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未踏 16号 「私対世界 Ⅱ」

作者: 山口和朗

「私対世界 Ⅱ」


  きっとこれで生きて行く


石が存在だとは知っていた

が、世界が存在だとは知らなかつた

世界といえど石と何ら変わらない

私に対する存在でしかなかったとは

世界に人が在り私に対する私の意味であった

この世界が石と同じであったとは

世界の無関心、喜ぶものでも、悲しむものでもなかった

無関心が本質であるということだけ


  私対世界 Ⅱ



  きっとこれで生きて行く


石が存在だとは知っていた

が、世界が存在だとは知らなかつた

世界といえど石と何ら変わらない

私に対する存在でしかなかったとは

世界に人が在り私に対する私の意味であった

この世界が石と同じであったとは

世界の無関心、喜ぶものでも、悲しむものでもなかった

無関心が本質であるということだけ

が、世界は可愛いい

その世界の一部でもある私というものも又可愛いい

そこには、私という不確かなものが

永遠の存在としての形を得

石が泣き、石が喜びと

今、私は世界を私と同じ存在として見ることが出来る

人も街も草木生きものも

私に対する世界としての

私における私自身のように


  私というものの記憶


私はもう一人の私を求めてはいない

私の全体のもう一人

私の中のもう一人と私が一緒に感じられる

私の全体としてのもう一人

多く私は私の中のもう一人で私を見聞き私を感じてきた

いつも二人で助け合いながら

が、いま私ともう一人の私を支えている全体の私というものが感じられ

その私との対話をこそ喜び

時々訪れるこのもう一人の私

遠い遠い記憶の底の私


  私が常に世界の主体となって


私が花を見る花が在るから私は見ることが出来るのだが

私が見ようとするから花が見えそこに関係と意味が始まり

私が常に主体となって

私という人の意識がなければ

世界が存在していても私においては無いという自明

人以前の世界、世界は在っても無いという

人において初めて現れた世界の意味

この世界の意味こそが人の根源的意味

植物や動物の意味とは違う

人というものの

人において構成された世界の意味

驚き、一体、分身、

世界への意味こそが私の意味

私とは意味それ自体のことであり

世界とはその私が意味づけたもの

キーツの驚き、リルケの分身、ディキンソンの一体


  人は愛する能力を持ちながら


私が道を歩いて行く

透明なオーラのような意識を漂わせ

足が地についていても私は道から浮いているように思え

私というものは意識を持って浮いて在る存在

しかし、この意識は道に道端の石に草木に

目と耳と心とで自在につながるもの

心が大地よと言って横たわれば

目が木よと言って抱けば

耳が虫よと言って顔寄せれば

私は彼等に包まれ

彼等が生きているから私も生きようと

私が求めさえすれば世界は応えてくれる

私という意識は存在の子供なのだ

石が草が私の意識を生きてあり

私という存在は彼等の意識を生きてあるのだった


  共感など神に心を開けば得られるもの


私は共感が欲しいわけではない

私は奇跡を生きたいだけ

一人でドングリを植え続ける人のように

私という奇跡を生きていたいだけ

生きるということが今の私にあってこれ以外は考えられず

私は私を生きようとする

私が見、聞き、考えること

かつて無数の私が見、聞き、考えてきたことにしか過ぎないのだが

人の奇跡とは現象的にはそれだけのことだが

しかし、これは時空の永遠の中では石が喋っていることに等しく

奇跡に外ならないのだ

かつて石だった私が今喋っているという

人は充分に人の奇跡を生きて来ているのだった


  この時空の中の生身の私


生身とは生身

病んでも悲惨に出会っても変わらない心のこと

一寸先は闇を言葉でははなく心で感覚した所のもの

生きているということを、明日の事は知らないと言い放つのではなく

今日の事は全て知っていると言える心のこと

生身とは世界への五体倒置

言葉の上での自由ではなく

私という客観ではなく

全てを含んだところの生きているということ

明日ここに居ないかも知れない私の為に

今日辛夷の花が咲いた

今日春風が吹いた

今日私はヒメオドリコソウとタネツケバナをテーブルに飾った

今日私は人に会いに出掛けると


  あと少しの楽しみと


人生にもっと時間があったら

もっと違った境遇に生まれたならと

ほとんどこうしたことを考えていたかつての私

人生とは相対的なものではなく絶対的なものであった

時間とは明日にあるのではなく

何かと誰かと比べてあるものでもなく

何かがあるから人生があるのでもなく

私対世界の構図の中に常に生身で存在するもの

状況とは相対化するものではなく絶対化するもの

運命、捉、障害、どれも、あと少しの楽しみと味わうもの

今日が間もなく終わる

あと少しの楽しみと味わう本のように

あのカラスたちはあの小母さんのもの

あのネコたちはあの小父さんのもの

毎朝公園に餌を届けている人のあと少しの楽しみのように

これは私の困難、私の喜びと味わうもの


  私の意味


社会的存在を生きる時、多く意味は社会的有用性の中で意味を捉えようとしたが

私が月に一人で生きた時、私の生きる意味はと考えて見たいのだった

家族に社会に生まれたのではあるが

私の個的な意味、

社会、自然とは全体であり、けっして私の部分ではない

ロビンソークルーソーを生きるのではない、この社会にあっての客観の私ではない主観の私

それが出来なかったら私の個的な存在意味はない

私は奇跡の人ではなく

人の奇跡を生きていたいのだった

人それ自体が奇跡的存在であるなら

この感情が味わえないはずわなく

妻が眠っている、子が眠っている、ブンが眠っている

私は眠らないで見守っているという

私とは世界を見守りたいのだった

私が生まれた世界、私が生んだ世界


  在ることそれ自体が意味


先づ私が在るから

意味を考える私という者が在るから

世界のあらゆる事物に意味が生まれ

私が居なければ只の有

あらゆる事が私が居ても無いとするならそれが真の無意味

在るということそれ自体が意味

無いよりは在るが意味

私は私の生命をかつてあのガンの告知と手術の痛みの中でも

ただこの世界に在ることそれ自体を願った

生涯に渡った不安、痛み、絶望であってすら

在ることそれ自体の中に求めた希望、意味

突然に襲ってくる死は私は知らない

しかし、迫ってくる死、痛み、不安は私のもの

私が所有可能な死は私の意味


  一つの発見


私の時間、私の家族、私の記憶、私の喜び、私の世界

私が見るもの、私が聞くもの、私が食べるもの

私が話すもの、私が触れるもの

私が発見するものとは、これら全てのものに名付けられた

私というものの名札

私の愛しているこの世界

誰が愛さなくなっても私が愛すこの世界

私はここから生まれ、ここへ帰って行くもの

私は子に対するように、家族に対するように

この世界に対して

何の遠慮も、隔てもいらない

私の親のように対し

子のように対していけばいい


  私にとって意味あることが人にとっての意味に


私が愛しているから私にとって意味あることが人にとっての意味となり

私が愛しているとはこの世界のはかなさと喜びを知っているということだけ

私はいま少し原発事故が起きなければ

いま少し地震がこなければと願っているだけ

こんな私にとっての意味と願いは

けっして人の意味にならないはずはないというほどのもの


  現実観察


私は見る、毎日見る、何十年を欠かさず見る

科学の目、分析の目など知らず

しげしげと見る

成長と変化とを只見る

植物に対する感情と何ら変わらず


  現実味覚


私は食べる、毎日食べる、一日五度

味覚など二の次にして

胃のない体の為に食べる時間を優先してやり

どうせ食べられない私には美食の欲望などなく

ゆっくりと地球の引力に合わせて


  現実嗅覚


匂いは体験、記憶と必ず結びついている

匂いの広がりのような、体験、記憶は常に現在に蘇り

私があそこに、ここに生きて在ると感じさせ


  現実旅行


椅子に座って旅をする人の心

草木生きものの心と同じような時空の旅

何処へ行っても行かなくても私が旅をするのは時空の旅


  現実一体


現在である私

現在である存在と時間

私はこの現在と一体であり、行ったり来たりと自在なだけ

私も現在、事物も現在

現実一体とはこの意識なだけ


  十年を生きて来た私


一日を散歩で始め、一日を思索で閉じて

自在に私の意識との対話の中で過ごした時間は

何の無為、自己嫌悪もなく

私で私を感じていたという一日の充足なだけ


  私が見たから花は意味を持ち


あの道端の草のこと

あの草の葉の赤は忘れない

世界一美しい赤だと

持ち帰り、植木鉢に植え飽かず眺めた

あの春の枇杷の新緑

どんな布より美しいビロードだと

手に取り揉んで確かめた

あの黄鉄鉱の黄金の輝き

川原の石を片っぱしから割っていた少年の日

あの輝きはいつまでも忘れないと

これら物たちとの初体験の出会いは

けっして忘れることのない

いつにても蘇る感情


  身一つ心一つで居られる喜び


それが可能だということを体験しているということ

身一つ心一つで充分に喜ぶことが出来たと感じたことの確信

病床で人の手によって守られた体ではあったが

身一つ心一つで生きたことの体験

そのシンプルさの精神の記憶


  始源の私と世界の関係


和朗と自我の私とそれらを支えるもう一人の私

このもう一人の私が始源の私

この私は和朗ともう一人の私といつの日か一体になろうと

常にそこを目指し

この私とは存在からの使者

この私とは私に仮託されてあるのだが

この私とはいったい何者なのかは解らない

しかし、この私は春、新芽が芽吹けば喜ぶ

人と話し共感が得られれば喜ぶ

何より在ること、ものが見え聞こえることが嬉しいと

私が私であることを喜ぶ

たとえ私でなくても

物自体として在る

存在として在るだけの私であっても喜ぶ

無ではない有

有によって受け継がれるこのもう一人の私

全て消滅してもなお残る空間としてのこの私

私とは存在の器

楽しみ得る者としての存在からの派遣者


  私の生命の存在を私が生きる


私は私の生命の危機意識をもって

それは片時も離さず

明日死んでもいいのだが

明日死ぬかも知れないのだが

今日を死んでもいいように生きている

明日が無いという絶望の今日ではない

生身の今日を

絶望してもなお人は生きる

人が生きているということは存在の希望

私が私の生命を生きるとは

価値や方法や意味を問うのではなく

死なないで自殺をしないで

存在を生きる、ただ生きる

それだけで充分な

草木、生きもの、それだけで充分なように

春になれば自らの意志ではなく

太陽の意志によって

芽を伸ばす時には伸ばしと

生命に価値や有用性など求めず

黙って生命を生きている

ただ生命だけで生きている


  私の誕生


私の誕生とは生命を区切っている感情

明日私は費えているかも知れない

それでもいいという今日限りの感情の中に誕生しているもの

この今日限りの私の意識を生きているという

この感情を背景に私は空間を、存在を楽しみ、時に味わい考え

私という生命への意識を生きる感情

かつて人間という、価値という、社会という感情を考え

それらを味わい行動することが人としての意味と考え

しかし病み、生命という、存在という

科学や芸術や宗教やの生命の解説ではなく

ただ生命という

ただ感じられることが嬉しいという私が

この感情だけが私の誕生の意識を形作り

私の意識は草木、生きものと同じ

私の生命の意志のままな

私という生命の戯れ

木に意識は在る

しかし、けっして生命から飛び出してはいない

生命と一体の

人の私が彼等のように

生命との一体を生き始め

これが私の誕生の感情

世界を賛美も悲嘆もしない

私という今すこしの生命の味わいなだけ


  生命とは


生命とはDNAの設計図などではなく

DNAを形作っている分子

その分子を形作っている原子

原子を形作っている素粒子

この無限空間の中の有限な物質

塵の集まり

集まりということがも早生命

原子とはこの生命の構成物質

生命そのもの

頭をこの程度に作って

手をこの程度に作ってと

遺伝子の全ての働きが解かり

人にそれらが操作出来たとしても

そして寿命が百年と伸びたとしても

人が生命を見つめていくだけ

生命が生命を見つめるという作業は何ら変わらず

生命とは生命の連続で

時間、空間、存在と同じ世界の構成物質で

原子そのもので

素粒子そのもので

無ではなく有、存在ということなだけ


  音一つ、色一つの絶対性


音に物質の数だけ音色があり

色に物質の数だけ色があり

その一つ一つの絶対性

似てはいても、或はそっくりに見えても

音、色という、その存在の絶対性は変わらない

この物にはこの音とこの色があるという

音は音として

色は色として

絶対性をもって存在しているということ

それは生命と同じように絶対的なもの

私の生命と同じように

在るということの

その物質が百年後か、一億年後か消滅するとしても

今ここにこうして在るということの絶対性

この絶対性とは、永遠の中では永遠に存在するという


  病気に対しての態度と変わらず


どうして私が癌に、何故私がと

では何故あの人が、では何故病気がと

人の死は反省、悔恨することなどではなく

ただ世界という、存在ということなだけ

無を問う必要がないように

世界は常に有

明日の私の死は自明

無数の生命は明日には死ぬのだから

何故私だけが明日ではないのだと

反対に今日生きている事を、

何故私は今日死ないで生きていたのだと

私が生きたから彼等は死に

彼等が死んだから私は生きたのだと


  時空を越えた意識の頂点


存在とは常に意識の頂点ということ

記憶の、魂の、意識の頂点ということ

それは蜻蛉であっても

放射性同位元素、石であっても同じこと

長い短いではなく、蜻蛉も石も同じ存在のバリエーションで

その瞬間において先端であるもの

存在したこと、それだけで頂点という

霧箱の中の中性子の光跡のように

何万分の一秒であっても

今在ることが頂点ということ

生まれ出ているということが

生命で存在しているということが


  みな存在として共生し


ウィルスも、石も、木も、同じ存在

私の中にはウィルスも、石も木も共に在り

彼等の集合の上に私が在り

彼等が私を自滅に追いやるなら、それは彼等の意志で

彼等によって成立している私にはいたし方のないこと

天然痘、結核、ペストと人は彼等と闘い

彼等の殺し方を知っては来たが、彼等と共生する方法は知らない

善も悪も、幸も不幸も存在として、意味としてとらえる方法が知られない限り

人はいつまでたっても共生を知ることは出来ない、又次の闘いへと旅立つばかり


  彼等の希望を私が生き


歩かない彼等

しゃべらない彼等

見ない彼等

彼等の希望が私で

私が歩き、しゃべり、見、考え

私が見、歩くことは、彼等が見、歩き考えること

私の存在とは彼等の意志なのだ


  存在とは表現以上のもので

                                             

表現をして存在したいとする者

何故に表現しているのか

社会、人に対しての、共感、理解

彼等けっして死後の千年、万年後の存在を願ってではない

生きている中での共感と理解

人が表現するとは人との共感、理解

私が明瞭でないだけ

私が明瞭であるなら、たとえイエス、釈迦といえど

表現など必要なく

私の明瞭さとは完全なる私対世界ということ

生命一つ、心一つで世界とつながった

私の生命そのもののこと

色一つ、音一つの絶対性のような

私の生命一つの絶対性でなければ


  人は今在ることに気づいていないだけ


生身、時空、存在、あらゆる言葉、意識を集めても語り尽くせない

表現し尽くせない今在ることの姿

これは、明日私の生命が費いえるかも知れないと実感する中に立ち現れる感情

死に行く人の、しかし、生還した人の心に

印象として、残像として記憶されているもの

死ぬかも知れないと実感し、その時にのみ強烈に立ち現れ

後から感じられるもの

私はその、あの時の恐怖と不安へ遡ってやっと

今在ることを確かめ、生きていることに気づくのだが

多く人はずっと在り

死の寸前迄ずっと在り

在ることに気付かない

気付いたとしても半年後、一年後に死んでしまい


  お前がそこにこうして今も生きている


原子が、原子核を直径一メートルのボールに見立て東京駅に置き

電子が、茨城程も離れて野球ボール位で

秒速二百キロメートルで動き回っている存在

私とはそれらで構成され、意識の一かけらがそれらで伝達され

漂える原子の動き、そのエネルギーによって私は想定されて在り

彼等が想定されるから、私も生きていると想定され


  私は常に越えて在らねばならない存在


私対世界の生命が五十億

全てこの世界から生まれ

私とは別の、私を越えた世界そのものとしてそれらは在り

神秘の、存在の生命の姿としてそれらは在り

私とはそれらを越えてあらねばならない存在


  生命のような今日という一日が


私という存在にとって、今日という一日は生命そのものであり

それは植物のあの光る緑の粒子の、今日一日の成長のような

初々しい初体験な時間、

日が照り、雨が降り、風が吹きと、一日は生きている

宇宙パイロットが地球に抱く愛しさのような今日という一日

その一日に私は所属しているという


  私は私の言葉を常に最後の言葉とし


明日死んでもいいように、明日は困難が立ちはだかってもいいように

今のこの瞬間を私は生きているのだが

何かの為、何かに向かってではない

時に出会うという、時の中を生きるという感得された感情で

その中から発せられた言葉を常に私の最後の言葉とし

この最後が最後迄続いていくだけ


  自在に至って初めて我在りと


我在りとは、けっして世界と対立したものではなく

世界そのものである私において自覚されるもの

私は木であり、石であり、時間でありと

私は私を世界に解体されたものとして感じ

世界は私の手、足

しかし、私の手、足は世界の集約でもあり

全て存在、必然とする全肯定の意識の中に発生する感情

何も放棄せず、何も所有せず、世界にただ在る私という感情が私の自在さ

この自在さに至って初めて我在りと


  芸術、科学が名前のつけやっこで


かつて存在に物に、名前と意味を求めた

何という名で、どんな仕組みでと、名前など人が適当に付けたものなのに

仕組みの解明など、人が勝手に決めたものなのに

原子が素粒子と原子核で構成され、そこに中性子を打ち込むとエネルギーが出てと

体の仕組みはこうなっていて、熱が出たらこの薬でこう止めてと

人の心にはこうした感情があって、この感情は心地良いもので

豊かな存在感が味わえてと

今私はそれらを信じそのことによって喜び生きているのではない

私は私一個であることに喜びを感じている

人一人一人の感情に抗うようにして私を存在させていく私

草木を名前ではなく存在として見

仕組みを利用ではなく在ることとして見

出来事を必然、自然、全て意味として見

かつて私は私だけで世界を見、味わっていた

それがいつの日か知識をたよりに世界を見るようになり

私は人の文化、精神によって我在りを与えられたように錯覚し

否定しがたく世界に帰属し、が結局私はかつての私に戻り

私一人で世界を考えることを喜び

私に於いて確かに在った私は私であるとの感情に向かって

その感情の再生、確認のために、私は長いトンネルをくぐって来たように思え

やっと今五十才という私の肉体だけで世界を考えられるようになり

あと何年かの私対世界を


  生きて在るそのことに於いて喜び


精神の奴隷、知識の下僕、得たものから自由になれず

生命として在ることが出来ず

私を探し、何かに成ろうと、正しい犬に、正しい生きものに成ろうと努める人の歴史

人の歴史とは私という個の精神狩りの歴史

私という一個の確認には、何の役にも立たず、意味もなく

私はただ私の生命を生きるばかり

世界が私を調教するも良し、私を束縛するも良し

だが私が私であることは一切損なわれることはなく

私という生命、私対世界という私の存在わ変わらず


  私の時間、私自身が表象で


私の時間とは、私が時間を意識し所有していると感じ

たとえ誰かに何かにとらわれた時間であったとしても

歴史的状況に支配され、未だ存在しない私であったとしても

それでも私の時間であるという私対時間という意識

人の私とは、常に世界の中心、世界との絆

どのような私であっても世界に対する私、世界に対する私という

唯一無二の私という絶対感

この感情は表現を越えた、自己完結した、完全無比の存在

世界そのもの、世界の目としての

存在そのものとしての私という感情

けっして理性や知性の産物などではない

始源の私の感情


  一回性


一日を知っているとは、瞬間を体験しているということ

存在してきたことの危うさを体験しているということ

そして十年という時間を記憶しているということ

十年はあっという間、一日は長い、無限に長いと

これらの感情があって、初めて一日に出会うことが出来

その根底には私という唯一性、一回性の認識があって

人類が私一人であっても、五十億人であっても

私という一回性、唯一性の、存在からの派遣者としての自覚

存在が、時空が永遠であるのだから

論理的に、単純に私は永遠の存在であるのだが

五十億年の地球の一コマを生きている有限の感情から

唯一性、一回性を考えてしまい

永遠であるということは、私というものが永遠に繰り返されて在るということ

永遠に私は存在してきたのだし、此れからも存在していくということ

ただ五十億年の眠りの後という

肉体の死があり、この五十年間の存在の影響下で形成された私の心と体

二百万年かの遺伝子の変化の下に形成された、人としての肉体上の限定はあるものの

幾度も繰り返された、これら宇宙の永遠の輪廻の現象である私というもの


  紫陽花を


何て可愛いいのだろうと

手を伸ばし触れるその人の

見開かれた目と動かされた手と

口を衝いて出た言葉と

ここに全てが含まれてあり

人の存在と意味の

希望と奇跡の神としての人の

その人が人全体の意識、文化、歴史を通してではあるが

花を愛でる喜びを持ち、味わい、そこに現れているとは

神と物との誕生

始めに光在りきの

人が神だとの意識を思わせる

人はもう充分であるのだと

光を雨をあらゆるものを愛で喜ぶ存在

人とは喜びに満ちる動物

神々の饗宴がもはや人の生なのだと


   生きることを生きるとは


生命を生きること

私以前にある生命

存在そのものである生命

世界そのものである生命

この生命とつながった私を生きること


生命が食べたいという

生命が嬉しいという

生命が痛いという

生命が悲しいという

生命が眠いという

精一杯私は生きてやる

生きていることを生きるとはそういうこと


歴史、状況、不条理、あらゆる世界対私の中にあって

生命につながった世界を生きてやる

生命という私がつながったこの世界を

生命で生きてやることが

生きるということを生きること

この私の生きている感情は

私の確信された感情

経験され物質化されてきたもの

この時空に在る私と言うとき

宇宙の果て永遠の時へと意識は結ばれ

この経験され掴まれ感じられた

生命と生命につながった私の意識があって

初めて生き始められるもの

生きるということを生きるとは

この確信があって可能なこと


人に残された最後の課題は

死と同じく生を生命として生きること

これなくして何の意味が

進歩も発展も文化も

この生命につながった私の自覚なくして

生きたことにならない

この生命を生きてるという感情があるなのら

たとえ虫であっても木であってもいいのだった

この生命を生きているという感情がないのなら

たとえ人で生きたとしても

どのように生きたとしても無意味


生きるということを生きるとはそういうこと

私という生命を私という生命で生きてやること

             1997 10 1

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