212、処刑前夜
ぽた、ぽた、ぽた、と。
かつて雪だったのであろう冷たい雫が、黒い床に定期的に打ち付けられる。
水滴に過ぎないのに、何千、何万と繰り返されたその営みによって石造りの床に小さなくぼみが出来上がっている。
これもまた小さき者たちの成し遂げる偉業だろうか。
そんな風に柄にもなく感傷的なことを考えてしまうのは、自分の死期が近づいているからだろうか。
「っ…………」
凍えるような隙間風が体中の生傷を舐る。
身体を丸めて暖を取りたくとも、体中に雁字搦めにされた鎖のせいで身じろぎも許されない。鎖は魔族用に誂えられた特注品。何でも結界魔法を付与してあるとかで、魔力は吸われるし、回復は阻害されるし、権能も封じられる。
指先の感覚ももうほとんど消えていた。
「……いよいよ正念場かな」
アルティ・フレンは、冷たい独房で一人そう呟いた。
迂闊だったと言えばそうなのだろう。あれだけ勇者たちとの間で大立ち回りを演じて、その情報は魔族側に伝わらないはずがない。優斗との契約がノルマンドに知られたことが何よりの想定外だった。
もちろん、アタシだってバカじゃない。仮にバレたとしても、それに対する理論武装はあった。
けれど、アタシはその理論を振りかざす間もなく制圧されてしまった。
よりにもよって、ザントの奴がいる場所で糾弾しなくてもいいじゃんか。そんなの、アタシに勝ち目ないってば。
そんな文句を何度頭の中で反芻したことか。
まあ、上半身と下半身が生き別れにならなかっただけまだ僥倖だったのかもしれないけど。
どこから情報が漏れたのかも定かではない。急にノルマンドに呼び出されて、アタシと優斗との内通を暴いたことを自慢げに語り始めたのだ。正直、あの城に籠ってばかりの親父がこんなに早く情報を集められるとは思えない。恐らくはどこかから密告が入った。
一番疑わしいのはフォンズ・ヘルブロウだ。あの飄飄とした男なら、アタシのことを売りかねない。
……と、フォンズのことをよく知らない頃のアタシであればそう考えていただろう。
けれど、あの男は知れば知るほど軍人気質からは遠い根暗だし、優斗と似て最後の最後でどうしようもないお人よしだ。癪ではあるけど、アタシを売るとは考えにくい。
そもそもフォンズには奴隷契約もある。優斗に内通がバレないようにしろという命令が下されていたし、密告なんてできないはずだ。
だから、しょーじきなところ、アタシは誰がアタシを売ったのか分からない。
犯人が分かったらそいつの首を噛み千切ってやりたいぐらいだけど。
「……まあ、どうせ、死ぬしね」
運よくこのまま衰弱死を免れても、待っているのは死刑だろう。
どういった殺され方をされるのかは分からないけど、もし死ぬのであれば魔獣の餌にでもしてもらいたい。この世界は弱肉強食。強者に食い殺されるっていうんなら、アタシはアタシの死に少しぐらいは納得できる。
「あは。ガリバルディのおっさんのこと、笑えないってば」
死に方を選びたがったガリバルディのおっさんも、死に際に似たようなことを考えていたのだろうか。いや、あのおっさんは考えるっていうよりは、感じていたの方が正しいかも。
自分が死ぬなんて考えてもみなかった。
可能性としてはいつも自分のすぐそばにあったはずだ。そして、死ぬかもしれないなと思うことも何度かあった。けれども、本当の意味で自分が死ぬということをよく理解していなかった気がする。
どこかで、自分は強者で狩る側であるという傲慢があったのかもしれない。
鎖の上を小さな羽虫が歩いているのが見えた。おぼつかない足取りにも見えるけど、この寒く厳しい世界でも、こんな弱者は懸命に生きている。
「…………弱肉強食、ね」
目の前を這うこの小さな弱者が生き延び、強者であるはずの自分が死を待つばかりの現実に対する不満。けれどもそれはお門違い。きっとアタシもまた弱者だったのだろう。
いや、いいや。本当は分かっている。
かつて、アタシの世界は本当に単純だった。弱肉強食という明快な原理を中心にしてぐるぐると回っていた。
でも、ある日からそれは変わった。
メフティスに会って。友達が出来て。自分以外の、大切なものが、できて。
この世界は決して弱肉強食なんていうシンプルな理屈で回っていなかった。
でも、それを認めると弱くなりそうで、認められなかった。きっと、アタシが弱くなってしまったら、大切なものも守れなくなってしまうから。
「弱いなぁ……」
自分の弱さを文字通りに痛感する。
メフィは、逃げられただろうか。
詳しくは分からないけど、どうやらメフィが逃げ出したらしいことをアイリーン姉さんから聞いた。アイリーン姉さんが手を貸してくれたらしい。
きっと逃げ出せただろう。そう、信じよう。
疑うのは疲れるからね。
でも、アタシがいなくなったらメフィは大丈夫だろうか。
魔力欠乏症のために優斗と契約して、大量の魔力をもらっていたけれど、それが無くなったらメフィは――――
ううん、きっと大丈夫だ。メフィはアタシより賢いから、もしかしたら優斗を直接訪ねているかもしれない。そして、きっと優斗ならメフィを助けてくれる。
なんてったって、アタシの知る最高のお人よしだから。
優斗への取引は絶対に断られると思っていた。けれど、彼は好条件で取引を呑んでくれた。絶対服従なんて強い言葉を使っているけれども、優斗にその気がなければあの条項はあってないようなものだ。
優斗の目は基本的には淀んで何かを探るように不安そうだけれども、たまにとても優しい目をすることがある。そんな彼の目が、ムカつくのだ。嫌いじゃないけど。
メフィと優斗が楽しそうに話している光景が、一瞬だけ頭に浮かぶ。
散々多くの命を奪い、自由を謳歌してきた。
そんな自分が希うなど、浅ましいことこの上ない。
そもそも、神なんて信じていないし、祈る暇があれば自分の力で成し遂げてきた。
でも、もし願うことが、今だけが許されるなら。
「そこに、アタシもいたかったな……」
ぽた、ぽた、と水滴が規則的に床を穿つ。
その中に、不規則な雫の音が、ほんのわずかに混じっていた。




