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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
五章 星を喰らうひと
106/114

二十

 ────世界が開けた。


 そう思った時、鈴は光の中に投げ出された。咄嗟に目を閉じる。そうしないと光に眼球が焼けてしまうのではないかと思った。それは正しかったようで、閉じた後も瞼の裏に白い光がちかちかとこびりついた。

「もう、目を開けて大丈夫ですよ」

 ややあって、優しく慈しむような声が降ってきて鈴は目を開けた。

 先程の闇はなく、あるのは薄暗い闇と────先程、別れたばかりの男の姿だった。

「……明堂、先生?」

「はい。私が神龍と花嫁の二番目の子、穂乃子の弟であり、水早の兄です」

 まるで、いたずらが成功した子供のような顔をしている。

「……つまり、私が一人龍脈から弾き出されてあの場所に放り出されたのは、先生が原因なんですね?」

「ええ。あの頑固で意固地で我道を行く姉と妹を陥落させた娘の顔を、まずは拝んでおこうと思いまして」

 ふふふと人の良さそうな顔をしているが、仮にも神が結んだ縁を横から正確に鈴だけを掻っ攫って引き寄せるなど、とんでもない話である。そんなのありか。二人を頑固で意固地で我道を行くと評しているが、それは彼自身にも当てはまりそうだ。

「さて、ここに契約は成されました。私に名を」

 そう言って彼はするりと鈴の手を取った。その手の甲へ、神への捧げ物を持つように、恭しく額をつける。

 ────名付けの儀式だ。

「……あなたの名は計都けいと。計都よ」 

「はい、我が主人。これより私はあなたの血の一滴、あなたの涙の一雫、あなたの夢の一欠片です。さあ、どうぞ命じてください」

 あなたの願いを。

 鈴はここがどこだか、ようやくわかった。

 ここは茅羽夜の夢に入り込んだ時と同じ匂いがしていた。

 海だ。全ての始まり。そして誰もが果てに行き着く幽玄の宮。

 この足元の奥深くに、彼はいる。

「彼の御方に、会わせて欲しい」

 計都は微笑んだ。

 この時をずっと待っていたと、いうように。

 

「では目を閉じて。私がいいと言うまで、決して開いてはダメですよ」

 

 子供に言い聞かせるような声で、計都が言った。言われるがまま瞼を下ろす。視覚によるものがなくなったおかげで、他の感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。頰を撫でるのは風のようで、違う。これは水だ。海水だ。

 ずっと不思議だった。どうして、海を母なると言うのだろう? 大地もそうだ。慈しみ育むものはみな、母だった。でもそれは違うのだとわかる。海も、大地も、風も、雨も、全てが自分たちの両親だ。

 耳元を心音にも似た音が通り抜けていく。とくん。とくん。とくん。ゆっくりと誰かの鼓動がする。それはすぐそばで感じた。


『────待っていたぞ』

 

 低い声だった。それでいて冷たく、けれど美しかった。この世の星の煌めき、月の凍てつく夜、それら全てを集めて糸にして、声を紡いだらこのような音になるのだと思った。

 心が、全身が震えた。わけもわからず泣きたくなる。

 

『名を』

「鈴と、申します。月神さま」 

『善い名である。そうか、私は随分と眠っていたようだな』 

「二千と少し、眠っておいででした。父上」

『そうか』

 計都の言葉は「そうか」の一言で片付けてよいものなのか、などと思ったが、鈴は黙っておいた。さすがに、鈴も何と言ったらいいのかわからない。相手は正真正銘、神世かみよを生きるものだ。

『娘、其方からは懐かしい香りがする。あの子の香りだ。干した稲穂に顔を埋めるような、夏と秋の匂いがする。この海底には届かぬものだ』

「……?」

『わからぬか。それでもよい……私は其方が来るのを、ずっと待っていた』

「いと高き月の御方。わたくしがここへ来ることを、知っておられたのですか」

 然り、然りと月は繰り返す。

『知っていた。知っていたとも。ここへの道を開くのは、其方以外あり得ないと思っておった。其方の父は月であり、星を追いかけては夜明けを待つ者であった。其方の母は陽であり、黄昏を撫で、水面を揺らす光を齎す者であった』

 月と陽は決して交わらぬ。陽は月の背を追いかけて、月は陽を夢に見る。 

『けれど夜と朝の交錯する星に生まれた其方だけが、陽を頂き、夜を下る許しを得た』

 御方様、と鈴は声を紡ごうとした。けれどそれは音にならなかった。何から伝えていいのかわからない。

 ────あなたをずっと、待っている人がいるのです。

 そう、鈴は確信していた。あの時の牡丹一花。紫の夢の花。あの少女の名を。彼女が待っているひとを。どうか、どうか。

『よい、其方の願いはわかっておる。そして、其方の願いを叶えるものは、もうその手にあるであろう』

「え?」

 ────もう、この手にある?

 意味がわからないまま、急激に水圧に押し流されていくのを感じた。きつく閉じていた目が薄ぼんやりと開かれてく。胸の奥が熱い。

 その時、鈴は一つ、この世でたった一つの心を託された。

 

『ずっとずっと、待っていた。微睡ながら、揺蕩いながら、誰かが、其方がここへ来るのを待っていた』

 

 けれど、ぽっかりと空いた海の底から昇っていく泡が視界を覆って何も見えない。

 

『私の心を預けよう。手を引いて、あの子の元へ連れていっておくれ、西の果てに生まれた私達の最後の娘よ』

 

 




「────妃殿下!」

 はっと目の前で何かが小さく弾けた。ぱちぱちと目を瞬かせると、風早が困惑の表情を浮かべて立っている。

「風早さん……?」

「大丈夫ですか、行ってくると言って、そのままずっと立ち尽くしておられて……いくら揺すぶっても反応がなかったので、焦りました」

「わたし、まさかずっとここにいた?」

「? ええ、はい」

「…………」

 ────では、あれは夢だったのか。

 そう思って、鈴はすぐにその考えを振り払った。

「……計都?」

 名前を呼ぶと、彼は「呼びましたか」と言わんばかりに肩に留まっていた北斗の足元からにょろりと現れた。

 ちろちろと舌を出している蛇は鈴の首に襟巻きのように収まっており、対峙していたものよりずっと小さい。北斗と同じように伸縮自在らしい。そのことに鈴は少しだけ安堵した。さすがに呼び出すたびにあの大きさで現れたら、頼もしさはあるがちょっとびびる。

「鈴!」

 ややあって、後ろから声がした。振り向くと松葉と三光、それから青幡の姿もあった。鈴がもたもたしている間に合流していたらしい。鈴が駆け寄って松葉に抱きつくと、頭上から「心配したんだぞ……」とやや鼻水混じりの声がした。

「ごめんなさい。でもね、聞いて。巫女様の兄上にも、月神さまにもお会いしたわ。月の双玉もちゃんとお預かりしたの」

「…………、待ってくれ、待て、なんだって?」

「だから……あ、見てもらった方が早いわね。計都、見せてあげて」

 声に応えるように、首に巻きついていた計都がするりと腕を這い、鎌首を持ち上げる。ぎょっとした松葉が一歩二歩、後退すると蛇の輪郭がゆっくりと溶けて人の形となる。

 鈴が最初に会った時の姿のまま、計都は主人の前に立った。

「お初にお目にかかります、あなたが穂乃子の息子ですか。ほほう、なるほど」

「え、ま、いや今どっから出てきたんだ⁉︎」

「はは。新鮮な反応で嬉しいですねぇ」

 袖口で口元を隠し、ころころと笑う。この方は確かにあの婆様の弟君だろう。そして婆様とは確かに、相性が悪そうだなと鈴はなんとなく理解した。

「ていうか、なんで風早もいるんだッ⁉︎ てかお前どうしたその髪! 誰かと思ったじゃねーか! おうおう、元気そうで何よりだアイッタ! おい! 何で殴るんだよ!」

「…………」

 深く深く、心底嫌そうに溜息を吐く風早を見て、常に茅羽夜の一歩後ろに控えていた彼しか知らなかった鈴は驚いた。松葉とは何だか随分相性が悪そうだ。

 まあ、それも致し方ないだろう。

 今でこそ松葉はこちら側についてくれているが、彼は一度茅羽夜を裏切っている。風早からしたらむしろお前こそなんでここにいると言いたいだろう。

「姫宮、黄泉下りをしてきたの?」

 三光が前に出る。頷くと、ちらりと鈴の後ろにいる計都と風早を見て、どういう顔をしたらいいのかわからないといったような表情を浮かべている。然もありなん。

「双玉も?」

「持ってるわ」

「そ、そう……」

 三光も青幡もまだこの急展開にしがみつくので精一杯だという顔をしている。

 鈴だってそうだ。

 もっと言うなら一年前、若宮の妃に選ばれたと聞かされた時からずっと思っている。

 待って、待ってと言っている内に西から東へ、果ては唐、果ては幽宮まで、あっという間に行って帰ってきてしまった。

 本当に、茅羽夜の手を取ってから鈴の人生は大きく変わった。

 でも今では、もう彼を知らなかった頃には戻れない。

 己の片方を見つけてしまったから。

 

「……ともかく、これで全部揃ったね」

「そう、そうね。これでようやくあのばかの頰を引っ叩きに行けるってことね」

 ぐっと拳を握る。鈴は順繰りに、自分を囲む人達を見た。

 誰もが決意を秘めた瞳で、鈴の声なき問いに頷いて見せる。


「────行きましょう、まほろばへ」

 


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