87、旅の終着点
オレたちは真白色の世界を見下ろしながら長い螺旋階段を上っていた。
百層を無事に踏破し、最上層と思しき場所へ向かっているわけだが、部屋の内周を囲うようにして伸びる螺旋階段は無駄に長い。
かれこれ10分は上り続けているが、天井までようやく半分といったところか。
「うわー……地面が遠い……」
「落ちたらひとたまりも無いと思うぞ。試してみるか?」
「遠慮します!」
そんないつも通りの他愛ない会話を繰り広げながらも、一歩一歩階段を踏みしめていく。
この先にまだダンジョンの続きがある可能性はある。だが、なんとなくそれは無い様な気がしていた。
「それにしても、ゆーくんの魔法すごいよね。ばばばー、って氷出しちゃうんだもん」
凛が思い出したようにオレの『白銀色の罪人棺』を話題に上げる。
「オレも、あの魔法はよく分からないんだけどな」
『贖罪ノ緋槍』と合わせて、ともにオレの開発した魔法ではない。なら、どこかで聞いたことがある魔法かと言えばそうでもない。というか、こんな魔法が市井に跋扈していたらそれこそ世紀末どころの話ではない。
ただ、この魔法の気になる点はそこだけではないのだ。
先ほどオレは魔法を発現させようとしたのに、発現しなかった。だが、そのあと凛が水晶の下敷きになったときには問題なく発現された。
どういうことかまるで分からない。MP以外に発動条件があるのか?
考えを巡らす。心当たりが無い、と言えば嘘になる。これまで、これらの魔法――仮に、『罪人シリーズ』とでも呼ぼう――が発動した状況を考えれば共通項はある。それは、
「誰かの死が条件……?」
例えば『贖罪ノ緋槍』が発動したときは、オレはロストドラゴンに殺されかけていた。『白銀色の罪人棺』は、一回目はエルナの死に、二回目は凛の死を誤認したために発動したと考えられないだろうか。まだ合計で三回しか発動していないため、条件を確定させるのは難しいが。
そんなオレの仮説交じりの思考は決して凛に漏らすことは無く、ただ曖昧な返事と理由で誤魔化す。何とも得体の知れないものが自分の中にあるような気がして気持ち悪い。
異世界などという馬鹿げた場所に連れてこられた歪みが、こんなところに現れたとでもいうのだろうか。
そうこうしているうちに長かった階段も終わりを告げ、目前には大きな木製の扉が屹立する。扉、とそう理解できるのは辛うじて取っ手がついているからだ。だが、実際のその姿は木製の巨大な円盤。それが、オレたちの進む道を塞ぐようにしておいてあるだけだ。
「これを、開けるのか……?」
直径は約3メートルほど。厚みは50cmほどだと仮定しても、その質量は中々のものだ。凛に頼んでもいいが、いくら勇者の彼女と言えど苦労をするのは間違いない。
「『魔力操作』で開けちまうか」
つい先日、狐人族の集落で教わった『魔力操作』。この十日ほどのダンジョン攻略で、自分の中で魔法として昇華していた。
この先で大量に魔力を使うような状況はもう無いはずだ。ならば、残ったMPを使い果たして扉を開けてしまうのは悪い案ではない。というか、そうしなければ開けられないのだから他に選択肢は無い。
「さてと……」
手の中に魔力を練る。
ただし、それは何物の属性も持ち得ない。
ただ純然たる魔力が存在を持ち、他者に干渉する能力だけを与える。そして、その魔力に明確な形を与えていく。
それは、人の手。
「――――『見得ざる御手』!」
魔力が濃密に編みこまれ、人の腕の形を為す。
当然、それは魔力の塊に過ぎず、人の目に見ることは出来ない。だが、理不尽な魔力は物理的な干渉をすることが出来る。
無色透明の魔力の腕は、当然非力なオレの膂力をはるかに超える。
「動、けぇ!」
透明な手を扉にかけ、そのまま円盤を押す。
軋むような音と大量の埃を落としながら、少しずつ、だが着実に扉が開いていく。
その奥に待つのは希望か絶望か。
ゆっくりと開いていく扉を凛は息を呑んで見守っている。オレも、MPがゴリゴリと減っていく感覚に嫌な汗を垂らしながら、魔力の腕が立ち消えないように神経を注ぎ続ける。
十秒、二十秒……軋む音が続き、三十秒。ようやく、扉が全開になる。
「開いた……」
改めて言うまでもない事実を、凛と確認する。
中は薄暗く、外から状況を確認することは出来ない。
「特に、何かの気配は無いけど……」
凛が自信なさげに告げる。
「気をつけて進もう。『蛍火』」
火の球を周囲に漂わせて進む。足場は先ほどと同じく木で作られている。
どうやら短い通路になっているようだ。先が開けている。
凛と視線だけで合図を交わし、身長に歩みを進める。
だが、オレたちの警戒と緊張を裏切り、外敵の急襲も突如の罠も無く、通路はあっけなく終わりを告げた。
「何だ……ここ?」
「うーん……?」
凛もオレも目の前の空間に意味を見出せない。一辺が5メートルほどの立方体のような部屋だ。四方に扉が一つずつあり、当然後方にはオレたちが今来た道がある。
そして気になるのは部屋の中央。存在感を放つ群青色の石碑が建っている。
「おいおい……まだ続くんじゃないだろうな……」
口では軽く言いながらも内心は冷や汗まみれだ。
真ん中の石碑に近づくと、石碑に刻まれた文字が読めるようになった。
――――『赫赤王』ファルド・ゲッコー ここに眠る。
よく見れば石碑のもとの床に棺が埋め込まれている。
ゲッコー……? この家名……ギルタールのものと同じだな。偶然、とそう呼ぶにはやや引っかかる。
続いて、石碑にはこう書かれていた。
――――力ある者よ。よくぞここまでたどり着いた。
――――世界を救う鍵は奥の部屋にある。
――――俺の物も好きなだけ持っていけ。
そして、少し間が空いてこう刻まれていた。
――――――だから、必ず世界を救え。
ただ、それだけが刻まれた石碑。その文字は無骨で、書いた者の剛毅な気質がうかがえる。だが、込められた思いの強さは線の走り方からはっきりと読み取れた。
「世界を救え……ね」
リスチェリカのダンジョンの奥底、カシュール・ドランが残した言葉と同じだ。この世界に訪れるという厄災を回避する。それをダンジョンの訪問者に託す。
「本当に、世界が危ないんだね……」
「信じてなかったろ?」
「そ、そんなことないよ! でも、その、目の前で実際にこういう風に書かれてるのを見ると……」
そう言うと、凛は俯いて何かを考えてしまう。
確かに、急に世界が滅びるなどという事実を突きつけられれば否が応でも考えさせられる。大半の人間はその後、一瞬のうちに「ありえない」と理解を諦めるだろう。
オレだってそうしてしまいたい。だが、そう捨てておけない証拠が揃いつつある。
カシュールの妄言だと、そう確定できるものがこのダンジョンにあればよかった。だが、事実はまるで逆。カシュールの言葉、世界の厄災を仄めかすような言葉がここにも。
その事実はオレたちの顔を難しいものに変えるには十分な材料だ。
「とりあえず、他の部屋も見てみよう」
ここで考え続けていても何も生み出せないと結論付け、凛に移動を提案する。考えごとをしていた凛も、曖昧な笑みを浮べると追随した。
まずは奥の部屋だ。そこに、ファルド・ゲッコーが「鍵」と呼ぶものが置いてある。
奥の部屋にある扉は簡単に開く。
埃が舞い、凛と二人でむせながら薄暗い部屋に足を踏み入れた。薄暗い部屋を火で照らすも、部屋は小さくすぐ先に壁が見える。
その真ん中にあるのは石で出来た台座。
華美な装飾も無く、ただそこに鎮座し、物を載せることだけに特化した機能美を有している。台座の上に置かれた物を手に取る。
「腕輪……か?」
金色の細い線がリングになっている。直径はちょうど腕が通る程度。オレの細腕ではやや余るが、豪腕な男性であればぴったりのサイズだろう。
そして腕輪にはめ込まれている赤い石。明かりに照らすと深く鋭い輝きを示す。
「ルビーかな?」
「確かに、そう見えるな……」
腕輪の赤い石を光の中で揺らすと、やはり謎の記号が浮かぶ。
『持ち物』からカシュールのペンダントを引っ張りだして、そちらも光にかざす。
「何してるの?」
「いや、共通点が無いかと思ってるんだが……」
「そのペンダント……何?」
「リスチェリカのダンジョンの地下で手に入れた。これも世界を救う「鍵」らしい」
二つの記号を比べても、いまいち共通項は見えてこない。
オレの知らない言語における文字だと考えるべきか。例えば、大昔に使われていた言語とか。
……現状でこれが何故「鍵」になるのかは分からないな。
ため息をつき、二つの「鍵」を『持ち物』にしまう。
「この部屋はホントにこれだけか……」
壁や床、天井などをくまなく探すも、他に何か仕掛けらしいものは見当たらない。
部屋を丸々一つ、「鍵」の置き場所に使うとは、随分と豪胆な性格らしい。
「他の部屋を見ようぜ」
ここで得られる情報はこれ限りであることを確認し終え、凛とともに部屋を出る。
左右にある部屋のうち、左の部屋に向かう。これもまたあまり大きいとは言えない部屋だ。
「……何、これ? 魔法陣?」
凛の呟きに追随するようにして、目の前に敷かれた紋様の意味を考える。形状から察するに凛の言う通り魔法陣に相違ないとは思うが、その効果までは一見しただけでは分かりづらい。
「ちょっとだけ待ってくれ」
凛に断って、魔法陣の精査を始める。埃を払い、描かれた文様の構造を追う。
数分ほど魔法陣を観察し、一つの結論に至る。
「恐らく、これは転移魔法陣だな」
「転移魔法陣……って、ゆーくんがよく設置してるやつ?」
「ああ、それと同種類の魔法陣だ」
文様のパターンから転移魔法陣であることが推察できる。とりあえずは後で魔力を流して確認しよう。恐らくは地上と行き来できるものだろうが。
「この部屋もこれだけか……?」
部屋を見渡しても、あるのは床に描かれた魔法陣のみ。他の物は一切置いていない。
何ともまあファルド・ゲッコーという男は飾り気の無い男だ。
この感じだと最後の部屋も相当に殺風景なのだろう。
そう予想して、最後の部屋の扉を開ける。
「うっ……」
部屋から漂う臭気に思わず口元を覆う。それは決して刺激臭や毒物臭の類ではないが、芳しいとも思わない。金属の匂いだ。金属そのものが持つ匂い、そしてそれに伴う錆の匂いが部屋に充満している。ただ、部屋から漂う臭気が不快に感じるのはそれだけが理由ではない。
獣の匂い。そして、乾燥させた香木のような匂い。
それらの臭いが交じり合うことで何とも形容しがたい微妙な不快感を煽る。
「うぅ……なんだか、あまり長居したくないね……」
「同感だ」
匂いもさることながら、部屋の中の物々しさも恐ろしい。部屋中を埋め尽くすように武器の類が置いてあるのだ。
剣、槍、斧、弓、手甲、爪、棍棒、扇、鎌――――この世に存在する「武器」と名づけられたあらゆるものが存在しているのではないかという錯覚に陥る。否、事実、それだけの多種多様な武器が置いてあった。
「錆びてるのもあるが……」
そう呟きながら手元の白い剣を台座から引き抜く。ズッシリと重い両刃の剣は、長い年月を経ているだろうが、その輝きを失っていない。
「随分と業物だな」
過去に見た良剣を思い出しながら目の前の武器に評価を下す。
「そだねー」
などと言いながら、凛も落ちていた短剣を適当に振っている。
「石碑に書いてあった『ファルドの物』ってのはこいつらのことか」
大量の武器。それがこのダンジョンをクリアした報酬ということだろうか。
「うーん……オレは武器は扱えないからなぁ……」
どれだけ質の良い武器を提示されたところで、オレの剣術や槍術の能力などたかが知れている。それこそ、『魔剣シュベルト』のような埒外な付加効果が付いていなければオレがあえて武器を使うメリットは無い。
「まあ、もらえるもんは貰っとくか」
見たところ、呪われている武器などは無さそうだ。後で売るなりすればいい小遣いになるだろう。
「ってなわけで、片っ端から回収回収っと――――」
「きゃああ!!」
唐突な凛の悲鳴に、緩んでいた神経が研ぎ澄まされる。
手の中に魔力を込め、武器の中を駆けて彼女のもとへ向かう。
「大丈夫か!?」
「あ、ゆ、ゆーくん……」
「これ……」と、消え入りそうな声で凛が指を指す。
そこにいたのは地面に座り込む一人の獣人。否、一人の獣人だったモノだ。
「どう見ても生きてはいないな……」
ミイラになってしまった獣人の男を見下ろし、確認をする。
体から水分が抜け、干からびてしまっている。腐敗して白骨化していないのは、ここに細菌がいないからだろうか。
「び、びっくりした……」
ようやく落ち着いたらしい凛がへなへなとその場に座り込む。
「まあ、ふと見たらすぐ近くにミイラがいるとかちょっとしたホラーではあるわな」
「そうだよ! 怖かったんだよ! もっと慰めて!」
「率直に面倒くさい」
「そんな!」
いつも通りのやり取りを経て、凛は落ち着きを取り戻したらしくようやく掛け声とともに立ち上がった。
「これが、ファルド・ゲッコーさんかな?」
「恐らくな。本人がこの様だから何とも言えないが……」
死体を観察しているとふと鈍い輝きが目に留まる。
ファルドの右手、そこに黒ずんだ短剣が握られている。
「まさか……」
そう思って、俯いているミイラの喉元を覗き込む。
「ゆ、ゆーくん?」
まさかとは思ったが……こいつ……
「自害、したのか……」
不可解な事実を飲み込めないままに呟く。
喉元には切りつけたような傷があった。彼の手に握られている黒ずんだ短剣から推察するに、恐らくはそれで自らの喉元を掻き切ったのだ。
だが、問題は動機だ。もし自害だとするならば、動機を暗示するようなものが近くに……
「あった」
ミイラの太ももの下に、黄ばんだ便箋が落ちていた。便箋の一部に赤黒い跡が点々と落ちている。
「……なんて書いてあるの?」
便箋を開いて中身を読むオレに凛が問う。
「――――俺は許せない」
その手紙にはそう綴られている。
「――――アイツを裏切った人々も、始まりから狂っているこの世界も、そして自分自身も」
書きなぐったような文字。ところどころインクが滲み、奇妙な尾を引いている。
「――――間違っている。ああ、間違っていた」
――――世界も、神も。俺たちも。
一際大きな文字でそう綴られた手紙は、そのまま終わってしまった。
「何だか、よく分からないね」
凛の言うとおりだ。
誰かに何かを伝えるにしては抽象的過ぎて、意味が分からない。ファルドという男が文章が致命的に下手なのか、それとも彼の中に沸きあがる激情が冷静さを失わせたのか。それは分からない。
だが、これが彼の残した遺書であることは分かる。
カシュールの手紙や日記もそうだった。核心は分からず、ただ彼らの激情だけが綴られている。そして、彼らはその想いを記して死んだ。
その事実の意味を、今のオレでは正確に測ることができない。
理解出来ないものは、どれだけ理解をしようとしても理解出来ない。
当たり前のようで、酷く冷酷な真理だ。
「……とりあえず、ここらにある武器はもらっていくか」
幸い、現状『持ち物』に目に見えるキャパシティは無い。ここにある百や二百程度の武器であれば余裕で収まるだろう。
そんな概算を抱きながら、オレは激情を抱いて死んだ男から意識を外した。
「ふう、ざっとこんなもんか」
「ゆーくんのそのスキルすごいね……全部入っちゃうなんて……」
「まあな。オレ自身が一番驚いてる」
『持ち物』の収納能力の高さに驚愕しながらも、オレは心のどこかで当然とも思っている。それが何故かはわからないが。
よし。とりあえず、ダンジョンの成果としちゃこんなもんか。
「凜は、ホントにそれだけでいいのか?」
「うん。色々武器あっても、わたしは上手く使えないし」
そう言うと彼女は腰に下げた短剣の柄を軽く叩いた。彼女の持ってきていた短剣は、此度のダンジョン攻略で見事にへし折れてしまった。その代わりとなるような短剣を一本、彼女は今回のダンジョンの報酬としたのだ。
「今回のダンジョンでのオレとお前の活躍は半々だ。得られる報酬も折半が妥当なんだが……」
オレの提案にも彼女は首を振る。
「いいよ、別に。わたしは、無理言ってゆーくんに付いてきてるし……ゆーくんが無事なだけで、他には何も要らないかなー」
などと、聞くだけでも気恥ずかしいような言葉をさらっとのたまう。
本人はあまり意識せずに言い放ったのか、今しがた自分の言った言葉の意味に気付き頬を赤らめた。
「そ、それに! そもそも、わたしのゆーくんの活躍が半々、っていうのはウソだしね。ぜったい、ゆーくんの方が活躍してるから!」
オレとしてはそうは思わないが、凛から見るとどうやらオレは獅子奮迅の大活躍をしたらしい。オレが攻撃を、凛が防御を担っていただけで、仕事量はそんなに変わらないはずだが……
「まあ、お前がいいなら、それでいいよ」
後で武器を換金した際には、凛にも金を渡そうと内心で決め、話を終わりにする。
「とりあえず、これでここともおさらばか?」
「うん……そだね」
凛としては、長かったダンジョンの攻略が終わり感無量なのかもしれない。どこか、ぼんやりとした様子で部屋を見回す。
確かに長かった。そして、単調な戦闘だけを繰り返すというのも、中々に精神的に来るものがあった。もし一人で挑んでいれば、精神に異常をきたしていたかもしれない。
「……ありがとな、凛」
目を合わせずに礼を言う。
「え……?」
「いや、お前が無理矢理とはいえ、付いてきてくれて、その、何だ。……色々と助かった」
面と向かっては言えない。
散々帰れと、付いてくるなといい続けていたオレが、礼を述べるなど失笑ものだろう。
だが、事実、様々な場面で凛には助けられている。そのことについては、礼を言わなければならないだろう。
「おい、凛。ずっと黙ってられると流石に気まずいんだが――――」
ちら、と彼女の方を見やる。
ぽた、ぽた、と凛が涙を零した。
「……は、はぁ?」
その予想外のリアクションに気の抜けた声が漏れる。
何故だ。何でこいつが涙を流す。
「ご、ごめんね……! ち、ちがうの! これは、その……あれ、おかしいな……!」
凛自身も、自らの反応におかしさを覚えているのか流れる涙を塞き止めようと、必死に目じりを拭う。歪に口元を歪ませているが、それが笑みになることは無い。ただ、思いの奔流がポロポロと彼女の手を逃れるようにして頬を伝う。
「お、おかしいよね! ホントなら、笑わなくちゃいけないのに! 喜ばなきゃいけない場面なのに! あれ、えへへ……」
口調だけは努めて明るくしようとしているが、しゃくり混じりで震えている。
喜ばなきゃいけない、という彼女の言葉にややゾッとしないものを覚える。彼女が日ごろ、猫を被り周囲の反応をうかがいながら自らの表情を作り変えてきた歴史が垣間見えた。
1分にも満たない時間で、すぐに凛の涙は止まった。
だが、喉の痙攣は治まらないらしく、未だにしゃっくりに近いことを繰り返している。オレは何を言うでもなく、ただ驚きのあまりにあわてるしかない。
「……嬉しいときも、涙、出るんだね……」
まるで他人事かのように呟く。彼女自身、初めて知った自らの感情の顕われ方なのかもしれない。
そして、彼女の言葉から涙の理由を理解する。
オレから感謝されたことへの喜び。ただ、それだけだった。
「ゆーくん、こっち見ないでね。今、見られると嬉しくない顔してるから」
「泣き顔ばっちり見せといて今更感すごいな」
「そういうのは嘘でも見てなかったって言ってよ!」
彼女の声に本当の明るさが戻る。
もう大丈夫そうだな。
「凛。――――帰ろうぜ」
「うん。……うん!」
一ヶ月もあれば終わると思っていた旅路は、想定より延びて二ヶ月ほどの旅になってしまった。
月並みな言葉だが様々な出会いがあり、様々な別れもあった。
それら全てをオレは忘れない。文字通り、忘れられない。
彼ら彼女らがオレに向けた言葉、思い、想い……ああ、そうだ、忘れがたい。
オレは、正しい道を進んでいるだろうか。
欺瞞の霧の中で、困惑に塗れた道しるべを頼りに、ただ黙々と歩み続ける。
それこそが、正しい道なのだろう。否、正しい道でなくてはならない。
だが、オレの歩む道が正しかろうが、間違っていようが、一歩、一歩、近づいていく。
旅の終幕に。
光を帯びた魔法陣に足を踏み入れる。
そのまま緞帳が下りるが如く世界が暗幕に覆われる。
一瞬の思考の断絶。
幾度と無く経験した転移の瞬間は、未だに慣れない。
体が再び重力を思い出し、暗い世界が途切れる。
鼻につくのは先ほどとは違う木々の香り。そして、耳をくすぐるのは風の音。
暗い部屋に凛と二人、転移したようだ。
目の前の木製の扉は片手で簡単に開いた。
「ここは……?」
目の前にはやや懐かしさすら覚える森の風景。だが、目線の位置は地上ではない。下を見下ろせば、十分に足が竦む高さの、大木の上だ。
木々の高さ、鬱蒼とした様相から、フローラ大森林の中であることは間違いない。だが、その木々には建造物が乗っており、居住空間となっている。
「……デックポート集落に戻ってきたのか」
どうやら、ダンジョンの魔法陣はご丁寧にデックポート集落まで戻してくれたらしい。何とも気の利くこって。
後ろを振り返ると、魔方陣が消えていた。どうやら一方通行性の魔方陣のようだ。そんなものがあることが驚きだが、双方向が可能なら一方通行も可能なのだろう。
「うし。デックポート集落にはもう家と繋がる魔法陣を設置してある。そこまで移動して、リスチェリカに戻ろう――――」
そう言って、何気なく視線を前に戻す。
影が、降って来た。
「は……?」
口から息と判別できないようなか細い声が漏れる。
影は、重力の赴くがままに一瞬でオレの目の前を落下していった。
直後、ぐしゃ、という怖気が走るような音が耳に届く。
「今の……」
凛の震える声が、今しがたオレの見たものが現実であることを突きつける。
完全記憶能力を用いて、今の映像を再生する。
まさか、そんなわけがない……
「どうして……」
耳に声が届く。
オレたちが一番問いたかった疑問は、けれどもオレと凛のその双方から発されることはなかった。
樹上から見下ろす緑の大地。
そこに赤い血の池を作る一人の獣人。
見紛うことは無い。
その男の名は、―――――――ギルタール・ゲッコー。
ラグランジェを覆そうとした暴虐の虎人だ。
その隣で立つ、一人の男。
「どうして……」
青白い肌をした痩躯の男は、もう一度、その疑問を独りごちた。
旅はまだ、終わらない。




