らないからそれを悪だと断じるつもりはないわ、でも一方より殺した数が少ないから許される事なんて、何もないのよ。貴方は皇が憎いからこんなことをするの?でも行列に参列していたのは、全員が全員、皇に心を捧げている人間ではないことくらい貴方だって分かるでしょう」
「酷いな、姫様。俺達はみな、君のためにしているのに」
鈴は笑った。その気持ちは鈴が小鞠に預けて、里へ置いてきたものだった。
「誰かの為ってね、結局自分への言い訳なのよ。それでも本当に、一欠片でもわたしの為だと思うなら、今すぐにこの縄を解いてわたし達を兄さんたちの元へ帰して」
「結局、君は俺達より若宮を選ぶんだ」
「そういう事じゃないわ」
「そういう事だよ。今俺より彼を選ぶと言うなら」
すうっと青幡の目から光が引いて行く。彼の片手には先程の破片の何倍もの硝子片が浮いていた。そのまま落せば人の首くらい、撥ねられそうなほど。ざあっと鈴は青褪めた。青幡の目は本気だった。脅しでも何でもなく、彼は茅羽夜を殺せる。虫の羽を毟る子供のように、無邪気で、なんの罪悪もなしに殺せるのだと思った。むしろそこに、彼なりの正義感すら浮かんでいた。
じりじりと焦れたように鈴は首を伸ばす。あと少し、ほんの少しだけ────
「姫様がなんと言おうと、俺は彼を殺すよ。……もう二度と、暮星のような人を生まない為に」
鋭い凶器が青幡の手から放たれる────その前に、それはこの手に届いた。
「!」
最初に茅羽夜が投げて青幡が弾いた小刀で縄を切って、そのまま刀身を力のまま握った。肉を裂く音が自分の掌から聞こえるのが、何だか他人事のように思えた。頭に血が上っているせいだろう、痛みもそれ程感じなかった。鈴の首元から響く涼やかな音が澄み渡り、場を支配すると、ぎょっとした顔で此方を振り返った青幡の頭に、濁った乳白色の鉤爪が降り注ぐ。それを避けようとして僅かに軌道が逸れたのを見て、鈴は小刀を放って勢い良く駆け出した。
「おまえ……この、裏切り者め!」
「北斗!」
ついでとばかりに青幡を数回足蹴にした北斗が旋回しながら鈴の頭上を飛ぶ。尾羽を抜き取ると、それはたちまち矢となり指を動かして放つ。あっさり飛び避けられたものの、その隙に彼と茅羽夜の間に体を滑り込ませて鈴は仁王立ちに立ちはだかった。
「わたしは貴方の国に行かない。茅羽夜も殺させない。誰かが死ぬとか、殺されるとか、もうたくさん!どうしても茅羽夜を殺すと言うなら、わたしも此処で殺しなさい」
「どうしてそうまでするんだ?彼とは出逢って数日だろう」
「ええそうよ。でもそれが何?茅羽夜はいつもわたしを尊重しようとしてくれた、どうにもできない事の中でも、わたしがどうしたいか、きちんと聞いてくれた。この人がわたしに対して誠実でいようとしてくれた事は、たった数日でもちゃんと分かったわ」
顔も知らない相手に輿入れは嫌だと山の祠の前で溢した時も「それもそうだ」と肯定してくれた。賊に襲われた時も、それしか手がなかったのだとしても、出来ると言った鈴を信じてくれた。
嫌だと思う事に立ち向かうのはたくさんの犠牲を払うものだということは、鈴にも理解できたけれど、それらを振り払ってまで得たい自由ではなかった。鈴にとっていちばん我慢がならないのは、心まで強制される事だった。
人は皆、知らずに心まで押し付けるものだ。それは期待とか同調という感情だった。栄えある東宮の妃に選ばれたのだから喜んで然るべきだ、という綿のような圧力。鈴が宮へ登る事で里は潤うし、断れば何かしら処断があるのもわかっていたから、それはもういい。でもこの心だけは、鈴は鈴のものでありたかった。
そう在りたい鈴を、茅羽夜は一度も否定しなかった。
「貴方か茅羽夜かここで選べと言うなら、わたしは茅羽夜を選ぶわ。だって貴方はわたしを見ていないもの」
両手を広げて、まっすぐそう言い放つと、鈴は微笑んだ。なんだ、こんな簡単なことだったのだと、晴ればれとした草原に風が吹いていくような気持ちだった。
掌からは血が未だに滴り落ちていて、鈴の足元にある鮮血の水面を揺らしている。僅かに霞がかってきた目を懸命に瞬いて、それでも鈴は己に与えられた名の響きのように、凛として彼を見据えた。
青幡は顔半面を片手で覆い、泣き笑いのような目で、鈴を見た。それが彼の落胆であることは、彼の多くを知らない鈴には読み取れなかった。
「……どうして、わかってくれないのかな。きみも、あのひとも────やっぱり、君を殺すしかないのかな、ねえどう思う、若宮さま」
え、と鈴が声を上げる前に、視界の端に雪が舞う。
いいや違うと気づいたのはすぐだった。雪片だと思ったのは、鈴を抱え込むようにして立っていた茅羽夜の髪だった。髪紐が千切れて自由になった茅羽夜の髪はまるで水に墨が染みていくように毛先から色が抜けて行き、震える銀糸の睫毛に縁取られた双眸は海色ではなく、輝く黄金。
はらりと落ちた眼帯の下に覗く白い鱗状の肌に、思わず息を飲んだ。角と爪こそ生えてないものの、あの時の夢と同じ姿の彼がそこにいた。現実世界で見るその姿は夢よりも厳かで、恐ろしく、美しい。里で龍神の社で祝詞をあげる婆さまにならって祈りを捧げた時よりも、ずっと神様が近くにいるような気がした。
彼は剣の切っ先を青幡に向けたまま、もう片方の腕で鈴をしっかり抱え込むようにして立っている。見た目は努めて平常心を保っているようだが、息は荒く細く、それでいて掠れている。肋骨が折れて肺に刺さってるのかもしれない。嫌な呼吸音だった。
「知らない」
「本当若宮くんって鈴以外には氷のように冷たいよね、俺が彼女の側にいると、いつも後ろから睨んでてさ。視線がまじで陰湿。龍の血じゃなくて大蛇の血でも引いてるんじゃない?」
「敬称を名前みたいに呼ぶな」
「あれ?つっこむとこはそこなの?ああもう本当にズレてるよね、君、姫様以外の人と会話する気とかないでしょ。俺、君が大嫌いだな」
「初めて意見があったな。私もお前は好きになれそうにない」
「君は彼女を不幸にするよ」
感情の抜け落ちたような顔で、青幡は予言のように言った。どうしてか、その顔が、一番彼らしいと鈴は思った。あの時峠で見た彼も青幡の本当の顔だと思う反面で何の感情も浮かんでいないその顔が、鈴には真実、彼の本音だと感じた。彼の中は、まるで伽藍堂だ。
「鈴、知ってる?白銀の髪と、黄金の瞳はね、神龍である我らが父の子である証なんだ。そして同時に、この国で最も穢れた、忌まわしい、罪人の烙印なんだよ」
「罪人……?」
「そう。皇は、生まれながらに皆咎人なんだよ。茅羽夜、東の龍を継ぐ愚かな咎人よ。お前たちの罪はその血だ。お前たちが忘れても、我ら一族はお前らを絶対に絶やしてやる。そして我らの姫宮を、必ず取り戻す」
一歩二歩、後退ると彼の傍に黒影が突如舞い降りた。鈴の背丈程もありそうな濡羽は、黒の中に紺瑠璃の輝きを月明かりに晒して、青幡の腕に留まった。
鈴は目を見張った。北斗以外の大鴉を初めて目にしたからもあるが、その姿があまりにも北斗にそっくりだったからだ。
鈴以外の人間が見たら鴉なんてどれも同じだろうと言うだろう。けれど鈴には人の顔を見分けるのと同じように、彼らを等しく個として見分け、扱い接した。名を与えると言うことはそう言うことだ。だからわかる、青幡の腕に留まるその子は、北斗と同じなのだと。けれど今は完璧に、隔てられた存在なのだと。
北斗もそれを感じ取り、大きく羽ばたいて同族に向かって威嚇していた。ぎゅっと鈴の肩に回された茅羽夜の腕に力が篭る。
「貴方は一体何者なの」
「それを知ったら、君はこっちに来てくれる?」
「いいえ」
「だろうね。だから今日の所は退散する事にするよ。じゃあまたね、俺達の可愛い姫宮。次に会う時までに君がその手を取った事を、後悔している事を願ってるよ」
彼がそう言うやいなや、青幡の周囲には紅蓮の焔が風をはらんで巻き上がる。焔が収まったと思えば、彼は鴉を伴ってその場から消え失せていた。茅羽夜も彼を深追いする気はないようで、それを睨みつけるだけに留めている。
やがて炎の臙脂色が完全に消えてなくなると、ようやく突きつけていた剣を下げた。
「……茅羽夜、あの……」
ごちゃごちゃになった頭の中を整理しながら、鈴が彼に真っ先に問おうとした言葉は、声になることはなかった。茅羽夜の身体がゆっくりとその場に傾いだからだ。
「茅羽夜!」
鈴一人では長身の彼を支えきれず、茅羽夜の身体はそのまま地面に放り出された。いくら呼び掛けても返事はなく、固く目蓋は閉じられたままぐったりとしている。安心すると掌の痛みが一気に全身に駆け巡って顔を顰めるが、そんなこと言ってられない。炎に炙られ、殴り飛ばされ、傷の酷さは茅羽夜の方がずっと酷かった。
彼の体を何とか支え、立ち上がろうとすると北斗に連れられた誰かが駆け寄ってくる事に気がついた。一瞬身構えたものの、その影の先頭にいた縁寿と松葉の顔を見て緊張が一気に緩み、鈴の瞳から大粒の涙が溢れそうになるのを寸で堪えた。縁寿は茅羽夜を見た途端、厳しい顔で眉根を寄せる。
「にいさん、たすけて、ちはやがしんじゃう」
「……鈴落ち着いて。首飾りは」
「首飾りって、これのこと……?」
例の玻璃の首飾りは、今も鈴の胸元にあった。青幡がこれを奪っていたら、鈴はここに居なかったかもしれない。
「そう。それを茅羽夜の胸元に。やや強引な方法ですが、街まで運んでいては間に合わないかもしれない。いいですか鈴、目を閉じて、心を落ち着かせて。此処を、九頭龍山だと思って思い浮かべて。松葉は少し離れて、担架の用意を急いで下さい」
言われたように茅羽夜の胸元に薄い玻璃のそれを乗せて、目を閉じて、深く息を吸った。目蓋の向こうに、いつも北斗や天草と駆け回った山を思い浮かべる。十六年、共に育って来た土と雨の匂い。萌え出る若芽の愛らしさ。流れる小川の清廉さを。
しゃーん、という軽やかな音が自分を中心に幾重にも波紋のように広がっていく。水が垂れ下がった薄絹のように重なり、ふたりを包んでいく。そうすると不思議と、縁寿の言葉を待たずともやるべき事がわかった。
(この下に確かな流れを感じる。ここ、龍神様の水脈の上に建てられた社だったんだ。だったらわたしにできるのは水の流れを少し、調整するだけ。この人の中に在るものが、命を繋いでくれるように)
初めてのことなのに、ずっと前から知っている気がした。外から塞ぐのではなく、内側から、それを宥めて、巡らせる。
(彼の血は溢れ出る命の泉、彼の肉は大地となって人々を支え、彼の骨は根を張る樹木に)
しゃーん、とまた鈴の音が揺らす。そのたびに水の匂いが濃くなる。
(まだ、還らないで。いかないで、ここにいて)
固く結んでいた手を伸ばすと、それを誰かが掴んだ。りん、と微かな声にはっと目を開けると、茅羽夜が焦点の合わない視線を彷徨わせて、やがて海色の瞳にかち合う。弱々しい指は、しかし確かに鈴の手を握っていた。その指には血の巡った温かさがあった。
「しんじゃうかとおもった」
「うん」
ごめんねという声に、鈴の菫色の瞳から今度こそ、大粒の涙が溢れた。婆さまとの約束をもう二度も破ってしまったが、今はそれよりも、彼が生きてくれた事が何にも代えがたい程、嬉しかった。




