192、悔恨と漸進
「っはぁ…………」
大浴場に浸かり、思わず大きなため息が漏れる。
ああ、ダメだ。魂が抜けていく気がする。
フォルトナの提案を最初はどう断ろうか考えていたが、彼女の口車に乗せられ、結局なすがままに受け入れてしまった。
それにしても先ほど振舞われた食事は美味だった。基本的に味付けが薄めのこの世界において、まさかあそこまで現代人の舌に会う料理に巡り合えるとは。
明らかに異世界人の好みに合わせていた。恐らく、勇者たち滞在の折に色々と聞いたのだろう。前回の滞在時よりもブラッシュアップされている。
本当にフォルトナに限らず学園の生徒全員が抜け目のない。
まあ、おかげで美味い飯にありつけたのだから、感謝はすれど恨むこともあるまい。
「…………この大浴場も貸し切りってんだから、ありがたい。日本人の心を鷲掴み過ぎて怖いぐらいだな」
流石にこの大浴場には異世界人の智慧が入ってそうだが。
現代日本からここに飛ばされてきたのはオレたちだけではないことは、先代賢者、須藤神威に聞いた通りだ。
大浴場文化自体は元の世界でもギリシャやローマなんかにはあったし、必ずしも日本文化とは言えないが、それでも懐かしさを覚えてしまうのは、やはり依然として日本人としての性根が残っているのだろう。
ちなみにレイラとは先ほど別れた。フォルトナに女性用の大浴場に案内されているのだろう。
そんな風に、久方ぶりの何ら不安の無い安寧に意味の無い思考を空回し続けていると、ひたひた、と背後から足音がする。
あ? フォルトナに貸し切りだって言われてたはずなんだが。
学院の誰か入ってきたとなると些か面倒だ。また質問責めか賞賛責めのどちらか、もしくはその両方に合うに決まってる。
まあ、湯気も立ってるし顔もそうそう分かりはしない――――
「……あ、あの…………ユートくん……?」
「はい?」
名前を呼ばれ思わず生返事を返してしまったが、問題はそこではない。
湯気の奥、というかもはや湯気の手前まで来ようとしているその声の主は、見まごうことはない竜人の少女レイラ。
胸元には水晶が埋まっていた故の傷痕が残っており、痛ましさを覚えるが問題はそこではなく胸元タオルで隠してるけどほぼ見えてますからね。
慌てて目を逸らして、オレは逸る鼓動を抑えながら何とか声をかける。
「な、なにゆえここに!?」
上ずっただけでなく変な口調になってしまった。
「あ、その……フォルトナさんに、ぜひ大浴場にって…………」
「待て待て待て!! ここ男風呂じゃないのか!? フォルトナにそう案内されたんだが!?」
「え、え、ワタシもここだって案内されて…………」
さっき別れたはずだってのに……
まさか、別の更衣室から同じ大浴場に通じてるのか?
と、そこでこの状況が何故起きたのか、1つの心当たりに思い当たり、叫びそうになる。
フォルトナのやつ、定期報告をさぼったオレへの意趣返しかよ!?
だが内心で犯人のほくそ笑む姿を思い浮かべようとも、現状は何も変わらない。
「……悪かった。オレはもう満足したし、先に出る」
まさか彼女と一緒に入るわけにもいくまい。
そう思って、彼女に背を向けながらそそくさと湯船から出ようとすると、「え」と悲しそうな声が背中を弱く叩いた。
「……一緒に入らないの?」
「常識的に考えて、男女が湯浴みを共にするのは色々とまずいだろ」
すがるような彼女の声にそう返すのは些か憚られたが、ここは毅然とした態度で応えるほかにない。
彼女が育ってきた集落や竜人たちの風習がいかなるものだったかオレが知り得ることはないが、それでも年頃の血縁でもない異性と混浴するというのは些か無防備に過ぎる。
無論、彼女の竜人としての圧倒的膂力を以てすれば、仮に変な気を起こされても返り討ちにするなど造作も無いのではあろうが、そうは言ってもうら若き乙女が妄りに人に肌を晒すと言うのは眉を顰めざるを得ない。
……まあ、とどのつまりオレが美少女と混浴するなどという気恥ずかしさに耐え切れないだけなのではあるが。
「…………そう、よね。ごめんなさい。ちょっと、浮かれてたかも……ワタシみたいなのが一緒に入っても、怖いよね……」
「あー、いや、そういうわけじゃ…………」
表情は取り繕ったあいまいな笑みを浮かべているが、オレの目で見ても取り繕っていることが分かる以上、その営みに意味はない。
…………はー。しょうがねえ。
「…………少しだけな」
「え?」
「少しなら構わない。ただ、長居はしないし、お互いに背は向ける。それでいいな」
「う、うん! もちろん!」
そう言うとレイラは遠慮がちにこちらへ歩いてくる。
慌てて背を背けると、背中に静かな波が打ち寄せて来るのを感じた。
「ふぅ……」
彼女のため息から、恐らくは湯船に浸かったのだろうことを察する。
「……何だか、水浴びとは違ってほっとするかも」
「レイラの集落には大浴場とか風呂の文化は無かったのか?」
「うん。知識としては知っていたけれど、実際に体験するのはこれが初めて」
はふぅ、とレイラがもう一度気の抜けたため息を漏らすのが聞こえる。
この世界にも文化としての大浴場はあるとは言え、シャワーや水浴びなどで済ます文化圏も多い。
リスチェリカや学園アトラスにもあるとはいえ、利用しているのは一部の人間だけで、しかも彼らも毎日利用しているわけではない。基本はシャワーの類で済ませてしまうのだ。
……まあ、それでもリスチェリカやアトラスは先進的で、旅の途中で寄った村なんかじゃ簡単な水浴びを数日に一度するだけというような場所もあった。体臭などは香料で誤魔化していたようだ。
「ユートくんは、結構お風呂とか好きだよね」
「まあな。オレの故郷だとこれが普通なんだが、そこは文化の違いやら諸々があるだろ」
オレは現代日本に生まれ育った身として毎日最低限体の汚れや垢を落とさないと気が済まないので、こちらの人間からすると潔癖な人間に分類されるのだろう。
先進国たる日本に生まれたからこうなっているが、仮に別の国に生まれていればまた違っただろうし、そのあたりどちらが優れているかなどを論じる意味はない。
「ふふ。まさか、ユートくんとこんな風に一緒にお風呂に入る日が来るなんて、思わなかった」
「そりゃ同感だ。何なら今も夢か幻覚の類だと思ってるぐらいだけどな」
もし仮にこれが夢なのだとしたら、思春期丸出しの恥ずかしい夢ということで墓場まで一人で持っていくことになるだろう。
もし目が覚めたらベッドの上でもんどりうつことになるだろうな。
「そっか。夢なら、それはそれで嬉しいな。ユートくんの夢に、ワタシを出してくれてるんでしょ?」
「…………込み入った話になってきたな。もし仮にこれが夢ならオレは相当に恥ずかしいやつになってしまうから、勘弁してくれ」
「もう。あのときは、あんなに熱烈にプロポーズしてくれたのに」
「は? プロ……何?」
何というか、あまりなじみのない言葉が聞こえてきて耳を疑う。
竜人特有の方言とかかな?
「集落でワタシに言ってくれた言葉。あのときは必死で、よく分かってなかったけど……今思い返したら、すっごく熱い求婚の言葉なのかなって」
「……本気で言ってるのか?」
「本気にしてくれるの?」
勘弁してくれ……とオレが情けない声を返すと、レイラの小さな笑い声が返ってくる。
その反応で、彼女にからかわれていたのだと悟る。
まさか彼女にからかわれることになるとは思わなかった。
……不服を言いたい気持ちはなくもないが、彼女なりにオレに気を許してくれたということで、一つ納得しておくか。
「…………なんか、いいのかな」
「何が?」
レイラの呟きにオレは端的な疑問を返す。
「こんな風に、してて。……だって、結局、ワタシは……」
「あまり気負い過ぎるな。お前が悪かったわけじゃない」
それは彼女にとっては気休めにしかならないのだろう。
だが、罪に拘ると、進むべき道が霧にくらむ。
その霧は濃く、人知れず抱えたものを傷つける。
「…………謝らなきゃな」
ぼそり、とオレは何気なく呟いた。
誰が、誰に、などと問うまでもない。
あの日、喧嘩別れしてそれ以来。
ろくに話もできていない。
オレがこうしてフォルトナの歓待を受けて魔法都市に留まっているのも、リスチェリカに戻ると嫌が応にも彼女に向き合わなければならないからかもしれない。
……オレは、会いたくないのだろうか。
凛に。
…………分からない。
少し前までのオレであれば、「わざわざ会う理由もないし、会う必要もないはずだ」と切り捨てていただろう。
だが、向き合うと決めたのだ。
瞼を開くと、そう約束したのだ。
既に霧は晴れて、道は目の前にある。
それなのに、その道を歩かないという怠慢を、遁走を、オレ自身は許せない。
「なら、歩くだけだ」
「ユートくん……?」
「ああ、いや。独り言。ちょっと宿題があってな」
謝らなければならない。
義務感から?
いや、いいや。
謝りたい。
許しを請うことはしない。
ただ、彼女に一言「ごめん」と言えたらそれでいい。
それはある種の欺瞞で、自己完結した独りよがりなものかもしれない。
それでも、言うべきだと。
否、言いたいと思っている。
「うし。気合入れるか」
覚悟は決まった……ような気がすることもないこともない。
ああ、クソ。やっぱり凛が絡むと調子が狂う。
内心でぼやきながら、レイラに先駆けて湯船から上がる。
風呂で体が火照ったからだろうか。
心臓が、どくどく、といつもより少しだけうるさく聞こえた。
レイラも優斗も、色々なものに向き合わなくちゃいけない。




