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わかりやすい現代語訳シリーズ その3 「徒然草」の一部より

作者: マボロショ

「徒然草」の冒頭部、ほか5段を現代語訳してみました。

◯冒頭部


退屈でしょうがないので、一日中、机について、心に浮かんでくる取り留めもないことを、ただなんとなく書いているそ、不思議なほど、へーんな気持ちになってしまう。



◯雪の


雪がきれいに降っていた、ある朝のこと、ある人に連絡しなけれはならない用件があって、手紙を届けた時、雪のことに何もふれなかつろたら、その返事に「 《この雪をどうおもいますか?》という、一言もお書きにならないような、風流のわからない方のおっしゃる話を、どうして聞き入れることができましょうか、

(イヤ、聞き入れることはできません)。ほんとうに、ほんとうに、残念なお心ばえですねえ」と書いてあったのが、とてもおもしろかったよ。

今は亡くなった人なので、たったこれだけのことも、忘れられない。

(昔は、下男に手紙を持って行かせ、その場で返事を書いてもらって、持って帰る、というようなシステムであった)



◯五月五日

五月五日、加茂のくらべ馬を見た時のこと、車の前に群衆が立ってレースが見えなかったので、みな、馬から降りて、柵のそばに近寄ろうとしたが、めちゃくちゃ人が多くて、かきわけて入るすきまもなかった。

ちょうどその時、向かいのオウチの木に登って、木の股の所に、ちょこんとすわって見物している僧がいた。木につかまったまま、ぐっすり眠って、いまにも落ちそうになった時、目を覚ますことが、なんども、んどもあった。それを見た人が、あきれてバカにして、「とんでもない愚か者よ。こんな危ない枝の上で、心配もせず眠っていやがる」と言った。その言葉を聞いた私は、ふと、思った通りに、「私たちにとって、死がいつやって来るか(だれにもわからない)、ひょっとしたら、このすぐ後かもしれない。そんなことも忘れて、くらべ馬など見物に来ているのだから、愚かさという点では、こちらの方がひどいのに」と言ったら、(その私の言葉を聞いていた)前の席の人たちが、「ほんとうにその通りですよ。(私たちの方が、すでに出家しているあの僧よりも) もっと愚かでございますよ」と言って、みな、うしろを振り返って、「こちらへいらっしゃい」と、わざわざ席をあけて、私を呼び入れた。

この程度の道理は、誰が思い付かないことがあろうか、(イヤ、誰でもわかるようなことである)。けれども、ちょうどタイミングがよかったから、思いがけず、胸に響いたのであろうか。人間というものは、木や石とは違うので、時によっては、深くものに感動することが、ないこともない(ある)のだろう。


(……極楽に行くには、出家をし、僧になるのが、間違いなく有利、と考えられていた時代の話です)



◯双六

双六(すごろく)の名人と言われる人に、勝つ要領をたずねてみたら、「勝とう、勝とうとして打ってはいけない。負けまい、負けまいと打つのがよい。どの手を使ったら、早く負けてしまうかと考えて、その手は使わないようにし、少しでも、負けるのが遅くなるようにすれば、自然と、勝つようになるよ」と言う。

さすが、その道にくわしい者の教えだ。個人としてどう生きるか、国の政治をどうするかという問題も、また、おなじように考えてよいだろう。



◯花は盛りに

花は満開の時だけに、月は満月の時だけにみるものであろうか、(イヤ、決してそうではない)。雨の時に月を見たいと強く願ったり、家の中に閉じこもったまま、外の春景色を想像するのも、それはそれとして、やはり、しみじみとした(おもむき)がある。

また、いまにも咲き出しそうな(こずえ)のようすや、すでに花かろ散ってしまった後の庭なども、かえって

見所が多い。

短歌の詞書(ことばがき)に、「花見にでかけたが、もう散ってしまっていたので」とか、「差し障りがあって花見に行けなくって」とか書いてあるのは、「花を見て」とかいてある短歌にくらべて、劣っているであろうか、(イヤ、決して劣ってはいない)。花がちり、月が沈んで行くのを惜しむ慣習は当然のことではあるが、特に、頭の固い人が、「この枝も、あの枝も、みんな花が散ってしまった。もう見所は一つもない」などと言うようだ。

その他のすべてのことも、最初と最後の方が、むしろ趣がある。男女の恋愛感情も、ただ会っている時だけがよいとは限らない。とうとう会えなかったつらさに身をひたしたり、カラ振りに終わった約束について愚痴を言ったり、一人でいるのがさびしくて、眠れないまま長い夜を明かしたり、遠くにいる人のことを恋しくおもったり、今は貧しい暮らしをしながらも、昔、派手な恋愛をしていたころのことを思い出したりするのが、ほんとうに恋愛感情のわかっている人と言えよう。

きらきらの満月を、なんの邪魔する物もない広々とした所で見るのよりは、もう朝が近くなったころ、やっと出てきた月が、とてもしんみりした感じで、そのちょっと青い光が、おくやまの杉の梢の間からチラッと見えた時、あるいはまた、しぐれをふらせた群雲のあいだから、隠れるように、のぞくように、月の姿がチラッと見えた時、そういう場合のほうが、うーんと趣がある。椎の木や、樫の木の、ぬれたようにツヤツヤした葉に、月の光がきらきら反射している光景なども、たまらなくよくて、こんな景色を見るのが好きな友だちが、ここに一緒にいてくれたらいいのになあと、(そんな友だちのいる)都のことが懐かしくおもわれるよ。



◯丹波に

丹波国に、出雲という所がある。出雲大社から分霊をお祭りして、結構なお(やしろ)をこしらえていた。

シダのナニガシとかいう人物が、自分が治めているところだというので、秋ごろ、聖海上人や、その他の人々も大勢誘って、「さあ、参りましょう、出雲神社を拝みに。ぼた餅もさしあげますよ」と言って、連れ立って行った。それぞれ、参拝して、たいへん信心深くなった。

社殿の前の獅子と狛犬とが、お互いに背を向け会って立っていたので、上人はたいそう感動して、「ああ、すばらしいこと! この獅子の立ち方は、とても珍しい。なにか、深い事情でもあるのだろう」と涙ぐんで

「ねえ、みなさん、こんなすばらしいことが、お気になりませんか? それじゃあ、あんまりですよ」と言う。それで、他の人々も不思議がって、「ほんとに、よそのとちがう」「都に帰ったら、みやげ話にしよう」などと言った。上人は、なおさら興味をつのらせて、年長者で、なんでも知っていそうな顔の神官を呼んで、「このお社の獅子の立て方は、きっとなにか、いわれがあるのでしょうねえ。ちょっと教えていただきたいものです」と言った。そうしたら、「そのことでございますよ。しょうもない子供たちのやったことです。まったく、けしからんことです」と言って、そばに行って、据え直して行った。結局、上人の、涙を流すほどの感激も、まったくカラぶりに終わったことであった。

どうしたら、内容を理解しやすくなるか、そこに留意した訳のつもりです。

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