最低<サイテイ>男と禍罪<マガツミ>少女のテウルギア
――――この世は、クソだ。
それが葉山師案という青年の口癖だった。
夕方の公園。秋口に吹く風は肌寒く、彼の身を震わせた。クソだ。
寂しげな街の姿。少し離れたところからカンカンと甲高い、耳障りな工事の音がする。近場に新しいマンションが建てられているそうだ。クソだ。
就職の面接があった。今日もその場で落とされた。クソだ。クソだ。クソだ。
園内のベンチに一人腰掛け、師案は頭の中で呪詛を吐き続ける。彼の着るくたびれたスーツがその光景を一層、物寂しいものにしていた。
「なんで、こんなことになってるんだろうなぁ」
何度目になるかわからない独り言を、師案はため息と共にこぼす。
子供の頃、自分はきっとありきたりな大人になると思っていた。当たり前に就職をして、社会の歯車となる。決して高望みをしない、夢はないかもしれないが安定した生活をする。それが漠然と幼い彼が思い浮かべていた、自身の未来であった。
まさか、そんな当たり前だと思っていたことすら叶わないなんて考えてもいなかった。自身に見合った高校、大学への進学。それらは望んでいた通りの当たり障りのない道だった。問題はその次だ。
これまでの進学と同じように、就職も滞りなく出来ると師案は思っていた。だが、在学中に得た内定を取り消されて以来ずっと、彼は就職が出来ていない。
理由は様々だ。単純に競走に負けた。優秀な人材が後から現れた。内定したと思えば次の日、会社がなくなっていた。そんなことはないと思いつつも、ここまで来れば自身が呪われていると疑ってしまう。
だが、一度目から二度、三度……そうして繰り返しているうちに、気付けば数年が経っていた。
アルバイトをしつつ親元を離れたものの、彼にはやりたいことなどない。見つからない。恋人も、親しい友人もいない。日々を生きることがぎりぎりなもので、満たされる訳がない。
しかし、特別不幸だという訳でもなかった。それなりには生きていける。
世の中にはお前よりずっと不幸な人間がいる。なんて言う他人の言葉も聞き飽きた。真綿で徐々に首を絞められるような、虚無に似た生活。
あぁ、やはり。この世は、クソだ。
師案はため息を吐きながら、再びそう漏らす。夢も希望もない。未来にどうなるかなんて想像すら出来ない。生殺しの生き地獄。毎日こうやって日々の鬱憤を呪うことしか出来ない。……そんな自分にも嫌気が差す。
二十半ばのフリーター。それが葉山師案の現実だった。
◇
「――――何、ぼーっとしてんだよ、おっさん」
ふと、耳に障る子供の声が聞こえた。独りごちていた師案が視線を彷徨わせると、生意気そうな少年の姿を確認する。見覚えのある子供だ。ランドセルを背負った少年は、不思議そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「誰がおっさんだ。俺はまだそんな歳じゃない」
ガキは嫌いだ。そう思いながら、師案は不機嫌そうに顔をしかめた。だが、そんな彼にお構い無しに少年は喋り続ける。
「おっさんはおっさんだろ。……それより、おっさん。あれの続きやってくれよ。今日こそ、タネを見破ってやるからさ」
「……あぁ」
師案は曖昧に言葉を濁す。無視をしてもいいが、子供相手にそうするのは気が引けた。鬱陶しいガキに懐かれてしまったなと彼は思うものの、同時に悪い気はしない。
結局、目の前の少年に仕方なく付き合ってやるのだと、言い訳がましく思いながらも師案は納得した。要は彼は小心者なのだ。
頭を掻き、今日はどうするかと彼は少し考えた後、師案は財布から五百円玉を取り出した。少年に見せ付けるように指先で裏表にくるくると回す。
「……タネも仕掛けもある」
これもまた師案の口癖だ。彼がこういった行いをする時、必ず前もってこの言葉を口にする。少年が硬貨を凝視したのを確認して、彼はそれを右手の中に収めた。
相手は子供、ならば子供騙しで十分だろう。そう思って師案が行おうとしているのは、簡単なコインマジックだ。師案はそういった手品が昔から得意だった。
まず、右手の中にコインがあると観客に見せ付けてから軽く握る。そして大仰に動きながら、コインを持つ右手の甲を相手に向けた時、右手の平でコインを弾き、左手で受け取る。
結果、右手にあると思い込んでいたコインは消え、空であるはずの左手に瞬間移動したように観客には見える。練習すれば誰にでも出来る、そんな安っぽい手品だ。
しかし、安っぽくとも目の前の年端のいかない少年には通じたようだ。目を丸くして五百円玉がなくなった師案の右手を凝視している。
その反応を見てほくそ笑み、続けて師案は五百円玉が移動している左手を開いた。が……
「……ありゃ?」
「どうした? おっさん」
「おっさんじゃないと言ってるだろう。俺の五百円、どこに行った……?」
彼の左手にあるはずの五百円玉がなくなっていたのだ。師案は慌てて見回すが、周辺には落ちていない。
「なんだよ、失敗かよ?」
少年はがっかりしたように、師案へと落胆の目を向ける。失敗に狼狽えた師案がどう答えようか考えていると、少年は公園に備えられている時計を見た。
「あっ! もう帰らなきゃ……晩飯だ。今日はノーカンだな! 次はちゃんと練習しておいてくれよ! 逃げるなよ、おっさん!」
「逃げるなってなんだよ、おい。……行っちまいやがった」
馬鹿正直にガキの相手をしたのが間違いだった。クソだ。と、師案はため息を吐くのであった。
◇
忙しない少年が去った後も、師案はしばらく周囲を探し続ける。だが、彼の五百円玉は一向に見付からない。
「俺の五百円……」
たかが五百円玉とは言えない。師案にとっては重要な晩飯代だ。アルバイトの給料日もしばらくは先なこともあり、ないと非常に困る。なんとしても見付けなければならない。
「……ん?」
クソだ。クソだ。と呟きながら公園の中を探し続けている内に、師案は自分への視線に気付く。見遣るとそこにはいつの間にか、一人の少女が立っていた。
やせ細った少女は力なく項垂れていて、ぼさぼさに伸び切った赤毛の長髪はひどく褪せて見える。着ている服も襤褸のように薄汚れていて、所々が破れていた。十代前半だとは思うが、まるで死期を待つだけの老婆のようだ。
師案は五百円玉を探している間に、日が沈みかけていたことに気付く。薄暗くなった公園の中には、他に誰も居なくなっていた。
それが少女の不気味さを一層、引き立てている。
薄気味悪いガキだ、と師案が訝しんで少女の顔に視線を向けた。俯き気味な少女の目には光が宿ってない。そして、ぼそぼそと何事か呟いている。
それが「みつけた」と言っていることに師案が気付いた直後――――
――――少女は、潰れた。
「なっ……!?」
どこからともなく落ちてきた鉄骨。一本ではなく、複数本。その全てが少女を押し潰していた。鮮血が辺りに飛び散り、地に染み込む。少女の体は当然、原型を留めていない。疑いようもなく即死だ。師案はその光景を目に焼きつけてしまった。混乱と吐き気が彼を襲う。
「な……なにが……。とりあえず、救急車……いや、警察か……?」
震えながらも、師案は上着の中にあるスマホに手を伸ばす。そして……目の前で起こる、更に信じられない光景に彼は目を剥いた。
潰れたはずの少女の肉体だったものが蠢く。ぴくぴくと、ぴくぴくと。内臓、血液、肉に骨。身体を構成する全てのパーツが再び一箇所に、光に群がる虫のように集まり始めた。
師案には絶句してその様子を見ることしか出来ない。そうして、まるで動画を逆再生したかように少女は傷一つない姿に戻ったのだった。服も襤褸のままだが元通りになっている。
少女は己を潰した鉄骨に目もくれずに一歩、また一歩と踏み出し、茫然自失となった師案に近付く。彼の目の前に来た時、少女の虚ろな瞳が師案を捉えた。
「……わたしは罪を犯しました」
まるで歌っているかのような、美しい声だった。師案は感情の見えない少女の姿と声との差異に、言い様のない違和感を覚えた。
「神様は言いました。この世界にいる魔法使いに会えば、わたしは罪を償えると」
消え入りそうな歌が続く。儚く、そして朧気だ。師案にはこれが現実だとは思えない。現実だと思いたくない。……魔法使い。そんな幻想が、現実に存在するはずがない。
「神様は言いました。わたしは一日に一度、誰かの代わりに死ぬのだと。そして、その度にわたしは生き返るのだと。これはわたしへの罰なのだと」
そうだ。この少女は確かに死んだ。生きているはずがない。師案の視界が歪む。死んだはずの、助かるはずのない人間が喋っている。有り得ないことだ。
「神様は言いました。わたしが百回死ぬまでに、わたしがこの世から消えなければ、この世界もまた滅ぶのだと」
何を言っているかわからない。理解が出来ない。しかし、少女の虚ろな翠玉の瞳が彼を逃そうとしない。師案も少女から目を離すことが出来ないでいた。
そして最後に、少女は師案に懇願した。
「だから、魔法使いさん。お願いします。世界を救うために。わたしの罪を償うために。どうか、わたしを……消してください」
それが師案と後に彼がドロシーと呼ぶ、一日に一度、誰かの代わりに死ぬ運命を持つ少女との出会いだった。
彼の空っぽ頭には選択はない。
彼の冷めた体には心音はない。
彼の怯える魂には前進はない。
――――世界の滅びまで、残り九十九死。