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東龍の花嫁  作者: 朝生紬
五章 星を喰らうひと
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十九

「本当にここでいいのですか?」

「はい。短い間でしたがお世話になりました」

 心配そうに言う明堂に鈴は馬上から強く頷く。彼の向こうには豊都の街が見えており、この道を顎龍山の裾に沿ってぐるりと北へ行くと銀玲の里の跡地があるという。

 ここから雪燈がいれば半日もかからないだろう。

「逆に雪燈をわたしが連れて行っていいんですか? 先生の帰りが……」

「いつもは徒歩で来ておりましたから構いませんよ。それに、元々雪燈は飼い主が戻るまで預かっていただけですから。雪燈もご主人と行きたいようですし」

 力強く前足を踏む雪燈に明堂が笑う。鈴は彼の言葉に改めて礼を言って、街道を走った。

「……静かですね」

「ええ」

 後ろに乗っていた風早も固い声で答えた。

 周囲の空気は静かすぎると言っても良かった。耳の後ろらへんがちりちりする。危険だ、と鈴の中の本能が言っていた。でも、その危険は賊がいるとかそういう俗物的な何かではなかった。もっと神聖で、大きく、得体のしれないものだった。

 街道を順調に進んでいくと、だんだんと道が荒れてきた。草木が道を覆い、その背丈は初めは雪燈でも踏み越えられそうなものばかりだったのに、進むにつれて鈴の腰まできていた。木の根元には未だ雪が積もっている。誰かが通った後はなかった。

 ────本当にこっちで合っているのだろうか。

 鈴はふるりと身を震わせた。寒さからではない。じっと、誰かに見られているような違和感があった。しかしどれだけ周囲を見回しても誰もいない。獣の息遣いも聞こえない。山全体が深い眠りについてしまったようだった。

 ────違う。

 違う。こっちじゃない。それはもうわかっていた。風早に頼んで雪燈から降り、鈴は自分の足で山の裾を踏んだ。

「……風早さん、銀玲って本当にこっちですか?」

「わかりません……ですが、道は合っていたはずです。それなのに、なぜ……」

 鈴が向かっていたのは銀玲の里のはずだった。

 なのにどうしてか、目の前には大きな鳥居が鎮座していた。

 豊都から一度見たことがある。あの鳥居だった。

 鳥居は神域との境界線だ。あちらとこちら、それを明確に分けるための楔。鳥居の色はまるで闇を掌で掬って、さらに墨で溶いたような漆黒で、色褪せた様子もなく艶やかな佇まいでそこに在った。口を大きく開けて、鈴がやって来るのを今か今かと待っていた。

「……北斗、おいで」

 お参りのように、柏手を一つ鳴らす。肩にひらりと飛来した鴉が嘴を主人の耳に寄せた。風早に「ここで雪燈と待ってて下さい」と頼んで、心配そうにこちらを見る青年に、大丈夫だからと自分を鼓舞した。

「行ってきます」

「……お気を付けて」

 それに頷き、鈴は暗闇へ一歩、足を踏み入れた。



 道行きは静謐だった。こつこつと鈴が岩肌を踵で叩く音と、肩にとまっている鴉の息遣い以外何もない。灯りも陽の光も一切射さない暗闇。鈴はそっと壁に手を当てて、転ばないように慎重に進んだ。掌に触れるそれは岩とは少し違う感触で、どちらかと言えば冷たい氷のようだった。

 どれ程進んだのか。真っ直ぐきていたのか、それともどこかで曲がったのか、上なのか下なのか、それすらわからない。平衡感覚も鈍り始めた頃、突然開けた場所にでた。そう感じたのは、頼りにしていた壁が喪失したからだ。

 そして、その空間に何かいた。自分と肩の彼以外の息遣いがあった。

 その何かが息を吸い────風が生まれる。その何かが息を吐き────水が生まれる。息吹が闇に溶けていく。りりん、りりん、と空気が震えた。ぐっと、大きな何かに頭を押さえつけられたような気がして、息が詰まる。

 鈴はじっと目を凝らした。自分の目に、何か、本来人間誰しもに備わっている視力とは別の力が集まるのを感じた。

 やがて。

 それは、闇を吸い込むようにして、それは輪郭を作っていく。漆黒から灰色へ、世界は色を変えていく。


「────────」


 そこにいたのは一匹の黒い大蛇だった。胴は大樹のように太く、口は鈴の頭くらい一口で飲み込めそうだった。大蛇は鎌首を持ち上げて、鬼灯の目が獲物を捕らえた。ガタガタと勝手に全身が震える。いけない、と本能的に感じた。これ以上見てはいけない。

(これは、神の眷属だ)

 視線だけで、全身を針で刺されているみたいだった。ごくりと喉が鳴る。短い呼吸を繰り返すだけで精一杯。恐怖と畏怖に今すぐ赦しを乞いたい衝動に駆られるのを、必死に抑えていた。

 逃げたい。そう、頭に浮かんだ。そうすると、それに続くように、恐怖と畏怖が駆け足で鈴の背中を追い立てた。

 怖い。怖い。怖い。いやだ、死にたくない。いやだ。怖い。無理だよこんな、こわい、いやだいやだしにたくないだれかたすけてだれか─────茅羽夜。

 その名前を思い浮かべた時、鈴はぎゅっと拳を握って顎をあげた。恐怖はまだ鈴の心を塗り潰している。けれど……けれど。

(────逃げない!)

 死にたくない。でも、逃げたくもない。

 血を固めた瞳がじっと鈴を見ている。逸らさず、引かず、鈴はただそれを見つめた。

 一体どれくらい時間が経ったのか。

 暗い洞窟内でとっくに体内時計は狂っていた。今が朝なのか昼なのか夜なのか、まだ日を越していないのか、それとももう何日も経っているのかわからない。

 額から瞼へ汗が滲みる。瞬きすら許されず、喉もからからで、足の感覚はなく、鈴の体はとっくに限界を迎えていた。恐怖、畏怖、焦燥、暗闇。その全てに苛まれて、頭がどうにかなりそうだった。

 それでも鈴はその場から動かず、ただ一点を見つめている。譲る気はない。大蛇も変わらずそこにいた。鈴が見据える先で、それもまた鈴をじっと見下ろしている。

 何かをはかるように。


 ────名を。


 頭の中で、何かが語りかけてくる。

 ゆっくりと、鈴の足元で風が吹いた。背中から目の前の大蛇に流れていく風に、鈴の髪が靡く。りりん、りりん、とか細いすずの音が周囲を震わせる。これはどこから聞こえてくるものなのか、鈴はようやく理解した。顔を背けず、指だけで胸元の首飾りを探り当て、鈴はそれを握った。音はここから聞こえている。共鳴している、目の前のそれと。


「ひとつ、幽玄に憩いし星々よ そなたは光 そして泡沫 夢を吐き やがて廻る罪咎に 赦しを授ける守人よ」


 鬼灯が瞬いた。風はどんどん強くなる。


「ひとつ、現世に我が名あり 私はいのち 我はいのち わたしはいのち この世のすべてはあなたの手で流転する(いきて、しぬ)


 すき荒ぶ風で、もはや前など見えていなかった。でも、鈴の目には確かに大蛇の姿が焼き付いていた。鱗が剥がれて頰を刺す。傷からそれが紅玉のように弾き出されて、大蛇の瞳に吸い込まれていく。

 不思議と痛みはなかった。

 恐怖も、畏怖も、不快感も、絶望感もない。

 あるのはまっさらな祈りだけだった。


はじめに闇をお与えください それから水をお与えください ついに名をお与えください

 わたしはあなたを愛すもの わたしはあなたを攫うもの わたしはあなたを乞うもの わたしはあなたを留めるもの

 あなたはわたしを壊すもの あなたはわたしを導くもの あなたはわたしを赦すもの あなたはわたしを起こすもの

 わたしが、あなたの(よるべ)になろう」


 世界が高速に流れていく。声から命が生まれて、手の中で生きて、足元で死んでいく。大蛇の姿は何か大きなものを叩きつけられて砕けた硝子のように散らばって、別のものへと変貌している。


 ────生まれようとしているのだ、と鈴は本能的に理解した。


 春に花が綻ぶように。

 夏に新緑が芽吹くように。

 秋に落ち葉を敷くように。

 冬に雪で覆われ一度死に。

 そして春にまた、生まれ落ちる。


 


「さあ、目を開けて わたしを見なさい」


 


 お前に名前をあげる。



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