始まりのレガリア
私の家は小さな部屋。薄暗くて湿っぽい空気で一杯になった狭苦しい世界。
足の裏を使って太ももを擦ってみると白い何かがいくらでも出てくる。おかあさんはこれを『フケ』と言っている。
何度か足元を擦り続けていると、『上野関市指定 燃えるゴミ』と書かれたオレンジ色の袋の間を黒い虫がカサカサと通り過ぎていく。
ほんのりと鼻につく嫌な臭いが”ここがお前の居場所だよ”とを教えてくれるかのようだった。
「おかあさん……いつ帰ってくるんだろう……? 私もたまにはお出かけしたいんだけどなぁ」
ボーッとしながら天井を眺める事に私はもう飽きてしまった。時々下を見ながら上を見ていたせいで首が痛い。疲れ切った私は身体を丸めるかのように床に寝転んだ。
最後におかあさんに会ったのはいつだろう?
次に会った時は私に優しくしてくれるのかな?
おかあさんはいつも怖い顔をしていた。
おかあさんはいつも泣いていた。
アンタが大嫌い、と言いながら。
ごめんなさい、ごめんなさい。
おかあさん、ごめんなさい。
私が『悪い子』だからいけないんだよね。
私がおかあさんの言うことがちゃんと聞けないから、だよね?
私、ちゃんといい子にしているから。
だからお願い。私のことを嫌いにならないで――――。
抑えきれない心のモヤモヤを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
そして、いつの間にかぐっすりと眠ってしまっていた。
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『本日未明、上野関市内の路上にて、身元不明の30代の男性が死亡しているのを近所の住民が見つけ119番通報しました。警察は付近の目撃情報を募りながら身元の特定を急ぐとともに、慎重に捜査を行っています』
2LDKのアパートの一室に置かれたテレビを前に、獅童透馬はスプーンを加えながら画面を見つめていた。
「さや姉、最近こんなニュースばっかりだよね。上野関市って元から治安悪かったっけ?」
「そうか? 私的にはそんなことは無いと思うよ? 大学の頃からこの街にいるけど、あんまり物騒な事とかなかったし」
台所で夕飯のカレーライスをお皿に盛られた白飯の上にかけているのは、透馬の親戚でありこの物件の同居人でもある獅童彩香。
透馬が通う通信制高校『明星学園』に勤める高校教師でもある。
冷蔵庫から生卵を取り出してカレーの上に卵を投下した彩香。缶ビールとカレー皿を両手に持った状態でテーブルへと向かっていく。
「ま、こうやって甥っ子と食卓を囲めるのも、案外幸せなことなんだけどさ」
「それな。っていうかさ、さや姉これでビール何本目?」
「デカいのが3本目......かな?」
惚けた様子の彩香は、真新しい缶ビールの栓を開けて豪快にビールを流し込んでいく。
「はぁ......。別に僕は他人の好みにあれこれ言うタイプじゃないけど、さや姉は元からお酒に弱い体質なんだから少しは自重した方がいいと思うよ?」
「まあまあ、大人っていうのはな、”酒がもたらす酔いの力”に頼らないとやっていけない時があるんだよ。面倒くさい人間関係とか悪い出来事......色々あるのが大人の世界なのさ」
「”面倒くさい人間関係とか悪い出来事”かぁ......」
彩香の言葉をぼんやりと聞いていた透馬は、テーブルに置かれたリモコンを手に取った。
『――気象予報です。今夜の上野関市は曇り空となるでしょう。雨の心配はありませんが、平年より気温が低い予報が出ていますので夜間に外出する予定のある方は――』
数回ほどチャンネルを変えた末に映し出された天気予報を見ながら、透馬は大きなため息をついた。
「どうした透馬? 急に大きなため息なんかついちゃってさ」
「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしていただけ......」
透馬は急ぐかのように夕飯のカレーを豪快に頬張り続けた。時々何かを機にかけるかのような仕草を彩香に見せながら――。
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――昨日の夜、僕は春の夜空を眺めていた。
北斗七星と繋がる『うしかい座』のアークトゥルスに『乙女座』のスピカ。そして『獅子座』のデネボラで結んだ春の大三角が、僕が握っている小さな双眼鏡のレンズに映っている。
「さ、寒い」
くしゃみをした後に思わず言葉が僕の口から零れた。
僕が住んでいる上野関市の今年の気温は平年より低めの日が続いていて、一週間前は雪がはらはらと舞い降りていた。
もうすぐ5月になるというのに、まるで冬のような天気が続いている。一体どういうことなんだろう?
「そうだ、たしか上着を持ってきていたっけ......」
足元に置いていた黒地のリュックサックから一枚のジャケットを取り出した僕は、寒さに震えながら勢いよく羽織ってみせた。
自分の心が「疲れた」と叫んだ時にやることがある。
気が向くと僕は家を飛び出して近くの山に設置された小さな展望台に向かう。ネット通販で購入した双眼鏡と、愛読書の天体図鑑と星座早見表をリュックに詰め込んで。
そう、これが僕の楽しみである天体観測。気が付くと一等星の名称をほとんど覚えてしまったほど、すっかり夢中になっていた。
「"プレセベ星団" 。かに座の甲羅をかたどっている四角い星の並びの真ん中に点在している星の集まり......か。今日みたいな月明かりが無い日だったら肉眼でも見えるんだよなぁ。はぁ......ゆっくり見ていたいけれど、明日登校日だもんなぁ......」
明日のことを思い出した僕はため息をついて、疲れた脚を労わるように地面に座る。
「そういえば、最近学校で淳兄と会っていなかったなぁ。急にいなくなるくらいなら事前に連絡してくればいいのに......」
愚痴を吐きながら空を眺めていた僕の目の前を、突然緑色の光の球が通り過ぎた。
「な、何!?」
思わず立ち上がった僕は、焦りを抑えきれないまま周囲を見渡す。
「何もない......。もしかしなくても気のせい?」
想像以上に疲れているんだろうな、と心で呟きながら僕は息を吐いて空を見上げた。そこに緑色の球があることに気づかないまま。
「気のせいじゃ......ない?」
フワフワと空中を浮遊している光の球は少しずつ僕の顔に近づいていく。
「......えっ?」
光の球が近づくたびに一歩、また一歩と後ずさりする。15歩くらい進んだ時、光の球が突如消えて地面に向かって何かが落下した。
言葉を失いながら地面に手を伸ばしてみると、そこには小さな緑色の鉱石が残されていた。
「なんだろう? エメラルドにしてみれば色が薄い気がするんだけど......」
不思議に思いながらも拾った鉱石について調べようと、僕はスマートフォンの電源を入れた。
「ヒッ!?」
その途端、背中の方から少女の叫び声が聞こえた。
「だ、誰!?」
それに気づいた僕も思わず大声を上げて背後を振り向いた。
そこにいたのは自分より年下と思われる一人の少女。
左眼の部分にはくっきりと残った火傷のような跡。四肢や首元に残る打撲傷や切り傷。
げっそりと痩せこけ、か細い腕の皮膚を今にも突き破りそうな程に浮き出た骨。
ここ数日間何も食べていない様子の彼女はフラフラと体を揺らしながら、辺りを見渡している。
どう考えても普通じゃない少女を目の前に僕は悪寒を感じていた。
「この子、どう考えても......いやまさか」
これ以上僕の口から言葉が出てこない。
否、言葉そのものは理解している。
ただ、それを理解することを僕のココロは拒んでいた。
「ここは、何処なんだろう......?」
意識が朦朧とした状態で、少女がブツブツと独り言を呟いている。
「ね、ねぇ。君はここで何をしているの?」
彼女の衰弱しきった様子を見ていられなくなった僕は、意を決して少女に話しかけた。
「光が......私を呼んでいる。ここまで連れてきた」
「光?もしかして、あの緑色の?」
「緑色......? 違う。私が見たのは黄色......」
少女は僕の存在に気づいたらしく僕の顔を見た。
そして再び歩きだす。目の前に広がる海峡を見渡せる展望台のフェンスの方向に向かって。
「ま、待って!」
僕は少女の後ろを追う。
このまま彼女を放っておくわけにはいかない、そんな気がして。




