蒼き竜と薄雪草
耳をつんざくような咆哮が轟いた。
厚く垂れ込めた雲に大きな穴が空き、光の柱が地上に真っ直ぐ降りてくる。
「うわぁ……」
ひと目で心が奪われた。
とめどなく流れていた涙が一瞬で止まる。
遥かな空に浮かぶ姿に、目が釘付けになった。
陽の光に煌めく、透き通るように蒼い鱗。
散々読み耽った物語にしか生きていないものだと思っていた。
まさか、本当に見ることができるなんて。
空を舞う蒼き竜の姿は、とても美しかった。
凄まじい咆哮が、地の果てまで鳴り響く。
厳かな祈りを捧げていた人々が、一斉に地に伏して悲鳴をあげた。
それでも彼らは必死に祈りの言葉を紡いでいる。
もはや哀願の声にしか聞こえなかったけれども。
地上に落ちる影が大きくなると、彼らは蜘蛛を散らすように逃げていった。
一人残された私は、どうすることもできずに空を見上げる。
白木の祭壇の上で大の字に戒められ、逃げ出すこともできなかった。
身体を包んでいるのは薄い白布で作られた貫頭衣。
薄い布地は、巻き起こる風で激しくはためいている。
「やっ、やだっ!」
思わず大声で叫んでしまった。
肌が透けてしまいそうなほどの薄い布は、体を隠す役目としては全くもって頼りない。
バタバタと翻る裾を視界の端に捉えながら、私は場違いな心配をしていた。
猛烈な風圧に押しつぶされそうになりながら、かろうじて動く太腿を摺り合わせて布地を挟み込んだ。
この期に及んで裾を気にするのも変な話だけど、私だって女の子だ。
むしろ、そっちに意識を移すことで、非現実的な光景から目を逸らそうとしていたのかもしれない。
裾を気にしてモゾモゾしている間に、蒼い竜がぐんぐん近づいてくる。
迫り来る竜の姿に、口元が引き攣ってきた。
「私、本当に食べられちゃうの……?」
まるで走馬灯のように、これまでのことが思い出される。
19年という短い人生、ずっと女子校育ちで、いい男に巡り会うことも無い寂しいものだったな。
見た目も地味だし、お世辞にも可愛いとは言えないことは分かってる。
サークルに合コンとキャンパスライフを楽しんでいる友達を横目に、いつも講堂の片隅で大人しく本を読んでいるような、
せめて死ぬ前に、人並みの恋愛をしたかった。
恋愛小説が大好きで、いつか物語のような出会いがあるのかなと夢想していた。
ちなみに初恋は、お隣の家に住んでいたお兄さん。
お世辞にもイケメンとは呼べなかったけど、真面目が取り柄の優しい人。
当時小学生だった私にとっては、大学生のお兄さんは年上で頼れる存在だった。
家族ぐるみで仲が良く、両親が共働きで鍵っ子だった私を、お隣のおばさんや、お兄さんが面倒を見てくれていた。
いつも放課後は、お兄さんの部屋に遊びに行っていた。
勉強を教えてもらったり、分かりやすい本を紹介してもらったり、とても楽しかった。
何てことない日常だったけど、お兄さんと一緒にいると気持ちが温かくなった。
思い返せば、あれが初恋だったんだろうなって思っている。
でも、お兄さんには付き合っている彼女がいて、大学を卒業すると同時に結婚してしまった。
私の淡い初恋は、あっさりと終わった。
後にも先にも、恋と呼べるのはそれだけだったな。
つまらない日々を送っていた私が、何でこんなことになっているのか。
日付の感覚が怪しくなっているけど、たぶん一週間くらい前だと思う。
大学から帰宅して、いつものように部屋で寝転がって小説を読んでいた。
最近お気に入りのファンタジー小説、ヒロインが困難を乗り越えてヒーローと結ばれる。
ベタだけど、それ故に感情移入しやすくて、ご飯を食べるのも忘れて読み耽っていた。
そのまま寝てしまった私が目覚めると、鬱蒼とした森の中にいた。
夢でも見てるんじゃないかと思った。
地味な部屋着で、しかも素足だったから、森の中を歩くのは一苦労だった。
木の根や小石が多くて、とにかく足が痛くて大変だった。
その痛みが、現実なのだと言うことを実感させてくれた。
そうこうしているうちに、辺りが暗くなっていく。
大きな木の陰で小さく丸まり、恐怖に震えながら夜を過ごした。
幸い、何かに襲われることもなく朝を迎え、ふらふらになりながら森を彷徨った。
再び森が夕闇に覆われそうになった頃、小さな川に沿って歩いていると、若い女性が歩いてきた。
驚いた女性が駆け寄ってきて、朦朧としている私を助けてくれた。
気がつくと、私はベッドの上に寝かされていた。
一瞬、自分の部屋に戻ったのかと思った。
私が目覚めたことに気づいて、助けてくれた女性が駆け寄ってきた。
同じくらいの年頃の綺麗な女性で、心配そうに話しかけてくれる。
だけど、彼女が何を喋っているのかサッパリ分からなかった。
それに瞳の色が緑色だったり、髪の色がピンク色だったりという違和感もあった。
ようやく私は、ここが違う世界なんじゃないかと思い至る。
信じられないけど、いわゆる異世界ってやつ?
体を起こした時、服が変わっているのに気づいた。
ゴワゴワして肌触りの悪いワンピースのような感じ。
彼女も同じような服を着ているから、これが普通の服装なんだろう。
下着も脱がされていて、素肌の上に直接着せられていた。
生地も厚いし裾も長いんだけど、下着が無いというのは、どうにも落ち着かない。
言葉が通じない中で、理乃という名前だけは伝えられた。
せめて名前だけでもと思い、必死に自分を指差して、リノ、リノ、と繰り返したら、なんとか通じた。
彼女は嬉しそうに、リノと呼びながら優しく抱き締めてくれた。
そして、彼女も名前を教えてくれたけど、発音が違いすぎて、アリュという部分だけしか聞き取れなかった。
アリュが住んでいるのは、川沿いの小さな街だった。
森に囲まれたところに、少しだけ開けた土地があり、そこに家が密集している。
街の人はみんな優しく、親切に私を迎えてくれた。
不思議なことに、ここで過ごしているうちに、少しずつアリュたちの言葉が分かるようになった。
三日が経つ頃には、簡単な意思疎通ができるようになり、不便さは少なくなっていた。
このまま村での生活が続いていくのかと思っていたが、現実は残酷なものだった。
昨夜遅く、アリュが駆け込んできて、私に逃げろと叫んだ。
落ち着かせて話を聞いてみると、とんでもないことを教えられた。
この街では、山に住む竜が荒ぶるとき、生け贄を捧げている。
そして、街の人々が私を生け贄に差し出そうとしているのだと言われた。
アリュは逃げろと言ってくれたけど、どうしていいか分からない。
もたもたしているうちに朝になり、アリュの家は街の人々に囲まれてしまっていた。
アリュは最後まで抵抗してくれたけど、一人でどうにかなるものじゃない。
私は無理やり貫頭衣に着替えさせられ、街外れの祭壇に引き摺っていかれた。
恥ずかしいやら悔しいやら、涙が止まらなかった。
でも、街の人々にとっては、見知らぬ私を差し出すほうが気持ちが楽だったのかな。
もしかしたら、アリュが生け贄にされていたのかもしれない。
それよりは、私のほうが……。
祭壇の上に大の字で縛りつけられながら、妙に達観した気持ちになっていた。
こんなの夢かもしれないし、案外あっさり目覚めて元の世界に戻れるかも。
そんなことを思いながら必死に気を落ち着かせていると、覆面を被った人々が周囲で祈りを捧げ始めた。
まるで何かの映画で見たような、不思議な光景だった。
ふと気がつくと、目の前に竜がいた。
巨大な足で地面に降り立ち、美しい鱗を輝かせながら、じっと私を見つめている。
圧倒的な存在感の前に、私は声も出せなかった。
「あ……あ……」
ぶるりと竜が身震いをする。
私、食べられちゃうんだ、痛いのかな、苦しいのかな……。
涙がボロボロと溢れて視界が滲む。
そして、竜が大きく口を開き、鋭く尖った牙や、赤い舌がうねるのが見えた。
「いやっ……! いやぁぁぁ!」
恐怖に泣き叫びながら、迫りくる死から目を背けるように固く瞼を閉じて、そのまま気を失ってしまった。




