私が短文を薦める理由
皆さんは小説をどのように書いているだろうか。
「全て計算づく! プロット派だ!」
「気の向くまま書き連ねる感性派よ」
では、文章の長さに好みはあるだろうか。
「短文はいいぞ! 俺でも理解できる!」
短文は『読みやすい文章』の基本だ。とにかくリズムよく読める。欠点は単調になりがちなことか。個性も出しにくい。
「オシャレな感じがする長文も魅力的でしょう?」
長文こそ実力が現れると言ってもいいだろう。文章は、主語と述語の距離が大切だ。私は今も昔も短文派だが『登場人物がなにをやってるのか分からない』と言われたことがある。文の長さ以前の問題だが、ここでは割愛する。
話しを元に戻そう。短文ですら、駄文になりうるのだ。長文はどれだけハードルが跳ね上がるのか、考えたくもない。
長文を書くと――主に気合を入れすぎたときに起こりやすいのだが――自分がとてつもない成長を遂げたのだと錯覚しやすい。子供でも書ける文字の羅列を、ここまで長く書けたのだから、やはり自分は作家に向いているのだと、思っていた時期もあった。
さて。いかに長文が悪文になりやすいか、ご理解いただけただろうか。『長文を書くと〜』は、まだ耐えられるかもしれない。だが『子供でも書ける〜』は意味が分からないだろう。
悪文を分析してみよう。なにを言いたいか探るには、頭と尻をくっつけるに限る。
『子供でも書ける文字の羅列を、思っていた時期もあった』
ハテナマークの生産工場になってしまった。原因は主語と述語だ。両者の距離は近かったが、いくつも登場している。水タイプの主語と油タイプの述語で、うまく行くわけがない。
――水タイプ――
『子供でも書ける文字の羅列を、ここまで長く書けた』
まず、目につくのは『書けた』だろう。二度も出てきている。なにより「ふぅん。それで?」という感想しか出てこない。
――油タイプ――
『やはり自分は作家に向いているのだと、思っていた時期もあった』
思わず「今は違うんかーーい!」と言いたくなってしまう文章だ。
水と油の混ざった文章は、誰も読んでくれない。どれだけ素晴らしい内容でも、読んでもらえない。苦労して書き上げたのに、重箱の隅をつつくような感想しか来ない。それはとても寂しいものだ。指摘する側も心を鬼にしてアドバイスを――いや、なんでもない。
とにかく、悲劇を防ぐために短文をお薦めする。
「ほら見ろ! やはり短文に限る!」
「でも、短い文はブツ切りだらけで面白くないわ」
その通り。単調すぎてはいけない。短文はあくまでも基本だ。リズムよく書き連ねつつ、ときたま長文の変化球を投げ、作者に対する評価も積み上げたいものである。