#26 妖精の里
すっかりと日が落ちあたりが闇に包まれ始めたころ、大樹の根元にある妖精の里は今までにないほどの大混乱に包まれていた。
その日もいつもと変わらぬ日であった。妖精たちが笑い、遊び、思い思いに時を過ごしていく。
きっといつまでも、このように平和な日々が続くのだろう。里の誰もがそう思っていた。
だが、そんな妖精たちの想いはあっけなく破られることになった。遥か東より森へと現れたあの強大な力を持つ炎竜王によって。
突然、恐ろしい見た目の巨大な炎竜が森へと降り立ち、大樹のもとへと来ると、轟々と燃え盛る灼熱のブレスでもって、辺りの森を草木の一本もないほどの焦土に変えてしまったのだ。
大樹を覆う結界の中にあった里は、その迫りくる業火から免れることができた。だが、その結界の外にあった木々はすべて燃え尽き、黒い煙が立ち上るだけになってしまった。
美しかった花畑も、清浄な水をたたえていた泉も、そして森に住んでいた様々な生き物たちも、全て紅蓮の炎に飲み込まれ、跡形もなく消え失せてしまったのだ。
「女王様! 報告です!」
「今のところ全員無事ですー」
「……そうですか、犠牲が出ていないようで何よりです」
慌てた様子の声と、のんびりとした調子の声が響く。
妖精たちの女王であるフロレーテは、眷属の妖精たちから報告を受けていた。
あの炎竜王が襲い掛かってきたのがちょうど夕暮れ時だった、というのが妖精たちに味方したようだ。
日中は里の外に遊びに出ていた妖精たちも、日が暮れる前には全て里に戻ってきていたのだ。
もし、これが日が高いうちの襲撃であったのなら、いったいどれだけのか弱い妖精たちが犠牲になっていたことか……その様子をほんの少しでも想像するだけで、フロレーテの背筋が寒くなる。
「里の皆を集めてください。皆に伝えねばならないことがあります」
「わかりました! 行ってきます!」
「おまかせあれー」
フロレーテの言葉に、2つの声は返事をすると二手に分かれ、別々の方向へと飛び立っていく。
2人を見送ったフロレーテは、結界越しにあの巨竜を眺める。
いまだにあの恐ろしい巨竜は結界の外でこちらに向けて攻撃を続けている。
大樹の力で作られた結界は、今のところは荒れ狂う炎を完全に防ぎ、里を守り切っている。
しかし、怒り狂う炎竜王の吐き出す灼熱の吐息の前には、それもいずれ破られてしまうだろう……
妖精はとても弱い種族だ。隠れることは得意であるが、戦う力はほとんどない。
もしあの結界が破られてしまったならば、この里の妖精たちは何の抵抗もできないままに無残にも蹂躙されてしまうだろう。たとえ生き残ることができたとしても、外の世界は妖精が生きていくには厳しい。
そして、それはこの里を治めていた女王であるフロレーテでさえも例外ではないのだ……
「大樹様……どうかこの里をお守りください……」
フロレーテは里の中心に悠然とそびえ立つ巨木を見上げ、ぽつりと声を漏らす。
この大きな樹は遥か昔から――ここに妖精の里ができてからずっと里を優しく見守り続けてきた。
今まで戦う力のないか弱い妖精たちが、この森の中で危険な目にあうこともなく平穏に過ごすことができていたのは、この樹の力を借りて、代々の女王が結界を張り、里を守り続けてきたからだ。
――だがそのいつまでも続くかと思えた平和が、あの巨竜の手によってついに破られようとしている。
あれだけの攻撃に何度もさらされてしまえば、結界の要である大樹にかかる負荷もかなりのものになる。
現に今この時もほんのわずかずつではあるが、大樹はじわりじわりとその命をすり減らしている。
妖精の里のはるか上、大樹の青々とした枝からはらりはらりと落ち始めている木の葉がそれを示す何よりの証拠だろう。
このままいつまでも炎竜王の攻撃が続いてしまえば、あと数日もしないうちに、里を守る結界は破られてしまうであろう。
その先に待っているのは……妖精の里の壊滅。結界の外は渦巻く炎で満ちている。あれを超えることなどできそうにもない。
たとえ炎の先に抜けることができたとしても、あの巨竜は妖精たちを1匹たりとも逃がしてはくれないだろう。それほどの怒りが結界を超えて、ビリビリとこちらまで伝わってくる。
その怒りにあてられ、動けなくなってしまう妖精までいるほどだ。
あの巨竜が、こうして執拗に結界に攻撃を加えてまでも里を襲おうとする目的はフロレーテには分かっていた。
なぜなら、この里にそこまでして欲する価値のある物など一つしかないのだ。
そう、妖精が大事に守り続けている秘宝――ありとあらゆる生き物に、それが望む力を与えるあの宝しか――
「女王様! 皆を集め終えました!」
「終えましたー」
先ほど里に眷属たちを集めに行った妖精が戻ってきたようだ。
里の中央にある広場には、里中にいるすべての妖精たちが集まっている。
フロレーテは不安を振り払うと、そこに集まった妖精たちに不安を見せぬよう凛とした声で告げた。
「今、我らが妖精の里に未曽有の危機が迫っています。このままでは彼の巨竜は大樹様が維持する結界を破り、この里へと乗り込んでくることでしょう」
フロレーテの言葉に、集まった妖精たちがざわめく。
その言葉が信じられないもの、その場で泣き出してしまうもの、妖精たちの反応は様々だった。
だが、その全てに共通するものは、今まで妖精たちを守ってきた里が無くなることへの恐怖だった。
おびえる妖精たちの姿を見て、フロレーテは心を痛めるが、なおも言葉を続ける。
「我々の弱い力では、彼の巨竜と戦うことはできません。このまま結界が破られてしまえば、あの燃え盛る炎に焼かれ、我らが全滅する未来は変えることができないでしょう。それだけは何としても避けなければなりません。ですから、皆の力を貸してください。皆の力を合わせて、大樹様の結界を維持するのです」
ここから見えるあの巨竜は、見たところ全身のあちこちに傷を負っている。もしかしたら……もしかしたら結界を壊すことをあきらめるかもしれない、あの傷を癒すためにこの地を去っていくかもしれない。
もしくは……誰かがあの巨竜を追い払ってくれることもあるかもしれない。
巨竜の様子を見る限り、それらの可能性は限りなく低い。もはや奇跡にも等しいと言ってもいいだろう。
だが、それを祈らずにはいられないのだ。奇跡にでも縋らなければ、この里はなくなってしまう。
力の衰え始めた先代の女王から、女王の座を譲り渡されてから、永い時が経った。
その間、里は平和そのものであった。妖精たちが元気に飛び交い、笑い声の絶えなかった里が無くなると考えると胸が張り裂けてしまいそうになる。
それに――
(フィリオーネ……あなたは無事でいるでしょうか……)
フロレーテが、ハチミツを食べたフィリオーネを里から追い出したのは本気ではなかった。
妖精はもともといたずら好きの生き物だ。つまみ食いや落書きなんてことはしょっちゅうのことだ。
時には寝床に虫を放り込んで相手を驚かせたりするものだっていたくらいだ。
つまみ食いをして、ハチミツを食べつくしてしまった程度かわいいものなのだ。
だがあのハチミツは自分が楽しみにしていたものでもあった。それを聞いて怒ってしまった自分は、フィリオーネを少し懲らしめるために、追放だと言って里から外に出した。
里から離れすぎなければ、夜にでもならない限り危険は少ない。
だから、日が暮れてしまう前にはフィリオーネを迎えに行き、諭した後は里へと連れ戻すはずだったのだ。
しかし、里の外へと出ていったフィリオーネは、いつの間にかいなくなってしまった。
慌てて里にいる全ての妖精を総動員して、森の中をくまなく探したのだが、結局フィリオーネが見つかることはなかった。
フィリオーネがいなくなる少し前、森で3人組の人間を見たものがいたらしい。その男たちに捕まってしまったのかもしれない。もしくはモンスターに襲われた可能性だってある。
数か月が経った今でも、あの時の自分の選択を後悔してしまう。
里の中は大樹の結界に守られているから安全だ。だが外はそうではない、いくら妖精が姿を消せるとしても、妖精を狙う悪い人間やモンスターは確かにいるのだ。里と違って安全とは限らない。
フィリオーネはもしかしたら自分を恨んでいるだろうか、それとも憎んでいるだろうか。
悪い人間に捕まってはいないだろうか、モンスターに食べられてしまってはいないだろうか。
妖精はマナさえあればどこだろうと生きていくことができる。もし、こんな自分の願いが届くのならば、どこかで幸せに笑っていて欲しい。死んでしまっていたら、悔やみきれない。
もしもどこかで生きているならば、いつの日かほんの一目でもいいから元気で過ごしている姿を見せて欲しい。
そして、たとえ許してくれなくてもいいから、あの時のことを謝らせて欲しい。
――だが、ここで里が無くなってしまってはそれも叶わない。
里が無くなれば、フィリオーネが帰ってくることもできないだろう。
もしかしたら、ここへ戻ってきたときに、滅んで誰もいなくなった里を見て泣き出してしまうかもしれない。
だから、ここで里が無くなってしまうのは避けなければならないのだ。たとえ起こるはずのない奇跡に縋ることになってでも――
そう考え、フロレーテは顔を上げると、妖精たちに大きな声で告げた。
「さあ、皆さん。大樹様に力を注ぐのです! きっと、きっと私たちは助かります!」
フロレーテの言葉を聞いた妖精たちは、大樹のもとへと飛び立っていく。だが、中には泣き続けたまま動かない妖精たちもいた。
……きっと助かる。その言葉は自分に向けたものなのか、それとも里の妖精たちに向けたものなのか。
そんなことはどちらでもいいのだ。今はただ、希望を捨てずに大樹の結界の維持に努めるだけだ。
たとえ、自分の命が尽きることになってでも、結界を維持し続けてみせる。
フロレーテは悲壮なまでの決意をもって、大樹へと力を注いでいく。
やがて、女王の並々ならぬ決意に感化されたのだろうか。
地面にへたり込んで泣いていた妖精たちも涙をぬぐい、一人、また一人と大樹のもとへと飛び立っていく。あたりを飛び交う妖精たちの顔は、いつにもなく真剣なものであった。
いたずらばかりしていたものも、いつも怠けてばかりいたものも、その全てが一丸となって里を守るために動き出す。
――今、妖精たちの絶望的なまでの籠城戦が始まった。




