やはり人間は愚か。滅ぼすべき!
扉の向こうから禍々しい気配を感じる。魔王がそこにいるのだ。
魔王城の最奥、玉座の間とは扉一枚で隔てられた控えの間である。勇者カインは振り返り、仲間と視線を交わす。人間の魔術師エルガン、エルフの射手イレイナ、ドワーフの戦士ドルード。誰が欠けてもここには至れなかっただろう。
「突入前に回復する。みんな、集まってくれ」
回復魔法の使い手であるカインの言葉に三人が従う。その目には信頼の光があり、これから為すべきことを思うと胸が痛む。
「深い眠りに沈め。スリープ」
催眠魔法が仲間たちを眠りに落とす。回復魔法を受け入れる精神状態にあった彼らは、虚を突いてかけられたスリープの魔法に抵抗できなかった。糸が切れた人形のように倒れこむ彼らを床に横たえ、魔を打ち払う聖剣も鞘ごと床に置く。
「ここまで来れたのは君たちのおかげだ。ありがとう。そして利用してしまったことを申し訳なく思う。僕は裏切り者だ。いくらでも憎んでくれて構わない」
深い眠りに沈んだ彼らに届くはずもない言葉だ。首を振って未練を断ち切る。
仲間も武器も置き捨て、カインは玉座の間に続く扉を開く。
「よくぞ参った、とでも言えばよいかのう」
玉座から降ってきたのは幼さの残る女性の声だった。
「貴方が、魔王なのか」
情けなくも声が震え、かすれる。
禍々しくねじくれた双角を冠のように戴き、赤と橙に揺らめき輝く瞳を持つ、銀髪の少女。小柄な体躯から放たれる威圧感はこれまでに相対したどの魔物よりも強大だ。下手なことを口にすれば、次の瞬間に命を奪われてもおかしくない。
「名を述べよ、人間」
玉座に頬杖をつく魔王が淡々と告げる。
「僕はカイン。ユート・カインだ。勇者と呼ばれていた」
「では、カイン。そなたの用向きを述べよ」
「まず、僕は貴方に殺意を抱いていない。そのことを理解して欲しい」
カインがそう切り出すと、魔王は顔をしかめて手を振った。
「ああ、そういうのよいよい」
「え?」
「仲間を眠らせ、聖剣を置いて参った時点で余に対する殺意がないのは分かっておる。そもそも、殺意を抱いておったら背後にある扉を生きては潜れんからのう」
「扉?」
振り返って確認しても、装飾の施された大扉に罠は見て取れない。
「殺意を感知して発動する催眠、洗脳、封印、呪殺、その他もろもろの魔法がかかっておる。ひとつふたつなら抵抗できても、数百におよぶ魔法の全てを防げる者はそうおらぬ。そなたが生きて喋っていること自体、余への殺意がない証拠よ」
カインの背筋を冷や汗が伝う。あわよくば隙を突いて、という考えもあったからだ。内心が表情に表れていたのか、魔王は邪悪に顔を歪めてあざ笑う。
「その顔、余を笑い殺すつもりか。大方、あわよくば隙を突いて仕留めよう、などと考えとったんじゃろう? 安心せい。明確な殺意でなければ発動せぬよ。なに、優れた存在に嫉妬や敵意を抱くのは人間に限ったことではないからのう」
自慢げな顔で言い放った魔王が、不意につまらなそうな表情を見せる。
「話がそれた。愚かな人間のせいじゃ」
殺される、と直感した。
「も、申し訳ありません」
「それじゃよそれ」
へりくだるカインに対して、魔王はうっとうしそうに言う。
「そなたは多くの同胞を殺めた相手を本気で敬っておるのか。それとも余に殺されまいと媚びておるのか。どちらにせよ救いようのない阿呆よな」
魔王はため息をつき、切り替えたように微笑む。
「余はベロニカ・ハボリンゲン・ハオロホスキヤ。長いから二度は言わんぞ。ベロニカとだけ憶えておくがよい。呼び捨てで構わぬし、敬語も不要じゃ」
「ベロニカ」
「それでよい。ようやく本題に戻れるのう」
「ああ。それで、僕の目的なんだが」
「余が許す。近う寄れ」
「は?」
「不正確で欺瞞に満ちた人間の話など聞いておれん。まどろっこしいゆえ、今からそなたの知識と記憶を読む。余への叛意がないという証明にもなろう」
「分かった」
玉座の前まで進み出る。踏みこめば細首に手をかけられる距離だ。
「もっと近う。余の前でひざまずくがよい」
ひざまずいて頭を垂れる。ベロニカは座ったままカインの頭に触れ、その細指を撫でるように動かす。
「ほう。そなた、おもしろい来歴じゃのう」
続けて放たれた言葉は、記憶を読むという言葉が真実であることを意味した。
「異世界召喚されたニホンの高校生、カイ・ユウト。なるほどのう」
トラックにはねられ、気付いたときにはこの世界にいた。
何もわからないまま、現代の知識と魔法の才能を活かし、二年かけて魔王城にたどり着いた。その間、甲斐勇人の名前は誰にも教えずユート・カインで通してきた。どこまで記憶を読まれたのか、もう用済みとして葬られないかと不安が募る。
「ふむ。人間しかおらぬというそなたの世界、中々に興味深い。異種族がいなければ争いもないかと思えば、些細な違いを人種などと呼んで人間同士で差別し合っておるところとか、特に滑稽じゃのう。カインよ、そなたもそう思わぬか」
「魔族だって同じだろう、ベロニカ」
魔族と言っても一枚岩ではない。有力な魔族は魔王を僭称し、相争っている。人間を含めた諸種族は、魔族同士の戦争の余波で滅ぼされようとしているのだ。
「魔王を僭称する者どものことを言っておるのか。確かにやつらは互いに争っておるが。あれはそなたの思っているようなものではないぞ」
「どういうことだ」
「端的に言えば、あれらは余の一部。人間を滅ぼしたいという衝動に権能を付与して具現化した存在。要するに、やつらは人間の滅ぼし方を巡って争っておるのよ」
「なぜ、そんなことを」
「効率よく人間を滅ぼすため、というのが当初の目的であった」
「当初の? 今は違うのか」
「誤算はふたつ」
ベロニカが細指を立てる。
「ひとつは余の分身たる魔王どもの自我が思ったより強く、それぞれが持つ『滅ぼす理由』と『滅ぼし方』へのこだわりが強かったこと。やつらは他者の手で人間が滅ぼされることをよしとせず、己の手で滅ぼすことにこだわっておる」
まるで他人事のようにベロニカは続ける。
「もうひとつは余自身の問題。権能と一緒に『人間を滅ぼす衝動』を切り離して初めて気付いたんじゃが、余、もう人類を滅ぼす理由を失っちゃったのじゃよね」
かわいらしく視線をそらし、うっすらと頬を赤らめてベロニカが言った。
「ベロニカ、お前……」
「ふふん。どうじゃ? 余、かわいかろ?」
「バカじゃないのか?」
色々な意味をこめてカインが言うと、ベロニカは頬を膨らませる。
「バカとは心外じゃのう。そなた、こういうのが好みなんじゃろ?」
「記憶を読むって、そんなのまで読めるのかよ」
確かにかわいかった。今も心臓が高鳴っている。
「そなたの世界で言うところの意味記憶とエピソード記憶を読み取れる限り読み取った。知識はもちろん、性的な趣味嗜好(意味深)まで丸わかりじゃ」
「ええ……」
記憶を読んでから、ベロニカの口調と態度が急速に砕けていくのに困惑する。
「こういう展開、望んでおったんじゃろう? そなたの世界にはそのような物語が腐るほどあったようではないか。ふふ、人間とは本当に愚かじゃのう」
頭から否定はできなかった。この世界で人類を含めた諸種族が置かれた立場は、小説やアニメで触れた数多のファンタジー世界と比べてもかなり悪い。魔王の討伐など博打もいいところで、ベロニカ一人を倒しても状況の好転は望めない。残った魔族の手によって、遠からず人類は滅亡するだろう。
「記憶を読んだなら、分かるだろう。僕は、この世界の人類に未来はないと思ってる。だから魔王と和解するという一縷の望みにかけてここまで来た。愚かだと笑うなら笑えばいいさ。もう用済みだと思うなら、いっそ殺してくれ」
「まあ、そう急くな」
本心をぶちまけるカインをなだめるように、ベロニカが言う。
「余はそなたの世界にある物語が気に入った。中々に含蓄のあるフレーズもあるようだしな」
「フレーズ? 例えば、どんな?」
「そうさな。特に気に入ったのは『やはり人間は愚か、滅ぼすべき』というやつかのう。ふふ、人間にも物の道理をわきまえた者がいると見える」
「あー、うん、そいつはどう説明したものか」
ベロニカの口にしたフレーズは、物語における類型のひとつを端的に表した言葉だ。基本的に主人公と敵対する悪役が発する言葉で、時には揶揄する意図で用いられることもある。彼女が思うほど高尚な言葉ではない気もするのだが、ニュアンスを上手く説明できる自信はなかった。
「時にカインよ。そなた、主人公になってみる気はないか?」
「はあ?」
唐突な提案に頭が真っ白になる。
「なに、人間が滅ぶまでの、ほんの戯れに過ぎん。物語のように、魔王と手を組んで滅びの運命に抵抗してみる気はないか、と誘っておるのじゃ」
そう言って、ベロニカは手を差し伸べる。
この手を取れば、自分は物語の主人公になれるのだろうか。
「って言うか、余が誘ってるのに拒否権なんかないんじゃけどね」
気付いたときには手遅れだった。正面から瞳を覗きこまれた状態で精神支配の魔法を受けて、カインの右手は意に反してベロニカの目の前に持ち上げられていく。
「あっ、おい、そりゃ反則だ。ちょっ、やめっ」
ああ、だが、認めよう。
魔王ベロニカと契約の握手を交わし。
勇者カインの胸は、どうしようもなく高鳴っていた。
「ふふ。勇者ともあろう者が、こうも軽率に魔王と契約を交わすとは」
心から楽しそうな笑顔と口調で、ベロニカが言う。
「やはり人間は愚か、滅ぼすべき。じゃのう」