この秘密を誰かに
自分の秘密を誰かに打ち明けてそれが受け入れられた時、今まで自分しか知らなかった自分を誰かと共有できる安心感が生まれる様な気がします。
それはきっと自分の秘密が永遠に知られることなく終わるのではなく、自分以外の誰かが知っていてくれることで自分の存在を示すことができるから。
だから人は秘密をずっと秘密のままにできない人が圧倒的に多いのかもしれません。
「実はさ、俺ずっと秘密にしていたことがあるんだ」
私は飲んでいたコーヒーの紙カップを口から離して、私の左隣に座る友人を見つめた。
「秘密?」
「そう」
私は彼から視線を逸らして真っ暗な空を見上げた。
相変わらずこのベンチからは星ひとつ見えない。
「お前の秘密に俺が驚くような秘密がまだあるのか?」
そうとしか私は思えなかった。
なぜならこの左隣に座る友人はここから見える星空と同じくらい見飽きているし、知り尽くしてもいる。
「あるに決まってる。お前は俺じゃないんだから」
私は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
まさかそんなドラマみたいなセリフが出てくるとは思いもしなかったからだ。
「なんか、今日のお前気持ち悪い」
「そうか?」
左隣に座る友人は笑ってコーヒーを一口くちに運んだ。
「で?お前の秘密って?」
「俺さあ、実は漫画書いてるんだ」
私はついにコーヒーを吹き出した。
「漫画!?お前が?」
「うん」
「うんって。でも、お前中学生の時、漫画とか読むオタクの奴ら馬鹿にしてたじゃねえか」
私は思い出していた。
中学生の頃、私たちは今で言うスクールカーストのトップに君臨し自分たちに逆らう者は先輩であろうが誰ひとりとしていなかった。
そして教室でこそこそとアニメの雑誌や漫画を見ながらニヤついている男どもが鬱陶しくて理由もないのによく雑誌や漫画を取り上げては馬鹿にしていた。
「それはお前たちに合わせてたんだよ。実際俺、あいつらと仲良かったし」
「はあ?」
私は左隣に座る友人の実は漫画を書いているという告白よりもむしろそっちの方が驚いた。
「だって俺アニメも漫画も昔から大好きだったし。あいつらと結構気が合ったんだ。だから内心、俺らひどいことするなあって思ってたんだぜ?でも、お前らはそんなことちっぽけも思ってなかったみたいだから。こっそり取り上げた雑誌を返してその時に仲良くなったんだよ」
私は彼らから取り上げた雑誌はどこかに捨てたものだと思っていた。
いや、むしろ取り上げた物に対して何の興味もなかった。
私は思わず吐き捨てるようにつぶやいていた。
「何だよ。それ」
私の左隣に座る友人は私の言葉に対して付け加えた。
「言っておくけど俺は、お前らとも友達だし、あいつらとも友達ってだけだ」
「じゃあ、あのオタク軍団もお前が漫画書いてること知ってるのかよ」
「知らない」
私は思わずきょとんとした顔をしていたのだろう。
私の左隣に座る友人は私の顔を見て笑った。
「この秘密は今まで俺しか知らなかったこと。もちろん俺の嫁も誰も知らねえ。でも、お前には言っておきたくなったんだ」
「何で?」
私の左隣に座る友人は私の目をじっと見つめた。
「もし、俺に何かあって死んじまった時、お前だけは俺が漫画を書いていたことを知ってくれているだろう?」
私は、まだ私の左隣に座る友人の言葉が続くと思ってじっと見つめていたが友人はあっさりとこう言った。
「それだけだ」
私は思わず、はあ?と言っていた。
「お前、そんなこと俺に言われても」
「いいか?俺が漫画を書いていること他の誰にも言うなよ!恥ずかしいからな」
私の左隣に座る友人は、私に対して秘密を打ち明けたことも急に恥ずかしくなったのかベンチから立ち上がった。
「おい!」
私の声など聞こえていないようで、彼はベンチの目の前を流れる人ごみの中へと消えていった。
私の耳にこの大都市の、繁華街の喧噪が戻ってきた。
小さい頃からの友人というのは不思議なものでとっくの昔に大人になった私を若い頃の私に戻してくれる。
だからだろうか数え切れない人ごみの真ん中にあるこのベンチはさっきまでまるで中学生の頃下校時によく立ち寄った公園のベンチと同じ感覚を感じさてくれていた。
なぜ私の友人があんな話をしたのかはわからない。
だが私はなんとなくではあるが彼がその話をした理由に気がついた。
もしかしたら、彼は自分の死期を感じたのかもしれない。
そして私はこうも思う。
今更?
自分の仕事が本当に命懸けであること、自分の死などこの世界に入った時から覚悟をしていた。
でも、本当に実感するというのは死が訪れるその瞬間。
私はその時一言だけ思った。
“ああ、何も成さない人生だった”
中途半端な人生だった。
結局今訪れようとしている“死”も私が今まで仕えてきたもののために訪れる“死”ではなく、単に恨まれて恐れられた結果訪れる“死”だった。
今まで生きてきた中で人を脅すことに何のためらいもなかった。
それは脅してきた人間の感情など考えたことがなかったからだ。
でも、今こうして腹を刺されてわかった。
私は平凡な人間を殺人鬼に変えてしまう恐ろしい力を持った人間だったのだ。
立ち上がることができずに息を荒らげながら道端に倒れ、腹を押さえた。
血が止まらない。
もうダメだ。
私は目を閉じた。
このまま死んでも悔いはない。
家族もいない私を悲しむ人間などいないからだ。
そう思うと私は安心して眠れるような気になった。
その時、ふと、呑気な友人の声が聞こえた。
「俺さあ、実は漫画書いてるんだ」
私は目を開けた。
ずるずると体を引きずりながら動いている。
それも無意識に。
「お前だけは俺が漫画を書いていたことを知ってくれているだろう?」
わからない。
なぜあんなくだらない会話を思い出しているのか。
わからない。
なぜあの友人の言葉で私は無意識に体を引きずりながら前へと進んでいるのか。
わからない。
なぜ誰かに助けを求めようとしているのか。
わからない。
私が友人の秘密を知っている唯一の人間であるから生きようとするのか。
それとも・・・・
彼のように自分しか知らない自分だけの秘密を私はまだ誰にも打ち明けていないからなのか。
私は、激しい痛みに耐えながら進むことを止めなかった。
ただひとつわかったのは
ここで終わるわけにはいかないとういうこと。
それだけは確かだった。
空を見上げると、少しだけ星が見えた気がした。