64、少年はかくて償う
ラグランジェにおいて、オレはまた1人弟子を増やす羽目になった。
オレが弟子を取ったことに関して凛が驚きと不平不満を隠さずに表したが、それを一蹴した。
バレッタ王子の強くなりたいという理由。それを聞いて、オレは彼に魔法を教えてみたくなった。
何故そう思ったのかは分からない。
もしかしたら、可能性を期待しているのかもしれない。
自分の姿を重ねているのかもしれない。
明確な答えには至れそうに無い。
「で、とりあえずこれから宿をとるわけだが」
バレッタ王子から、師匠をするにあたって是非とも王城に泊まって欲しいとの提案があったものの、オレはすげなくそれを断った。王城に一旦居座ると、なし崩しで旅の出発を延期させられそうだったからだ。
それゆえ、オレたちは自力で宿を探すしか無い。
バレッタ王子の魔力が切れてしまったため、本格的な訓練は明日からにするそうだ。
魔力が数時間足らずで回復するオレはやはり異常らしく、本来もっとかかるものらしい。
「うーん……いい宿が無いものか」
「どうだろう。冒険者ギルドで聞いてみる?」
凛の提案に頷きを返す。
「それが無難だな」
ソフィアもオレの決定に異存は無いらしく黙って付いてくる。
今オレたちはラグランジェの北側、つまり人間の居住区をうろついている。南側に行くには巨大な壁に何箇所かある門をくぐらなければならないため、フローラ大森林に行く以外で、南部にはあまり立ち寄らないだろう。
冒険者ギルドに向かう途中、見知った顔に出会った。
「……あれ、ユート?」
こんな辺境の地で、人脈の無いオレが出会う相手など限られている。
「エルヴィン? どうしてここに?」
オレの眼前では、予期せぬ再会に口元を緩める金髪の青年がいた。
名はエルヴィン・カーマイン。
昨晩、色々と情報を教えてくれた冒険者だ。
見れば一人のようだが、一体こんなところでどうしたのだろうか。
「それはこっちのセリフさ! 魔物の大群が押し寄せてきたと思ったら、君が駆け出していっていつの間にか撃退されているし! そしたら、あまつさえ君がこの国の憲兵たちに連れて行かれたじゃないか! 一体、何があったんだ?」
聞きたいことが山積みだったらしくやや混乱した様子でエルヴィンがまくし立てた。
なるほど。どうやら、一部始終を見られていたらしい。まあ、同じ旅隊にいたのだからそれも当然か。
オレは肩をすくめながら言った。
「魔物の大群を撃退したら、褒賞が出たからそれを受け取りに行ってたんだよ」
「や、やっぱり君が撃退したの……?」
「まあ、な」
エルヴィンの向けてくる畏敬の視線からやや目を背けながらも答える。
「君は、やっぱりすごい奴だな」
「……やめてくれ。そんなんじゃない」
褒められる度に、オレに刺さった楔が疼く。
そんな大層な奴じゃないんだよ、オレは――――
そう叫びたくなる気持ちをぐっと押さえこんで、平然と受け答えを続ける。
だが彼の賞賛はやむ事がない。ついぞ、自分の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪んでしまう。
それに目ざとく気付いたエルヴィンは慌てて話題を変えた。
「と、ところで、これから予定はあるかい?」
「何だ? 唐突なデートのお誘いか?」
寄った眉尻を広げ、平静を取り戻した体を装いながら冗談交じりにからかう。
「違う違う! いや、そのミレフィアがどうしても君の魔法を見たいって言って聞かなくてね……」
困ったような、申し訳なさそうな顔で予定を問うた真意を答える。
ミレフィア、というとエルヴィンの仲間である水色髪の少女だ。魔道士であり、昨晩はオレの魔法(といっても風呂を作っただけだが)をやたらと誉めそやしてきた。
「別に、見せるほど素晴らしいものでも無いんだがな……」
「はは、君が望まないのであれば、無理には頼まないよ。そうだね……宿はもう決まっているの?」
「いや、まだだ。今宿の情報を聞こうと冒険者ギルドに向かうところだったんだ」
「なるほど……じゃあ、僕から一件オススメの宿屋を紹介しようか」
「本当か? ……あ、いや、ちょっと待ってくれ……」
オススメの宿屋を聞けるのは渡りに船だが、もし彼らがそこに宿泊しているとなるとミレフィア女史に絡まれる可能性が高くなる。
オレがそんな心配をしているのを察したのかエルヴィンは苦笑しながら手を振った。
「ああ、安心してよ。僕らは今回は別の宿屋をとっているから、会うことは無いよ」
その言葉にほっと胸を撫で下ろす。
どうにもあのミレフィアという少女は苦手だ。純粋な羨望の眼差しを向けられると、いたたまれなくなる。
無論、それは凛やソフィア、リア、シエルらオレの知るやつら大抵に言えることなのであるが。彼女らのオレへの見当違いな過大評価は何なのだろうか。
エルヴィンは簡単に宿屋の場所を教えてくれた。
「宿屋の名前は、『黒猫の仮宿』ってところだよ。大きな看板がかかってるからすぐ分かると思う」
「悪いな、助かった」
「いやいや、これぐらいはさせてよ。なんたって、魔物の大群から助けてもらった恩に、お風呂を貸してもらった恩もあるからね」
少し冗談めかして言うのは彼なりの気遣いだろう。
このエルヴィンという青年、頭の回転が速いのかとても察しがいい。相手の機微を敏感に読み取り、常に言葉を選んでいるようだ。
「あ! もうこんな時間だ! まずい……ガリシアとミレフィアにどやされる……」
エルヴィンは顔を青ざめさせると、そのまま言葉少なに別れを告げて去っていった。
「いい人、でしたね」
始終オレの後ろに隠れていたソフィアがぼそりと呟く。
やはり彼女の目にも好印象に映っているようだ。
「そうだな。じゃあ、あいつの教えてくれた宿屋に行ってみるか」
ソフィアの言葉に曖昧な返事を返しつつ、オレらは舗装された道路を歩いていった。
「ここか? 『黒猫の仮宿』……」
一体どのような宿屋かと思いきや、存外外観はシックにまとまっている。木造の二階建ての建物で、そこそこの大きさもある。玄関先はキレイに掃除されており薄汚い印象も無い。
「入ってみる?」
「そうだな」
オレはソフィアの手を引いて、宿屋に足を踏み入れる。
「…………お、いらっしゃーい。お客さんかにゃ」
宿に踏み込んだ瞬間、オレは目の前に広がる光景に言葉を失う。
果てしない驚愕が、感情の大波となってオレの思考を飲み込んだ。
『黒猫の仮宿』。その名前に嘘偽りは全くなかった。
この世界には猫人族という種族が生息していることは知っていた。
それに、オレは既に猫人族に会っている。エルナもそうだったし、バレッタ王子もそうだ。
見た目は人間のそれに近いのだが、決定的に違っているところがある。
それが、頭に生えた可愛らしい猫耳と、長い尻尾だ。
その愛らしい姿は元の世界でもネコミミ属性やケモノっ子として幅広くニーズを集めてきた。実際に、この世界でも獣人は奴隷として人気が高い。それは言うまでもない常識だ。
…………ああ、この世界はこういう世界なんだよな。
そんな感動かどうかも分からない曖昧な感情に思わずむせ返りそうになる。
オレの目の前にはファンタジーの体現たる、頭についた猫耳をピョコピョコと動かしている――――
――――ガチムチのおっさんがいた!
「おっさんかよッ!!」
オレは床に倒れ伏し腕を叩きつけた。
だって! 猫耳って言ったら普通美少女だろ!? なんでガチムチ野郎の頭にちょこんと猫耳ついてるんだよ! 誰得だよそれ! だからこの世界は嫌いんなんだ!
そんなオレの計り知れない絶望が伝わっているのかどうかは知らないが、筋骨隆々のおっさんはそのハードボイルドな声を響かせて言った。
「にゃにゃ? どうした少年。腹でも痛いのかにゃ」
「あんた、その風貌で『にゃあにゃあ』言うの禁止ッ! 何があれって絵がやばい!」
「なっ! 失礼なやつだにゃ! これでも客の期待に応えようと恥ずかしさを隠して『にゃあにゃあ』言ってんだぞ!? あ! 言ってんだぞにゃ!」
「知らんがな!? 別に誰も期待してねぇよ!! なんでそれで期待に応えられてると思ったんだよ! しかも『ぞにゃ』って何だよ!?」
「し、知るか! お前ほんとに客か!? 初対面でいきなり何言ってやがんだ!」
「初対面でにゃあにゃあ言ってる愉快なおっさんがいたらそりゃ驚くだろうが!?」
オレと猫耳のおっさんがぎゃーぎゃーとわめく、よく分からない展開が繰り広げられていると、
「やめなさい」
と、冷たい声がオレたちを諌めた。
「……あなた! お客さんに怒鳴ったらダメでしょう!?」
「……あ、アーニャ! しかし、この坊主が……」
「だってもさってもありません! 全く……」
顔を上げて見れば、オレより遥かに小さい女の子がオレよりはるかにでかいネコミミのおっさんを叱り付けている。
だがオレもそんなことに気をとられてる場合ではなかったらしく。
「ゆーくん! 流石に失礼だよ」
「いや、凛! だって、あのおっさんが……」
「めっ!」
オレとおっさんが叱られてしゅんとなる。
この瞬間、さっきまでいがみ合っていたおっさんと不思議な連帯感が生まれたのにお互いが気付いた。えー、でもこのおっさんとのシンパシーは生まれて欲しくないなぁ。
腐っても失礼なことを考えつつ、一応は申し訳なさが芽生えてくる。
確かに、先ほどのオレは冷静さを欠いていた。いや、だって、ねぇ……
「……ええっと、そのすみません。オレ、テンパっちゃって」
謝る間もチラチラと視線はおっさんの頭上で動くネコミミに行く。
「いや……こちらこそ、怒鳴ってすまん。その、俺のしゃべり方が不快だったんだよな?」
「不快というか、ええまあ、精神衛生上もうやらないでいただけると……」
お互いにしどろもどろに受け答えをする。
そんな様子を見ていた、小さな女の子がオレらのほうを見て笑う。
「ごめんなさいね、うちの主人が……」
片目を閉じながら謝るそのさまは、小学生と言われても全然通用するほどの幼女。薄い緑色の髪を腰あたりまで伸ばし、健康的な肌色を肩口からのぞかせている。特有の猫目を細めて笑っている。
…………うん? 主人?
この場で相応しくないはずの単語を聞いて恐れおののく。
手が震え、驚愕に頬がこわばる。
「ええっと……あの、その、お、お二人のご関係は……」
オレは冷や汗を垂らしながら、唾を飲み込む。
ゴクリ、と自分の喉が鳴る音がやけに大きく聞こえた。
「ああ、自己紹介が遅れてしまいましたね」
そう言うと、ふふっと幼女は無邪気に笑った。
「……わたしは、アーニャ・ソルム。この人…………ブラウン・ソルムの、妻です」
「…………………………………………は?」
完全に思考がパーフェクトフリーズする。
完全とパーフェクトって意味かぶってるじゃんとか気にしてる余裕が無くなるほどには思考が、え?ふぁい? しぐま? がんま? え、何。妻? ツマ? ああ、刺身のあれについてるやつねオレ知ってる。ユウト知ってる。ダメだ脳が混乱してきた。いや、既に混乱してる。
だが、すぐにオレは平静を取り戻す。こちらに来てから、冷静さを欠かなくなってきた。これも神から与えられた加護ってやつなんだろうか。
神様ありがとう。今このときだけはあんたに感謝する。
……ああ、冷静になって分かった。とりあえず、オレのしなければならないことがある。
脳のもやが晴れ、思考がクリアになっていく。
そうだよな。何を迷ってたんだオレは。別に、何もおかしくないじゃないか。
そう納得して、オレは笑顔で息を吸い込んだ。
「憲兵さあああああん!! 犯罪者が! 幼女を拐かす犯罪者がここに!!」
「やめろ坊主!? 別に俺はこいつを攫ったわけでもなんでもねえよ!!」
再びぎゃーぎゃーと騒ぎ始めた男連中を、女性陣が力ずくで黙らせたのは言うまでもない。
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正座するオレをソフィアが憐憫の表情で見つめる。心配そうに尻尾を振って、遠くから見守っている。
そしてオレの隣にはネコミミのおっさん、もとい『黒猫の宿屋』の主人、ブラウン・ソルム氏がこちらもまた正座していらっしゃる。
目の前には二人の少女。いや、正確には一人の少女と一人の女性だろうか。
前者は織村凛。オレの同伴者であり、魔法の弟子だ。
後者はアーニャ・ソルム。おっさんの伴侶。
うーん……何かおかしいんだよなぁ……絶対に何かがおかしいんだよな……
だが、凛はオレを叱り、アーニャさんはおっさんを叱り付けている。
いや、だって普通におっさんが幼女を奥さんにしてたら通報するじゃない。
とか何とか弁明を言い募っていたら、アーニャさんが衝撃的な事実をのたまう。
「あらあら。私、これでもこの人より年上なのよ?」
「マジで!? ……あ、いや、本当ですか!?」
うふふふ、とまんざらでも無さそうにアーニャさんが微笑む。
「アーニャは、猫人族の中でも特殊な種族だからな。身体年齢の進みが実年齢より遅いんだよ」
おっさんが補足説明するが、オレはそれを口をあけて聞いているしか出来なかった。
しゅ、種族の神秘だなぁ……
オレが思考を放棄して呆けていると、
「とにかく! ゆーくん! ホントに失礼だよ!? どうしたの! さっき王城にいたときはびっくりするぐらい行儀良かったのに……」
がっかりする凛にオレはもう頭を下げるしかない。
おっさんの頭にネコミミがついてて口調があざとくて、さらに幼女にしか見えない妻を持っているとか、オレの精神的なキャパシティを超えてたんだよ……こんなん耐えられないだろ……
オレがこの宿を薦めたエルヴィンに八つ当たりまがいの恨みを送っていると、ソフィアが急に正座するオレと凛の間に立ちはだかった。
「な、何だ?」
場の全員がその行動を理解できずに首をかしげていると、ソフィアは震えながら、凛に向かって言った。
「あ、あの……これ以上、お兄さんを、怒らないであげてください……」
震える声ながらも、必死にオレを守ろうとするその姿勢は勇敢な行為だ。
凛が目を丸くし、驚きをあらわにする。
今にも震えて崩れ落ちてしまいそうな自分の足を必死に押さえつけながら、それでもオレの前にいてオレを守っている。
そんな彼女の様子を見ていられなくなったオレが、「そうだそうだー横暴だぞー」と、適当な野次でお茶を濁そうとすると、凛はため息をついた。
「まあ、ゆーくんも動揺して仕方なかったんだろうけどさ……」
そう呟いてチラリとおっさんのほうを見る。
いや、お前も相当失礼だからな?
最後に二人して謝罪を口にしてようやく場は収まる。
「ありがとう」とソフィアの頭をなでてやるとソフィアはぎこちなく頷いた。
おっさんが咳払いをする。
「改めて聞くが……お客さんか?」
おっさんの口調は普通に戻ったようだ、良かった。
オレの波立った心境も、凪のような穏やかさを取り戻しつつある。
「ああ、そうだ。エルヴィン・カーマインって冒険者に紹介されてね」
「おお! エルヴィンの奴の紹介か! そうなら早く言ってくれ」
「いや、言える状況じゃ無かったし……」
げんなりとした表情を浮べるオレにアーニャさんと凛が苦笑を漏らした。
「エルヴィン君は前にうちに泊まってくれてね。そのときに色々と頼みごとを引き受けてくれたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。いい子だったわぁ」
昔を懐かしんでいるのかぼんやりと彼方を見つめるアーニャさんにおっさんが複雑な表情を浮べる。
「年甲斐も無く嫉妬か?」
オレの茶々におっさんは相好を全く崩すことなく言った。
「なっ……!? ば、ばばばば! ちちちげーよ!」
分かりやすっ!?
表情は固定できても声の震えまでは隠せないようだ。
「……とりあえず、5泊分ぐらいとっておいてくれ。延長は出来るか?」
「ああ、エルヴィンの紹介なんだ。いくらでも泊まっていってくれ。値段もサービスするぜ」
「そりゃありがたい」
思わぬ厚意に感謝を述べる。
「それで、どうする?あいにく三人部屋が無くてな。二人部屋か四人部屋になっちまうんだが……」
四人部屋だと一泊二食付きで銅貨14枚。二人部屋よりも少し高いがまあ、金は十分にある。ケチる必要は無いだろう。
前払いで五泊分を支払い、部屋の鍵をもらう。
「二階の部屋だ。大浴場は日が暮れてから明けるまでの間は開放してある。自由に使ってくれ」
「大浴場があるのか」
「まあな。うちの自慢だぜ」
チャリン、と手の中で鍵が鳴る。
なるほど。エルヴィンのオススメした理由はこういうことか。
1人得心しながらも、オレは二人を連れて部屋へと向かった。
階段を上った先の廊下をやや進んだ中ごろに部屋はあった。
「わぁ、広いね! わーい!」
子供じみた歓声を上げながら凛がベッドに飛び込む。
ソフィアは、四つもベッドがある部屋の広さにおろおろして、あたりを見渡している。
何だかんだ言って、ソフィアとしっかり宿に泊まるのは初めてだ。
最初に彼女と出会った夜は、宿の内装など気にしていられる精神状態では無かっただろうし、彼女を解放してからはすぐにレグザスを発った。それから一週間はずっと野宿だ。彼女も文句は言わなかったがもしかしたら内心でストレスは溜まっていたかも知れない。なんといっても彼女も年頃の女の子なのだから。
「もしここに…………いや。やめよう」
頭をふと過ぎるのは1人の赤毛の少女の無垢な笑顔。
エルナがこの四人用の部屋を見ればどう思うだろうか。
もし彼女がまだ生きていれば四人用の部屋でベッドが余ることも無かった。
だが彼女の笑顔は二度と戻ることはなく、今はオレの『持ち物』の中で眠っている。
憂いと迷いを払うようにして、俺はソフィアに笑いかけた。
「ソフィアも飛びこんでみたらどうだ?」
冗談交じりの提案にソフィアは目を丸くした。
「い、いえ、私は……」
そんなことをして許されるはずがない、という奴隷時代に弱者として染み付いた思考が彼女をためらわせる。だが、今はそんなことを気にしなければいけない相手もいない。
だから安心させるために彼女を抱きかかえた。
「え、ちょ、ちょっと!? お、お兄さん?」
不安げに体を震わせるソフィアにオレはさらに口元をゆがめた。
何をされるのか不安と、いくばくかの恐怖だろう。
「それっ」
オレは震える彼女をそのままベッドに放り込む。
オレのすずめの涙ほどの膂力パラメータでも彼女を持ち上げて投げるぐらいは出来るようだ。
ソフィアは中々どうして運動神経がいいらしく、ベッドの上で上手く受身をとると、ぽかんと口を開けてこちらに目を向けた。
その視線は何をしたのかと問うている。
「あのさ、ソフィア。別に……不安になるな、とは言わない」
ソフィアは口を噤む。
凛も枕を抱きかかえながらじっと耳を傾ける。
「怖がるなとも、言えない。オレは、お前が背負ってしまったものをどうすることも出来ないし、どうにかしようとも思わない」
それはオレ自身にも言えることだ。
オレ自身が背負ってしまったものは――――胸に刺さる楔は、どうにも出来ない。
オレ以外の誰にも。
そう、オレ以外の誰にもだ。
「けどな、少しぐらいは気を抜いてもいいんじゃないか?」
ソフィアが息を呑む。そして不安げに睫毛を揺らす。
彼女の狐耳が先ほどからせわしなく動いている。
「ここにはオレもいる。それにまあ一応凛だっている。そしてお前のそばにいるのは、他でもないオレと、凛だ」
回りくどい言い方だ。
だが、その言葉は何よりもオレの伝えたいことを率直に、実直に、誠実に言い表している。
「それだけは、分かって欲しい」
オレの真摯な訴えに、ソフィアはどうするべきか困惑する。
向けられた思いに、迷い、惑う。
「……そーだよ、ソフィアちゃん。ゆーくんはこんな風に小難しく言ってるけど……よーするに、わたしたちのことを、もっと信用してもいいんだよ、ってこと」
そう言ってソフィアの下に近づき、彼女の頭をなでる。
今まで、ソフィアを連れていて、幾度と無くこうした場面はあった。
彼女は自分の行動が何かオレらの顰蹙を買うのではないかと常に怯え、不安に思い、身を竦ませていた。常に自分に対して悪感情が向かないように立ち回っていた節がある。先ほど、叱られるオレを庇ったのもその一環だろう。
けれどもオレは凛にも言い含めて、そのことに何も触れないように伝えた。彼女と関係を築いて間もないオレらがいくら言葉を尽くそうとも、その言葉は酷く空虚に響くだけだからだ。
だからオレたちはソフィアと核心に迫ることなく一週間を過ごした。
その中で恐らく彼女はオレたちを感じとったはずだ。
オレらの人となり。性格、好み、考え方……一週間常に一緒にいた時間は伊達ではない。
それが、その時間が、彼女に言葉を届けるための鍵となる。
がんじがらめに鎖と錠で守られた、堅固な彼女の心に届かせる、鍵に。
……彼女がそれでもなお拒むのであればそれも構わない。それは彼女の選択であり、その選択をオレが非難することも、否定することも断じて許されるべきではない。
ただ、オレとしては彼女に対してできる限りのことをしなければならない。
それが友人を遺して眠りに付いたエルナへの、弔いになると信じて。
そして、それこそがオレの受けるべき責務の一つであると疑わず。
彼女の答えを待つ。
逡巡は顔に、仕草に、耳に、尻尾に現われている。
内心で様々な感情が渦巻いている。
期待、不安、希望、恐怖、安堵、緊張……
その全てがないまぜになったかのような、名前を付けられない感情に彼女は初めて悩まされている。
奴隷のときとは違う。
奴隷になる前とも違う。
そんな環境に身を置き、彼女は何を思うのか。
その答えは、次の彼女の一言に凝縮されるだろう。
静寂が場を支配し、ソフィアの不安げな息遣いが何故だか焦燥を煽る。
長い沈黙と迷いの末に、彼女はついぞ結論を出す。
その目は未だ迷っている。
けれども何かを確かめようと足掻いている。
不安げに、迷子の子供のように。
ソフィアは、声を絞り出した。
「……いいん、ですか?」
許可を問う。その言葉は既に答えになっているようなものだったが、オレはあえてその答えに不正解を突きつける。
「お前が言うべきは、許しを請う言葉じゃない」
ソフィアが息を呑む。
凛の目が不安げにオレとソフィアの間を揺れる。
ポロ、とソフィアの頬を雫がつたった。
「わた、私は……怖かったんです……」
懺悔のように語りだす。
「奴隷にされてっ……売り払われそうになってっ! 色々な人に殴られてっ、蹴られてっ、酷いこと言われてっ……」
ソフィアらしからぬ激しい言葉の響きに、オレも凛も黙って彼女の告白を見守る。
「どうしようもなく怖かったっ!! もうどうにかなりそうで!! エルナちゃんがいたから頑張れたのに!それなの、にッ!!」
ボロボロと、堰を切ったようにして熱いしずくが零れ落ちる。
それは彼女がこれまで溜めてきた全ての感情、よどみだ。
エルナの死からもすぐに立ち直り、オレたちに気を遣い続けてきたこの一週間。彼女の心はいくら磨り減って、どれだけ自らを殺し続けたのだろう。
泣き叫びたい。けれども、拾ってくれたこの人たちに見捨てられたら行く場所も無い。
「お兄さんと、リンさんがッ! エルナちゃんみたいに私を置いてどこかに行っちゃうんじゃないかってっ……!! ま、また!奴隷に戻されるんじゃないかって!」
だから、精一杯気遣って。
だから、精一杯気を張って。
だから、だから――――
彼女のこの一週間は、とても気の休まるようなものではなく、ただただ漠然とした恐怖に突き動かされただけの日々だったのだ。
「……お兄さんたちが、怖かった……優しくて、すごくいい人たちで、強くて、かっこよくて……だから、怖かったんです……」
二律背反のような文言。
だが、オレたちの人となりが分かってきたからこその恐怖だったのだろう。
オレたちの優しさは彼女を呪縛のように締め付けたのかもしれない。
「……今もまだ、怖いか?」
口を噤むソフィアにオレは目を瞑る。
「ソフィア、オレはお前の苦しみや恐怖や不安を理解することも、共感することもしてやれない。それは、お前にしか持ち得ないものだからだ」
その物言いに凛が絶句し、ソフィアも真っ赤になった目を丸くする。
「けどな、一緒にいてやることぐらいはできる。お前を望む場所に連れて行くことぐらいはできる。お前が悲しいと、さびしいとそう叫ぶとき、お前の側で頭をなでてやることぐらいはできる」
平凡に語られる声の響きは、自分で聞いても軽々しく聞こえる。
傲慢だ。
偽善だ。
欺瞞だ。
だが、それの何が悪い。
何も見ない、それでいて何もかもを救いたいと願うオレの根本が既に傲慢で、欺瞞なのだ。
ならば、オレの行動に何らおかしなところは無い。
全てを掬うのだろう?
抱えた腕の中から、何も零さないと決めたのだろう?
なら、これでいい。
「……お前は、どうしたい?」
最後の問いかけ。
ヒントは出した。後は、彼女が答えるだけだ。
再びソフィアの目元から思いの奔流が流れる。
嗚咽交じりに、言葉にならないうめき声を上げる。
だが、不思議と彼女の言葉はすんなりとオレの耳に届いた。
「……信じたい、です」
確かに、意思をこめて告げられた答え。
「お兄さんと、リンさんを……信じたいですっ……」
その答えを聞いてオレは口の端を吊り上げる。
「……ま、こんな頼りないヘタレと、ちんちくりんでよければ、……いくらでも信じてくれや」
「ちょ、ちんちくりんって酷くない!?」
怒ったような口調だが、凛も安堵に頬を緩めている。
そんなオレと凛のやりとりを聞いたソフィアが泣き腫らしたぐちゃぐちゃの顔で、
「お二人は、ホントに、仲がいいですね。……見てるこっちが胸焼けしそうです」
と、ためらいがちに毒づいて、初めて、本当の意味で笑ったのだった。




