216、魔女は独り雪下に咽び、英雄は――――
街から走って逃げ出すこと10分ほど。冷気のせいで肺が痛くなってきた。それに指先もかじかむし、視界も霞む。大量の出血に加えて魔力消費が多すぎるせいだ。さっさと治療しないと右腕も死ぬ。
「よし、転移魔方陣だ!」
ようやくたどり着いた転移魔方陣に魔力を注ぎ込む。
上手くいくと分かっていても、光り出した魔方陣を見てほっと息をついた。
「全員入れ!」
「ゆ、ゆーくんは!?」
「しんがりだ! ほら、急げ!!」
全員を転移魔方陣に押し込むと、一瞬だけ強く光りそして姿が消える。
オレも入ろうと片足を上げた瞬間、黒い影が視界の端にちらついた。
「――――あら、随分と大所帯ですこと」
『世界樹の智慧』から情報を得たオレだけは分かっていた。今回の騒動でずっと沈黙を貫いていた、アイリーン・ブラックスノウが、ここで待ち伏せしていたことを。
茂みの奥の岩陰、一面白の世界の中、その女は黒い染みのようにぽつりと座っていた。
「――――止めなくて良かったのか? 災媛の魔女」
そろそろノルマンドの拘束も解け、魔王も意識を取り戻すだろう。それにザントが戻ってくる。
だから、オレもさっさと転移魔方陣に乗って帰還しなければならない。目の前でオレを待ちぼうけるようにして魔方陣が光り続けている。
「まさか、本当にアルティ・フレンを助けてしまうなんて……驚きですこと」
だが、その顔は少しも驚いているようには見えない。
「アルティったら。あんなに傷ついて……よく頑張ってくれましたね。ふふ、あの子が勇者様と内通していると密告した甲斐があったというものです」
そう。今回のアルティの処刑は、アイリーンがノルマンドに密告したところから始まっている。『世界樹の智慧』で見たが、アイリーンは平然とした様子でアルティを売り渡していた。
「……アイリーン。お前、アルティがお前のことを慕ってたの、分かってただろ」
「ふふ、ええ。可愛い、妹のようでしたよ。ですから、大変に面白い観劇と相成りました。良かったではありませんか」
「……外道が」
この場にいた人間たちは、アイリーンとの因縁が多すぎる。
オレも、リアも、レイラも、アルティも、フォンズも、メフティスも、そして、凛もだ。
かつてダンジョンの地下で筆頭勇者たちを襲った魔族。あいつを送り込んだのもアイリーンに他ならない。
アルティを売ったのは、ひとえにオレをおびき寄せるため。メフティスを逃がしたのもオレをここに連れてこさせるためだ。
結果として彼女の思った通りに事が進んでしまったことに、舌打ちを漏らす。
「アイリーン・ブラックスノウ。お前はかつて、オレの記憶を覗き見たな」
「ええ、大変に興味深いものでございました」
「オレも、お前の過去を全て見た」
ぴくり、と初めてアイリーンの眉が動いた。
それまで能面のように表情の変わらなかったアイリーンの表情が少しだけ崩れ、スゥ、と薄く瞼が開く。
「……それはそれは。何とまあ、お互いのすべてを知り合い、相思相愛、というものでしょうか」
「いいや。オレは、お前の全て見た。そのうえで、オレはお前を欠片も理解できないし、理解しない」
「…………」
アイリーンの冷たい目が、どこか熱っぽくこちらを見ている。
「…………今のお前、本体だろ」
「あら、あら。ふふ。はったり……というわけでも無さそうですねぇ?」
『世界樹の智慧』は、今眼前に座る女こそがアイリーン・ブラックスノウそのものであることを知らせていた。薄く開かれた目に長い黒髪。白磁のように透き通る肌を黒いローブで隠した、美しい肢体の女性。
「ここにはオレとお前しかいない。最期ぐらい、解いたらどうだ。その見栄を」
「っ…………」
そして、オレは識っている。
それが彼女が闇魔法によって見せている、幻覚に過ぎないのだということを。
彼女の本当の姿は――――
「驚きました。まさかそこまで顕わになっているなんて……さすがは賢者の権能の持ち主、といったところでしょうか」
そう諦めたように呟くアイリーンの姿が、徐々にぼやけていく。
輪郭が崩れ、萎んでいく。
そうして一度だけ瞬きをしたあと。
目の前に、凛ほどの背丈もない小さな女が現れた。
女は背丈も低く、髪もボサボサ。肌も赤く荒れ果てており、ところどころにしわが刻まれている。目元には隈が浮かび、落ち窪んだ目がこちらを窺っていた。
「あまり、お見せしたくなかったのですが」
「言っただろ、オレは全部を見たって……だから、お前が何をなしたかったのかも、知っている」
オレはざく、ざくと雪を踏みしめながらアイリーンとの距離を詰める。
「……終わりだ、アイリーン」
『持ち物』から直剣ハクアを取り出した。
普通なら魔法で遠距離から殴るべきだろう。
だが、オレは確信を得ていた。こいつに、オレに害為す理由はもう何もないのだと。
「ああ、なんということ。勇者様、貴方はようやくここまで来てくださったのですね」
「バカを言うな。お前みたいな狂人に会いに来たわけじゃない」
そう言って、彼女の右手を切り落とす。
「っあ…………!」
彼女の顔が喜色に染まる。
気味が悪い。
「これはメフティスの分だ。それに、」
そう言って彼女の左目を潰す。
「これは、アルティの分。これは、レイラ。ウォシェ。セーニャ。ライセン、そして――――」
そう言いながら彼女の身体を切っていく。
そのたびに、アイリーンが嬌声を上げる。
くだらない。
こんなことの、こんなことのために、あいつら死ななければならなかったのか。
こんな奴の、ために。
「お前のせいでたくさんの命が失われた」
そう吐き捨てる。
「お前のせいで多くの悲しみが生まれた」
そう突き付ける。
「お前なんかの……ために」
ぎり、と奥歯を噛む。
オレは知ってしまった。
彼女の行動原理を。
だが、理解はできない。理解などできるはずもない。理解していいものなはずがない。
誰だろうと、彼女を理解していけない。
「はぁ、はぁ…………あぁ、あぁ、勇者様。そちらに、そちらにおわしますね……?」
両目を失い、右腕、左手、左足、右耳も失っている。体中には多くの切り傷。だが、それでもアイリーンは、しぶとく死なずにいた。
「お前の…………」
剣を握る掌から血がしたたり落ちる。
「お前の、破滅願望に……!!」
それを吐くことが、この目の前の女にとっては悦びしか与えたいと分かっていても、そう叫ぶしかなかった。
「オレたちを、付き合わせるなッ……!!!」
奴の行動原理はいたってシンプル。
破滅願望。
とびきりの、希死念慮。
それも最低最悪に歪み切った、強欲そのものとしか言えない死を望んでいる。
「英雄に、殺されたいだと……? ふざけるのも大概にしろッ!! 人を勝手に英雄に祀り上げてッ……!! 多くの犠牲を踏みつけさせて、その上でお前を殺させるだって!?」
「ま、あ……勇者様……本当にすべてを……」
「死にたきゃ独りで死に晒せッ……!! お前の壮大な自殺にッ……!! オレたちを、巻き込むんじゃねぇ……!!」
英雄に殺される。
それがこの女の望み。
だから回りくどい手を使って、多くの屍を築いて、オレを英雄に仕立て上げようした。
目を付けたのはダンジョンの底でオレが魔族を撃退したとき。あのときから既に、アイリーンの計画は始まっていた。
「…………ですが、大願は既に、目の前にありましょう」
アイリーンは既に失われた視界で空を見仰ぐ。
「終わりに、してください。私の、英雄――――」
彼女はそう呟いて体を差し出す。
アイリーンの言葉に、オレは背筋が粟立つのを感じた。
狂っている。
どこまでも正常に、理性的に、狂い果てている。
「――――ああ、そうだな。終わりにしよう」
だからオレは宣言する。
「…………なあ」
「?」
「……魔族でも、多くのダメージを受け過ぎたら、そのまま体の組織が機能不全起こして死ぬよな」
オレの言葉に一瞬だけ疑問符を浮かべていたアイリーンはすぐに気色ばんだ。
「ええ、ええ。その通りでございます。ですが、ご安心を、このアイリーン・ブラックスノウ、決して貴方様に殺されるまで、死にはしませんとも! ですから、どうかその剣で最期の――――うぐっ!?」
アイリーンを蹴飛ばして転がす。
随分と軽くなってしまった彼女の身体は、ボロ雑巾のように雪上を転がった。白かった雪が青黒い血でべったりと塗りつぶされる。
「勇者様……? 十一、優斗様…………?」
「……お前のトドメは刺さない」
オレの言葉に、アイリーンの喉が「ひっ」となった。
それはオレが知る限り、初めて彼女が見せた純粋な感情。
恐怖。
それは、恐怖だ。
だが、そんな彼女の反応を引き出せても、欠片も心は晴れなかった。
「お、お待ちくださいっ! 私を、貴方様は殺さねばなりません!! 邪知暴虐の限りを尽くした魔女を……! 討滅するのが、貴方様の――――英雄の、為すべきことだと!!」
「…………お前の自殺に、オレを付き合わせるな」
アイリーンの喉がひゅうひゅうと鳴る。
「お前が望む死は、絶対に与えない。せいぜい、ここで凍えて死ぬか、魔獣の餌にでもなってろ」
ひゅう、と『持ち物』から取り出した笛を吹く。
それはアルティからもらったもの。
周囲の魔獣を呼び寄せるという代物。
すぐに数多くの気配が集まってくるのを感じる。
「お前の魔力も奪っておいた。抵抗できるならしてみろ。絶望に、恐怖に、苦痛に。顔を歪めて、悲鳴を上げて、無力を噛みしめろ。お前に踏みつけられた多くの命も、そうだったのだから」
息を吐く。
「独りで逝け。魔族の女。――――お前の名すら、もう、呼びはしない」
絶望の渦中で醜く足掻く魔族の女に、吐き捨てる。
「ああ、ああ、勇者様ァァァァアッ――――」
女の断末魔を最後まで聞くことさえせずに、オレは転移魔方陣に倒れるように飛び込んだ。
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「……みんな、無事か」
視界の中、満身創痍の彼らがオレの顔を見ている。
オレは足元の転移魔方陣をかき消すと、安心させるように、歪な笑顔を作った。
「ゆーくん!!!!」
飛び込んでくる凛を何とか抱き留めると、続いてリアやレイラも飛びついてくる。
「うお!!? 待て、もげる、辛うじてくっついた右腕が……!!」
何とか右腕を庇っていると、「くっくっく」と喉で笑う声が鼓膜を叩いた。
「笑ってねぇで助けろ、フォンズ」
「困っている者がいれば助けるのだがね。君を見ても、そうには見えない」
フォンズはそう言って笑う。
三人を何とか引きはがすと、メフティスに支えられたアルティが足を引きずってこちらに歩み寄ってくる。体中が傷だらけで、片目にいたっては抉り抜かれている。
「アルティ。さっさと魔法都市に行くぞ。そこならある程度治療もできる。オレの回復魔法も多少はかけられると思うが限界が――――」
「ありがとう、優斗」
「っ…………」
真正面からのアルティの言葉に、オレは思わず言葉に詰まる。
アルティは小さく八重歯を見せて笑うと、もう一度こちらを真っすぐに見た。
「ありがとう」
「…………友達、だからな」
小さく呟いたオレを見て、フォンズが肩を竦めた。
そこから逃れるように、重い体を引きずって魔法都市に繋がる転移魔方陣を起動する。
「リスチェリカよりあっちの方が医療設備が整ってる。魔族も治療してもらえるだろうし、さっさと――――」
ばき、と何かが割れる音がした。
きーん、と甲高い音が鼓膜を揺らしている。
否、揺れているのは鼓膜だけではない。
視覚が、聴覚が、感覚が、遠のいていく。
ああ、割れたのは、オレの意識か――――――――
誰かが、遠くで、何かを、叫んでいるような気がした。
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真っ白な雪の上。
黒い、黒い、血が、すぅ、と一面の白に染み渡っていく。
ばりぼり。ばりぼり。ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃ。
何かの咀嚼音がもう既にほとんど機能していない耳を叩く。
それが自らの肉体が魔獣に食い尽くされている音であることを、魔女はもう理解できていなかった。
人の形はもうない。
ただただ、魂と呼ぶべき思考の揺らぎがそこにあるだけ。
くだらない人生だった。
つまらない人生だった。
どうしようもない人生だった。
でも、最後に本物の英雄に相まみえた僥倖だけで、私の人生は贖われましょう。
魔女には似合いの終幕。
ここからは、観客席から見守るとしましょう。
貴方様の、英雄譚を。
とさり、と魔女のローブから何かが雪にこぼれ出る。
地に塗れ黒ずんだそれは、皮表紙を誂えた一冊の本。
そこに記されているのは魔女のこれまでの人生の全て。
日記や自伝と呼ぶことですら不正確。それは、彼女の人生そのもの。
地に汚れた表紙だが、辛うじてその表題を読み取れる。
表題は、『パンドラ』。
魔女――――否、かつて魔女だった女の亡骸の脇で、その本が淡く光り出す。
刹那のうち、まるで吹雪に掻き消えるように本がその場から消えた。
そして、雪上にはわずかばかりの骨肉と、無惨に食い破られた布切れだけが残る。
弔いの言葉すらなく。
ただ、咀嚼音だけが一面の雪に吸い込まれていた。
4章、完結です。
3章が非常に長かったんですが、4章はかなり短くなりました。4章は最初から目標がはっきり決まっていてそこに向けて最短距離を疾走したかったので、こういう構成になりました。
5章も現在執筆中なので、引き続きよろしくお願いします。




