190、終点より始まる
眼前の光景に、高速で回転していたはずの思考が凍り付く。
今自分が立っているのかどうかも分からないくらいに、視界が揺れた。
凍り付いたはずの思考の奥底がちりちりと焦げ付き、体の最奥から呪いのように魔力が漏れ出る。
感情が、憤怒が、憎悪が――――制御できずに、形をとってあふれ出そうになる。
「っと、これは……驚いた。君、本当に人間かい?」
シリウスの言葉を、正確に脳で処理できない。
ただ、目の前の敵を殺さねばならないという意志だけが、どろりとした魔力に形を与えていく。
「それは危ないな」
ふ、とシリウスが立ち消え、眼前には影。
その正体がシリウスであると、『領識』が伝えると同時にオレは掌底を受けて吹き飛ばされる。
軽い挙措からは想像もつかないほど重い掌をどてっぱらに打ち付けられ、オレは胃の中身をぶちまけながら宙を舞った。
地面に叩きつけられる衝撃は『不可触の王城』で吸収されたものの、蹴られた腹部は激痛を主張し呼吸もままならない。
痛みのせいで逆に冷静さを取り戻し、先ほどまで頭の中に浮かびかかっていた魔法が飛ぶ。
ちかちかと明滅する視界の中で必死に冷静さを手繰り寄せながら、自分に治癒魔法をかけて相手の出方を窺う。
「レイラ、待てっ!」
シリウスに肉薄しようとしたレイラを止める。彼女はぴたりとその場で静止すると、反動のままに数歩シリウスから距離をとった。
今のは何だ。
全く目で追えない移動。
否、『領識』ですら、微かばかりの軌跡も追うことができない速度。観測することが許されないと言わんばかりの高速な移動は、オレに動転する猶予すら許してはくれなかった。
そして、奴は軽々とオレの鎧を貫いた。
妙だったのは鎧が破られたわけじゃないということ。『不可触の王城』はそのままに、直接オレに奴の拳が到達したのだ。
それはあまりに理解不能な現象。ただでさえ理解と法則をないがしろにする魔法と言う存在を、さらなる不可解で悠々と乗り越えられた。
その事実に、眼前の存在が確かに魔王なのだと確信し、わずかな恐怖が汗となって頬を伝った。だが、今は奴を倒れたリアから引きはがす。それが最優先。
「『雷走』ッ!」
オレが持ちうる最高速の魔法を放つ。
雷の速度は光速。
無論、リアのようにオレの視線などから軌道を読むやからもいるが、今回は事前動作もなく視線もずらした。避けられる材料がない。
そして避ける素振りも見せないシリウスを、雷撃が貫通する。
「わ、びっくりするな」
そう、貫通したのだ。
「………どうなって、る」
あまりの不可解さについぞオレはそう呟くしかなかった。
『領識』でその存在はとらえている。幻覚やまやかしの類ではない。そこには確かに実態があるというのに、けれども攻撃は当たらない。
「ああ、これかい? 僕の得意な魔法でね。次元マ――――」
しっ、と鋭い斬撃がシリウスの首を刎ねた。
「は…………?」
口から零れる呼吸音で少しだけ冷静さを取り戻す。
シリウスの首はそのまま地面に転げ落ちる。
二、三度の瞬きののちに、胸を貫かれたはずのリアがシリウスの首を刎ねたのだと理解した。
「リア!?」
叫ぶオレに、リアが不思議そうな顔で答えた。
「どうして、わたくしは生きて……?」
本人は不思議そうに首をかしげて自分の胸元を確かめている。
確かにシリウスの腕はリアの胸を貫いていたはず。あれは幻覚でも何でもない紛れも無い現実――――――――
「あー、いてて」
そんな少年の声が、足元から聞こえる。
首を失ったシリウスの身体が、そこに突っ立ったまま、肩を竦める動作をした。
「ッ……!! リアッ!」
「このッ……!!」
意図するところを組んだのか、リアが残ったシリウスの身体を細切れにしようと無限にも見まごう斬撃を食らわす。
だが、そのどれもが彼の身体を傷つけることはなく、すり抜けてしまう。
絶望するオレたちのことなど気にしない様子で、シリウスは「よいしょ」と掛け声を上げながら地面に落ちた自分の首を拾う。
それを頭にくっつけると、「わ。びっくりした?」とこちらをからかうように笑った。
「さっきは驚かされちゃったからね。おかえし。あはは」
何事も無かったかのように笑うシリウスの笑みは子供のように無邪気で、だからこそ底知れない恐怖が腹の底を這いまわる。
そのとき、初めて彼が何かを手に持っていることに気付いた。
嫌な予感がして、オレはそっと自分の胸元に手を当てる。
「…………それは、何だ」
オレの問いに、シリウスは「ああ」と笑う。
どく、どく、と脈打つ赤黒いソレを持ちながら。
「何だと思う? ……って、その様子だともう分かってるみたいだね」
シリウスは悪戯が成功した子供のように、無邪気(邪悪)に笑った。
「――――心臓だよ。十一優斗、君のね」
「冗談、だろ」
それが冗談ではないと分かっていながらも、目の前の光景を現実だと受け止めきれない。
だが、目の前で確かに脈打つ心臓と、胸に手を当てても何の感触もない事実が、オレを現実へと引き戻す。
「あり得ない。あり得るわけがない。心臓引っこ抜かれて生きてられるわけねぇだろ。オレはお前らとは違って普通の人間だ。心臓は1つしかないし、心臓を止めらりゃ死ぬ。何なら心臓以外が止まっても結構死ぬ」
焦りのあまり口早にまくし立てると、シリウスはけらけらと笑った。
「うん。普通はね。でも、死んでない。不思議だね」
リア、レイラと三人でシリウスを囲むような形になっているが、ナイフを心臓に突き付けられているのはオレたちだ。
「さっきも言ったけど、これは、……あー、うん、そうだね。クイズにしよう」
「…………は?」
シリウスは名案を思い付いたと言わんばかりに柏手を叩いた。
「クイズだよクイズ。さて、さっきから僕がやっていることは何でしょうか。答えられたら見逃してあげる。心臓も返そう」
…………クソ。
今の最善手は尻尾巻いて三人で全力で逃走すること。
だが、あの高速移動の種が分からない以上、リアやレイラだけならまだしも三人揃って逃げ切るのは難しい。それに奴のハッタリが本当なら、オレの心臓は今奴の手の中にある。
どこまで信じていいかも分からないが、話に乗るしかない。
シリウスが起こした数々の異常現象を整理しよう。
まずは高速移動。
リアが反応できずに致命の一撃を受け、オレの『領識』ですら認識できない超高速。音の速さで済めばいいが、光の速度にまで到達していても何らおかしくはない。
人間の神経の伝達速度は最大でも0.1秒程度。リアがやや人間をやめていてそれよりも速い反射神経を持っていたとしても、それを遥かに超える速度であれば反応できない可能性も十分にある。
だが、違和感も残る。
高速な移動であれば、周囲に衝撃波が起こるはず。それこそ、リアやオレが欠片も認識できない速度であれば周囲に何かしらの影響があってもいい。
だが、そんなものは無かった。
無論、全部魔法なので、の一言で片づけられなくもないが、発生する現象の一側面だけが現れないというのはいくら魔法でも変だ。
次に、リアの胸部の貫通。
確かに貫通していたというのにリアは無傷だった。
恐らく、これはこちらの攻撃が当たらないことや、オレの『不可触の王城』を貫いてきたのと同じ原理のはずだ。
それに、首を落としても死ななかったこと。類まれなる回復速度を持つ魔族であれば十分にあり得る話だ。
だが、それでも妙な点は残る。
シリウスは、全く出血しなかった。
ガリバルディでさえ腕を落とせば血肉は散らばった。だが、目の前の男はまるで切られていなかったかのように首なしの身体が動き、そして出血も全くなかった。しかも、そのあとのリアの攻撃は全てすり抜けたのだから、超再生というのもおかしい。
そして最後にオレの心臓を取り出したこと。
どうしてか分からないが、あの心臓は未だにオレと繋がっている。
その根拠はオレが生きていること。
これらの状況からオレが建てられる仮説は……
オレだけでなく、リアとレイラの命もこの答えにかかっているのだ。
決して間違えることはできない。
「ねー、まだー? そろそろ時間だけどー」
制限時間なんてなかっただろ、と怒鳴りたくなるのをこらえ、オレは一つの回答を返す。物理法則をバカにするなと叫びたくなるのをこらえながら。
「――――空間を司る魔法」
「……へぇ?」
シリウスの目が青く光る。
「……くそっ、転移だけじゃねぇのかよ。距離や、繋がり、間に挟まる物体の有無なんかを好き勝手にできる魔法ってとこか。まあ、魔法かどうかはぶっちゃけ賭けだ。お前が能力を使うとき、魔力感知が反応したから魔法だと仮定した。魔族特有の権能とかならお手上げだ」
「あはは。すごい、当たりだよ。流石は当代賢者」
ぱちぱちぱち、とシリウスは疎らな拍手をうった。
だが、その言葉を聞き逃すことはできない。
「……どうして、オレが賢者だって知ってる。それに『当代』つっうことは、歴代賢者がいることも知ってるのか」
「耳ざといね。うん、知ってるよ。ずぅっと昔からね。まあ、昔話は面倒だし、今とこれからの話をしようか」
オレの追及を躱し、シリウスは手の中の心臓をしげしげと眺めながら話を戻した。
「君の言ったように僕のこれは空間を司る魔法さ。総じて次元魔法って言うんだけどね。空間魔法でも通りは良いはずだよ」
「…………相変わらず、魔法ってのは何でもありだな」
少なくとも今シリウスがやってのけたことが自由自在にできるのであれば、無敵と言って過言ではないだろう。最強の矛と最強の盾を持ち、最速の馬に乗っているのだから敗けるはずがない。
「そうかな? 昔はこんな魔法ばかりだったけど。でも、君だって転移魔法は使っているじゃないか」
そう言うとシリウスは一瞬のうちに肉薄し、とん、とオレの胸に心臓を押し当てた。
すると、肉体の表面をすり抜けるようにオレの心臓が体内に潜り込んでいき、そのままどくん、どくんと懐かしく覚える心音が鼓膜を揺らす。
「……転移魔方陣のことか」
「そう。あれは空間魔法を魔術に落とし込んだものだよ。誰でも使えるようにね」
説明するシリウスはどこかつまらなそうに見える。
聞きたいことは山ほどある。
「何でオレに――――」
シリウスは、とんとん、と何度か踵を地面に叩きつけるとわざとらしく笑った。
「さあ、愉しいおしゃべりはここまでだ。もうそろそろ僕は帰る。こう見えてそれなりに多忙の身だからね。けど、残念とは思わないよ」
シリウスの言葉にオレが理由を問うよりも先に、彼が言葉を続けた。
「君とは、またすぐに会うことになりそうだからね。勧誘は継続中だし、もし気が変わったらまた教えてね」
「そりゃ、どういう――――おいッ!!」
シリウスがその場で立ち消える。
オレの声は、先ほどまでシリウスがいた虚空に投げかけられ、そのまま何にもかするとなく空気へと溶けた。
恐らくは転移したのだろう。
「…………クソッ、何だったんだ一体」
嵐のように現れて、散々かき乱して帰っていた。
目的も動機も一切不明。
その埒外な力を見せつけるだけ見せつけて、最後には意味深な言葉を残して退場。
何ともまあラスボス然とした魔王様ですこと。
内心で悪態をつくことで何とか平常心を取り戻しつつ、二人の様子を窺う。
「二人とも、大丈夫か?」
「ええ、わたくしは特には」
「ご、ごめんなさい……ワタシ、どうすればいいか分からなくて……」
「気にすんな。想定外過ぎる珍事件だ。事態を静観してたのは正しい」
それに、レイラがただ突っ立っていたわけではないのは知っている。
彼女は注意深くこちらに意識を向けて、いざとなれば自らの身を投げうってでもオレたちを逃がそうとしていた。
できればそういった捨て鉢考えはしないで欲しいのだが。
「とんだ邪魔が入ったけど、さっさとリスチェリカに戻るぞ。これ以上ちんたらしてたら、第二第三の魔王が喧嘩を吹っ掛けてきかねない」
二人に声をかけて、転移魔方陣を起動させる。
……長かった旅路が終わる。
だが、これは始まりに過ぎないのだろう。
倒すべき宿敵がいる。
解くべき謎がある。
この旅で、むしろ課題は増えたと言っていい。
だが、オレはそれらに向き合わねばならない。
そう覚悟を決めて、光の中へと一歩足を踏み入れたのだった。
第三章の本筋はこれにて完結です。長かった……
第四章も書きあがっていますが、三章ほど長くはないはずです。
ただ、まだ第四章がで明日以降毎日投稿できるかは怪しいですが、今しばらくお待ちください。




