十三
水音がする。雨粒が草花を叩くような土の匂いをはらんだものではない。もっと大きくて、もっと激しく、そして静かな水流だった。
気が付くと鈴は水の中にいた。池や河よりももっともっと深い藍色が鈴の足元で口をあけて降りてくるのを待っているような気がした。階を降りるように、足を踏み出す。ゆっくり、ゆっくり、柔らかな綿を踏み締めているような感覚だった。水の中なのに、不思議と息は苦しくなかった。
(黄泉下りみたい……)
幼い頃婆さまから聞かされた御伽噺だ。
男神・月黄泉には月と夜と地を、女神・照日奈には陽と朝と天をお与えになったが、しかし月と陽は並び立つことが出来ず、愛する半身に会えない悲しみに照日奈は涙を零し、それが雨となり、海となった。故に海の底には月黄泉の治める幽世の国があるとされている。その黄泉へ女神が男神に逢いに降りたとされる神話が、黄泉下りであり、陽隠しの神話だった。
どれ程降りたのか、天を仰げば揺蕩う水面が遠くに見える。もう光は殆ど届かず、暗闇が鈴を包んでいるにも関わらず、自分の姿は見失わないのが不思議だったが夢なのだからそういうこともあるだろう。
呻く声が聞こえたような気がして、鈴はそちらを見た。すぐ向こうの暗闇に、誰かがいた。
「そこにいるのは、だれ?どうしたの?」
「────……」
返事はない。しかし僅かに身動ぐ音がした。一歩踏み出すと、その人影ははっとこちらを見た。
鴉の羽よりずっと深い闇の薄絹に隔てられているように、その人の顔立ちはよく見えない。けれど瞳だけが明るく、まるでふたつの大きな星の様にこちらを睨んでいる。星の色は、磨かれた黄金だ。
「────それ以上来るな」
「茅羽夜なの?」
水を伝って届いた声は随分とくぐもっていたが、茅羽夜のものだ。目が慣れてきたのか、御簾の向こうの貴人の様に薄ぼんやりとした影が彼の姿になっていく。彼はその場に蹲って、喘ぐ様に短い呼吸を繰り返していた。
「どうしたの、苦しいの?どこか痛いの?」
「来るな」
「どうして?」
「後悔する」
「誰が?」
「きみが」
「ばかじゃないの、勝手に決めないで」
また一歩大きく踏み出した。茅羽夜は逃げない。鈴は幾重にも垂れ下がった帳へ真っ直ぐ手を伸ばして、掻き分けるように彼の側に駆け寄った。
傍に寄って、彼の言った意味がようやく理解出来た。
眼帯の取れた顔の左半分を魚のような鱗が覆っており、いつもの深い藍色ではなく月のような黄金の瞳の縦長に開かれた瞳孔がどこか獣を彷彿とさせた。荒い息を吐く口元に当てられた指先の爪は鋭く小さな刃物のようで、背中に流れる髪は普段見ている彼のものよりずっと長く伸びて、立髪のように逆立っている。まるっきり、威嚇している獣だ。
そして彼の額には前髪を掻き分けて、枝の様に伸びる二本の角があった。
「来るなと言ったのに……」そう、絞り出すような声は立ち竦む鈴を、硬く拒絶している。
鈴は言葉を失った。けれど茅羽夜が再び苦しそうに呻き始めた瞬間、背を押されたように駆け寄る。上体を折って短い呼吸を繰り返す茅羽夜の肩に触れると、びくりと大きく揺れて何か言いたげな黄金色の瞳が鋭く鈴を刺すが、すぐに顔が苦痛に歪む。言葉を発する余裕もないらしい。
鈴は彼の中に《何か》を見た。それが何かはわからない。けれどそれは彼の身の内に巣喰い、茅羽夜の身体を食い破って外に出ようと暴れまわっているように見えた。
耳元で聞こえる水の音が大きくなる。あれは、茅羽夜の中に居るのだ。
鈴は咄嗟に手を伸ばして彼の頭を抱き抱えた。
はっと小さく息を呑む音が聞こえた。
ぎゅっと目を閉じて、彼の中にある《それ》に直接語りかける。ああ、でもどうしよう、山守の婆さまに教えられた鎮魂の祝詞も一瞬で吹き飛んでしまった。
(────鎮まって、この人を、どうか苦しめないで)
茅羽夜の頭を抱いて、鈴はようやく襟元にあの首飾りがあることに気がついた。薄い玻璃が僅かな熱を帯びて光り、それがじわじわと広がっていく。暗闇の中でも鈴が自分を見失わなかったのは、これがあったからだったのだ。
肌を伝わって、この人の痛みが少しでも自分へ移ればいい。そう、ただ祈った。やがて呼吸が落ち着いてきた頃、強く腕を引かれて顔を上げると。
────暗闇の向こうに、それはいた。
強い水圧に押し出されるようにして、鈴は目を覚ました。は、は、と短い息を数回繰り返して、肘をついて身体を起こすと寝衣は汗を含んで重くなっており、手の甲で額を拭う。障子の向こうは夜明けにはまだ僅かに早いもの、薄らと白み始めている。
(……夢、だったのかしら)
夢にしては水を漂う感覚も彼の体温もこの手にしっかりと残っていた。これ程鮮烈に、細部まで瞼に浮かべられるのに、最後に見たものが思い出せない。
まだ起きるには随分早いが、夜明けまでもう一眠りという気分にはとてもなれなかった。そっと羽織をとって布団を抜け出して、庭に面した戸を開けてみて、鈴はびっくりして固まった。庭の溜池の前に、長身の人影が見えたからだ。
星の消え行く白くもえる空を背に、茅羽夜はぼんやりと佇んでいて、鈴の方を緩慢な動きで見やったがすぐに逸らされた。その眼は水底のような藍色をたたえ、背を隠す髪は鈴と同じ濡羽色。眼帯はしていないようだが、前髪で隠れて左眼は見えない。しかし肌はつるりとして白く、角も生えてなければ爪も伸びていない。いつもの彼の姿だった。寝衣姿でないところを見ると、昨日からずっと起きていたのかもしれない。
「おはよう、茅羽夜。早いのね」
「……鈴こそ」
「早く目が醒めてしまって、何だか寝るのが惜しくなってしまったの。そっちへ行ってもいい?」
いつもなら遠慮なくそばに寄るのにそう聞いたのは、まだ夢を引き摺っているからかもしれなかった。茅羽夜は「ん」と短く頷いて、鈴は傍に寄って共に明けていく空を見上げる。寝衣であったことを今更ながらに思い出したけれど、今から戻って着替える気にもなれなかった。
「……」
「……」
沈黙が二人の間を支配する。昨日の足が浮き立つような気まずさはもうすっかり鈴の中にはなかったが、また違った違和感が鈴の胸を騒がせる。何か話題は無いものかと探って、そう言えばと思い当たった。
「ねえ、そういえば今更なんだけれど、あの時の傷は大丈夫だった?」
「傷?ああ、襲撃の時の」
「そう。貴方が普通にしてたから大丈夫なんだろうと思ってたけど、そう言えばちゃんと聞いてなかったと思い出したの」
「縁寿に診て貰ったよ。君の処置が良かったから、治りも早かった」
「よかった」
「うん。……ありがとう」
不意に茅羽夜がお礼を言った。驚いて見上げると、彼はいつもの無表情よりも、ほんの少しだけ柔らかい顔をしていた。固い蕾が春風に撫でられてほんの少し、綻びを見せた様な。それだけの事なのに、どうしてか酷く泣きたい気分になる。
「俺も、そう言えばお礼をまだ言っていなかったから」
「……人として当然の事をしたまでよ」
茅羽夜は、鈴がそう言うと目を細めて、首を傾けて見せた。
それは、やや固いながらも彼の笑顔と呼べるものだった。びっくりして今度こそ鈴はその場で固まってしまった。
「当たり前の事を当たり前に出来る人間は少ないよ。君のそれは、とても得難いものだ。宮には笑顔のまま平気で嘘をつく人間も、自分の利益の為に人を騙す人間もたくさんいる。笑顔も涙も同情も不幸でさえも、あそこでは武器だ。君のそれは得がたい武器でもあり、弱点にもなるだろうね」
どういう顔をしていいのかわからなくて、鈴は庭の池を眺めた。宿屋の庭は主人の密かな趣味らしく、こじんまりとしていながらも手入れが行き届いており、植えられた山桜がちょうど薄紅の蕾をつけていた。里よりも北寄りなので、開花がやや遅いらしい。宮の庭にも桜は咲くのかしらとぼんやり思った。
「ねえ、茅羽夜は若宮様を知っている?」
「……いいや。若宮様は公に殆どお姿を見せないから」
「そっか。どんな人なのかなって思ったけど、仲良く出来るか心配だわ」
茅羽夜は目をこれ以上ないってくらいに見開いた。膝枕をした時は顔を横にしていたので見えなかったから彼の驚いた顔を初めて見たかもしれない。今日は、まだ始まったばかりだが、よくよく彼の表情が変わる日だ。
彼の周りはいつも無風だった。降り積もる雪の様にしんとして、音もなく、張り詰めていた。それが顔が整っている分余計に冷たい印象を与えるのだろうと思った。
しかしこの人もこんなに人間らしい顔をするのだな、と失礼な事を浮かべた。
「輿入れが嫌だったのではないのか」
「嫁ぐ事自体が嫌というか、自分の決めた事じゃないのが多分嫌なんだと思う。でもこう見えて楽天家だから、嫁いだら嫁いだで何とかやっていくわ。ここまできて駄々捏ねたりしないわよ」
「……」
「あ、今どう見ても楽天家だろうって思ったでしょ」
「いや……少しだけ」
やや罰が悪そうな顔に、思わず噴き出した。
「正直な人ね、茅羽夜って」
出会った時から茅羽夜は不思議な人だった。会ったばかりだというのに、彼の側はどうしてか心地良く、流れる水に包まれているような気がした。生まれ育ったお山と同じ空気が、彼から溢れているかのようだった。清廉で、冷たくて、どこか薄暗い。
襲撃された時でさえも驚く訳でも怒るわけでもなく、感情の起伏は常に平坦で、けれどただ無愛想な朴念仁というわけではなく、彼は努めてそう振る舞っているように見えた。息を潜めて、何かを押し殺している。彼の根底にあるものは、人よりももっと別の何か────そう、幼い無垢な獣のような。
そこまで思いついて、鈴は夢の中の鱗に覆われた肌を持つ彼を思い出した。白銀の鱗と角を持つもの。濃い水の匂いがする。溜池のものではなく、もっと深くて、恐ろしいものだ。
彼自身がどこか浮世離れしているから、あんな夢を見たのだろうか……それとも本当に、彼の中には《あれ》がいるのだろうか。
「ねえ、茅羽夜、変な事を聞いてもいいかしら」
「なに?」
「あのね、あなたの……」
────あなたの中に、何がいるの?
そう口を開こうとした声は、表戸を叩く激しい音に掻き消された。さっと茅羽夜の表情が固くなり、そのまま表の方へ駆け出した。鈴も遅れて続くと、宿の者達も何事かと飛び起きて来ていた。
戸を開けて飛び込んで来たのは、ひとりの青年だった。衣は裂けて泥まみれになっており、悲痛を帯びた顔は蒼白を通り越して色を失っていた。ただならぬ様子の彼に、宿の主人がどうしたんだと訊ねても、彼はひどく混乱しているようでがたがたと体を震わせて短い呼吸を繰り返しているだけだ。
その青年の顔を見て、鈴は「あっ」と声をあげた。彼も鈴に気付いて顔を上げると、玉のような汗とも涙ともつかない雫が彼の顎を滴り落ちる。
「花巻さん……!」
日除けの傘を持ってくれていた、あの青年だった。慌てて駆け寄ると、彼は懇願するようにひめさま、と口にして、啜り泣き始めた。
「助けてください、ひめさま、」
「どうしたの?一体何が……」
「小鞠さま、が、賊に攫われました……!」




