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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
五章 星を喰らうひと
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二十一


 

 その女を初めて見たのは七つになるかならないかの、春の日だった。

 花びらの浮かぶ水面で血を作り、春一番に吹く風で体を乾かし、そして月に侍る女が丁寧に紡いだ絹糸が髪となり、雲雀が声を授けた。そんな女だった。

 けれど一目見て、悟った。

 ああ、きっと自分は、この女が一生嫌いだろうと。

 


 生まれた時、少女は十まで生きるのは難しいだろうと言われたらしい。生まれつき心臓に欠陥があって、母は随分と一族から責められたそうだ。待望の第一子が女児であったこともその要因だった。

 二渡家の者も何人かは官僚への道を進んだが、一守ほど政に介入出来る力もなく、三廻部のように武官としての手腕もなかった。

 東の御三家と呼ばれながらもそれぞれ文と武で長く重鎮として重宝されてきた一と三に挟まれて、二国の長は緩やかに衰退へ傾いていった。

 やっとの思いで直系の姫を入内させたものの、長らく帝の寵愛を受けられず、姫はあらゆる手を使って子を成した。

 弛まぬ努力の甲斐あって妃たちの中で彼女は唯一、二人目の子を成した。その過程で二渡はとある巫術の力を持つ一族と深く関わっていくことになる。それが悲劇の始まりだときっと誰もが思うだろうが、少女にとってそれは幸運以外の何物でもなかった。彼らの力がなければ少女はとうに死んでいたのだから。

 母も彼女の実家もすぐに少女への興味を失くした。当然だ、皇女などどうせ降嫁されるだけの存在。皇子さえ産めば、国母になれる可能性はぐっと高まる。誰も少女の味方ではなかった。母でさえ、少女はいてもいなくても同じ、路傍の石よりも価値のないものだった。

 孤独が少女を育てた。それでも弟を憎む気持ちはなかった。本当にこれっぽっちもなかった。むしろ少女は大人たちに振り回される弟が憐れで仕方なかった。

 けれど少女はただ、求めた。無償の愛情を。水が砂に吸い込まれるように、鳥が空を飛ぶように、ただただ当たり前にそこにあるもの。

 そういうものを、無垢なまま求めた。

 春が来た。一番に咲いた花を母に見せた。母はこちらを見なかった。

 夏が来た。夕立のあとの虹を母に見せた。母はこちらを見なかった。

 秋が来た。枯落ち葉を拾って母に見せた。母はこちらを見なかった。

 冬が来た。掌に雪兎を作って母に見せた。母はこちらを見なかった。

 だから。だから、少女は次の行動に移った。

 まずは虫だ。蝶や羽虫はねむし、そういったものを殺して、屋敷に撒いた。翅をもいで、足をもいで、ばらばらにした。侍女たちが揃って悲鳴をあげるのがおかしかった。いつも自分を無視していた女たちが慌てふためくのは少女の何かを満たしたけれど、すぐに枯れた。

 だから次は動物だった。母が飼っていたよく喋る異国の鳥。鳥はいつも喚くように言葉を吐いていた。女の名前だった。鳥が一番吐いたのはクレボシという名前だった。母がこの世で最も嫌いな名前らしい。

 だから静かになってもらった。そして、それをその「クレボシ」に贈った。母はとても喜んでくれた。初めて少女の名前を呼んで、掌で頰に触れてくれた。触れてくれたあとは、少し、頰が熱くてじんじんとしたけれど、母の瞳に自分が映ったのが嬉しくて笑った。

 もっともっと、喜んで欲しかった。

 だからたくさん贈ってあげた。そうしたら、ある日、今まで見たことのない「神様」がやってきた。

 神様は「帝」と言った。そして、「父」だと言った。

 少女は目の前に雷が落ちてきたかのような衝撃に、しばらく言葉が発せなかった。

 ああ、ああ、ああ! 今ならわかる。

 あれは歓喜だった。

 少女の中に流れる血が、この人だと決めて、少女を造る全てが叫んでいた。

 この人の 愛 が欲しい。

 少女はただそれに夢中になった。それ以外考えられなくなった。あれほど見て欲しかった母でさえ、視界に入らなくなった。

 けれど、どれほど待ち焦がれても愛は手に入らなかった。それを独り占めしている女がいるのだと母が言っていた。そうか、それが「クレボシ」か。

 少女はようやく理解した。冬の終わりだった。

 

 春。その時は来た。

 女は少女の欲しいものを全て持っていた。

 巫術師としての稀有な才能。

 艶のある豊かな黒髪、陶器の肌、美しい菫色の星。

 春の陽射しのように朗らかで優しく、気さくな性格は誰からも愛された。

 この東和で最も高貴な女性。皇子を産み、いずれ国母となる尊き方。

 彼女の手には全てがあり。

 

 そして、少女が最も欲していたものを、女はあっさりと捨てた。

 



 

 殿舎の中は驚くほど静かだった。あれほど人がひしめき、あらゆる思惑が渦巻いていた内廷も、今では夜明け前の海のように静謐に満ちている。

 その内廷の渡殿を真陽瑠は一人で歩いていた。するすると慣れた足取りで隠し扉を開け、手燭だけを連れて石牢にも似た地下へ降りていく。下へ下へと向かうたび、ひりひりとした空気が真陽瑠の肌を撫でた。

 やがて最下層まで来ると、真陽瑠は手燭を壁の窪みに置いた。

 そこにあるのは透明な檻だった。かつてそこにあった祭壇だったものは大きな手で叩き潰されたように無惨な姿で散らばっている。

 その真ん中に、真陽瑠がまさに十数年前、この場で産み落とした尊き命は床に身を縮こませて蹲っていた。床に広がる髪には白と黒が入り混じり、引き千切られた袖から伸びる腕を覆う龍鱗が手燭の灯りに反射する。

 衣服は煤汚れ、髪も伸び放題なのに美しさを損なわない。むしろこの世の何より高貴な獣が、こうやって自分の足元に這い蹲っているのは不思議な高揚感があった。

 鉄格子に縋り付くように寄り添い、地面に膝を着く。

 ────ああ、なんて愛おしい。

 あの時抱けなかった赤子。神様の面影を宿した愛しい子。

 この子を守るためなら何だって出来る。誰の命も惜しくはない。

 例えこの世の全てを焼き尽くしたとしても構わない。

「茅羽夜、母が来たぞ」

 少年はぴくりともしない。が、僅かに上下する背中がまだ息があることを教えてくれる。

「ああ、なんと痛ましい姿じゃ。この世で最も尊きお主がこのようなところに閉じ込められているなど、母は胸が痛い……」

「……」

「のう、いつまでそうやって強情張るつもりじゃ。辛かろう? 苦しかろう? 自分の役目を放棄し、お主をこのような目に遭わせて逃げた卑怯者がどこにおるか、母に言うてご覧。それだけでいい。あとは母が全て請け負ってやる。その後に妾を八つ裂きにしたって構わぬ。妾にはもう、そなただけなのだ」

「……」

 少年の体が僅かに身動ぐ。

 白い顔がこちらに向けられ、黄金色の瞳が真陽瑠を見た。

「あなたと話すことなど、何もありません」

「茅羽夜」

「帰って、ください。そして、どうか、おれのことは、もう、忘れてください」

「自分の母になんとむごいことを言うのだ。妾はそなたのためを思っているのだぞ」

 くすりと、目の前の獣がかすかに笑った気配がした。

「あなたが愛しているのは俺じゃないでしょう、()()。あなたはずっと、暮星に奪われた父の愛を、俺に重ねて求めているだけ」

 口の端を吊り上げて笑う少年の顔は真陽瑠が生涯ただ求めてきた人に驚くほど似ていた。もう一人の弟も似ているが、あれはやはり卑しい女が産んだ子だ。子に罪はないと思い、今まで見逃してあげていただけのこと。

 ────やはりこの子しかいない。

 真陽瑠は唇を舐める。少年のことを真に思えるのは自分だけだ。()()はダメだった。

 それなのに、目の前のこの子は真陽瑠の手を取ってくれない。

  

「俺はあなたを殺さないし、あなたに生かされもしない」


 ────あの人もそうだった。

 あの人も最期に真陽瑠を選んではくれなかった。

 地位も名誉も何も望まなかったのに。

 ただただ、愛して欲しかっただけ。それだけだったのに。


「俺を殺すのも生かすのも、この世でたった一人だけです。あなたじゃ、ない」


 ────どうして誰も、自分を見てくれないのだろう。





 真陽瑠の唇が動いたその時、頭上が揺れた。ぴくりと肩が跳ねる。

 ────なんだ?

 微かに喧騒が聞こえる。真陽瑠は弾かれるように立ち上がり、手燭を取った。茅羽夜は再び目を閉じて、じっと冬を待つ獣のように動かなくなった。

「……また来るぞ、愛しい子」

 裳を翻し、その場を足早に立ち去る。

 地上に出れば外廷の方が嫌に騒がしかった。

「何事か」

「御方様! どうかお逃げください、侵入者です!」

「侵入者だと? 警備のものはどうした、一体何をしておる」

「それが……突然、殿舎内に現れたと……」

「なに?」

「ご報告します御方様」

 黒衣の者がそっと耳打ちする。

 それを聞いた真陽瑠は扇を広げ、うっそりと微笑んだ。

「飛んで火に入るとはまさにこのことよな。お主ら、その侵入者をここへ追い込め」

 黒衣の者は真陽瑠の指示に素早く動き、消えていった。喧騒は遠くない。どのみち、茅羽夜が目的であればここへ辿り着くだろう。

 玉砂利を敷き詰めた中庭へ降りる階の前に立つ。

 ぱちんぱちんと手元の扇を開閉しながら、喧騒が近付いてくるのを逸る気持ちで待った。

 

 そして、それはやってきた。

 

「……久しいの、九宮。元気そうで何よりじゃ」

「ええ、御方様もお変わりなく」

 

 風を纏って現れた災厄は、まるでこの世の全てを手に入れたかのように、不敵に笑った。

 

 

 



これから最終話まで毎日22時に更新します。

あと少しお付き合いくださいませ。

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