179、夢のまた夢
ある日、いつも通りに学校から我が家に帰ってくると、珍しく家の中が静かだった。いつも聞こえる大音量のテレビの音も、何かが壊れる音も聞こえなければ、男の怒鳴り声すらしない。
「…………母さん?」
優斗は嫌な予感を覚え、小さな声で問いかけた。
自分の家なのに息を殺しながらそっとリビングに向かう。
リビングには誰もいなかった。
少なくとも、最初に見たときには誰もいないと思った。
床に倒れ伏す母親を見つけるまでは。
「母さん? 母さん!!」
慌てて駆け寄り母親の肩を揺らす。
うつぶせにフローリングの上で倒れ込むその姿は、とても昼寝をしているようには見えない。
呼吸と脈は……!
彼女の首を確認して、ゾッとする。
首をぐるりと一周するように這う、紫色の筋。それが、 何かの圧迫痕であると、一瞬のうちに理解してしまう。だが、あえて思考を鈍らせてその先を考えないようにした。
「くそっ、救急車――――」
慌てて携帯に番号を打ち込む。
たかだか三桁の数字を打ち込むだけだというのに、手が震えて上手くできない。
ようやくコールボタンを押すと、ぷるるる、と接続を待つ音が電話から聞こえる。
「早くしろっって!」
叫びと同時に電話がつながり、事務的な声が聞こえて来る。
「救急です。母親が倒れました。住所は――――――」
優先度を考えて、住所、母親の容態、他の情報を過不足なく伝達していく。
焦る心を何とか宥めて、思考をフル回転させた。
「呼吸はーーーー」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「して、いません……」
諦めるような吐息とともに、その言葉がこぼれ落ちる。先ほどからどれほど確かめても、呼吸の音も、脈拍の気配も感じない。
その後、5分と経たずに部屋のインターホンが鳴る。駆けつけた救急車に母親とともに乗り込み、そのまま病院へ向かった。
それからの記憶はあまり判然としていない。
だが、母親が首を圧迫され殺されたのだという、医師の事務的な説明だけは覚えている。警察も来て、いろいろなことを聞かれた。だが、優斗は落ち窪んだ目で「ええ」とか「はい」とか、曖昧な返事しか返せなかった。
もうこれ以上何も聞きたくなかった。母親が布で首を絞め殺されただとか、日常的に暴力を受けていただとか、過労で身体にガタがきていただとか。
どうしてこうなってしまったのだろう。
久しぶりにまじまじと見つめた母親ーーーー否、かつて母親であったその身体は、やせ細っていた。
昔はこんなんじゃなかった。
だが、枯れ木のような細腕やこけた頬、目元の隈などを見て、優斗の目に熱いものがこみ上げてきていた。
そして、母親がもう戻ってはこないのだということに思い当たり、優斗の感情は決壊した。
号哭。悔しさに、悲しさに、怒りに、無力さに、咽ぶ。
優斗はそのときようやく気付く。
母親が防波堤となり、父親から優斗に害意が向かないようにしてくれていたのだと。
あんなにも細くなってしまった体で、懸命に優斗のことを守ってくれていたのだと。
自らの愚鈍さに、優斗は吐き気を覚えるほどの悔恨を得た。
けれども、目の前で倒れてしまった母親が目を覚ますこともなければ、目の前にある現実が変わることもない。
結局、父親には一度も連絡が付かなかった。財布が空っぽになるぐらいには、公衆電話で電話をかけ続けた。それでも、彼は出なかった。
それから数日が経過した。
学校では明らかに様子の違う優斗を見て、秋彦と茉莉が心配の声をかけてきてくれたが、優斗はそれに対して気の利いた言葉一つも返せずにただ意味のない言葉だけを返した。
いつも通りに学校に通い、日々を営む。
たとえ、肉親が死のうとも、この世界の回るスピードは変わらない。日常は日常のままにそこにあり続ける。
母親が死に、父親があの日以来一度も戻らないということを除けば。
母親の葬儀は明日。
連絡の取れない父親に代わって、優斗が様々な手配をした。といっても一人でできることなどたかが知れている。母方の祖父母に連絡を入れて手伝ってもらった。祖父母は優しい声をかけてくれたが、優斗にはどこかそれが鬱陶しく覚えた。
そつなく学校の授業もこなし、さっさとバイト先に向かう。
本屋のバイトだ。
仕事内容はまあおおよそ書店員がおこなうこと全てといったところだろうか。そこまで大きい書店ではないため過酷な労働ではないものの、書物の運搬などはそれなりに重労働だ。
特にミスを出すでもなく数時間あまりの労働を終え、「お疲れ様でーす」と気の無い挨拶を残すと本屋を出る。
日はとうに暮れ、肌を刺すような冬風が頬に打ち付ける。
「…………さむっ」
誰に言うでもなく独り言ち、すたすたと早歩きに自宅への道を歩く。
母親が死んだというのに、日常は変わらない。変わりない日常を営める自分自身に、少しだけ辟易していた。
「くそ、仕方ないだろ」
そう一人でぼやく。
その日は、立ち並ぶ裸の街路樹が、やけに不気味に見えた。
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家が近づくにつれて、違和感に気付く。
それは違和感となるはずがない違和感。
誰もいないはずの我が家に、明かりがついている。
朝出るときには確かに消したはずだ。
内心で警戒を強めつつ、ポケットから鍵を取り出し差し込んで、ひねろうとする。
「……開いてる?」
普段ならば閉まっているはずの鍵が開いている。
頭の中でアラートが点滅した。
少しだけ警戒しながらドアを開ける。
玄関に靴がある。くたびれた、革靴。
その先には、父親の後ろ姿があった。
「お前、今の今までどこにいやがった……!! こっちは、ずっと……」
靴を脱ぎ捨てて詰め寄った優斗は、父親の顔を見てゾッとする。
死んだような顔で、力なくこちらを見る父親の姿。その目にはなんの意思も宿っておらず、ただただ幽鬼のようだった。
もし父親の第一声が謝罪と釈明であれば、優斗も多少なりとも彼を許せただろう。
だが、彼は怯えたような表情で、こう言った。
「……母さんは、どこ行った?」
その日、優斗は初めて人を殴った。
その感触はひどく手の甲にこびりついている。
人の骨と自分の骨がぶつかりあう痛みも。
殴った相手がアルコールくさかったことも。
父親が、否、かつて父親だった男が驚いたような顔で、へたり込んでいたことも。自分を、怯えた表情で見ていることも。
ふざけるな。
どうして、どうしてお前がそんな風に被害者面をしているんだ。
お前は、お前は……!!!
何か、叫んだような気がする。
けれども優斗自身何を叫んだかは分からなかった。
ただただ、腹の底から湧き上がる感情を、そのまま相手に吐き捨てていた。
男は、優斗に反撃しようと拳を振りかざす。
だが、そのまま振り上げた拳は行き場を失いゆるゆるとその場に降ろされた。
その意味を理解できず優斗が訝しげな視線を向けていると、男は笑った。
「……優斗。やっぱりお前、俺にそっくりだよ」
何てことはない男の言葉に、優斗は殴りつけられたような衝撃を覚えた。
だから、殴り返した。
オレが、こいつと? 冗談じゃない。
否定の言葉はいくらでも出て来る。
ただ、目の前でへたり込み、へらへらと笑う男を見て、優斗はそれ以上何かを言う気が削がれてしまった。
優斗の拳が行き場を失い宙にさまよってからどれだけの時間が経っただろうか。膠着状態にあった状況は、ピンポーンという間延びしたチャイムの音で打ち破られた。
優斗は一瞬だけ無視しようと考えるも、もう一度続けて鳴らされたチャイム音に諦め、玄関へと向かう。
無言のまま扉を開くと、扉の向こうには濃い色のコートを羽織った男が、二人立っていた。
「あー、十一才斗さんのお宅で間違いありませんね」
十一才斗は父親の名だ。
優斗が怪訝に眉を顰めると同時に、男が胸元のポケットから何かを取り出す。
「我々、こういうものでして。君は、息子さんかな? お父さんに少し用があってね。今、中にいるでしょ?」
男が手に持っているのは警察手帳。どこどこ県警のだれだれだとか書いてあるが、今の優斗にその文字列を追っている余裕はなかった。
「……何の用ですか」
優斗の声は震えていた。
考えないようにしていた、聞かないようにしていた可能性を、眼前に改めて突きつけられたような気がして。
だが、肩幅の広い男二人は表情を一切崩さずに低い声で告げた。
「お父さんに直接お話ししたいです。奥にいらっしゃいますよね? 入りますよ」
「ちょ、勝手に……!」
入ろうとする男たちを止めようとすると、背後から気配を感じた。
「警察、ですか」
優斗の父親だった男は、どこか安心したようにそう呟いた。
それを見た男たちが若干浮き足立つのを感じた。
そして、優斗が何かを問うよりも早く、警察の男がA4サイズぐらいの紙を広げて見せる。
「十一才斗さんですね。あなたには、殺人罪の容疑がかかっています。ご同行いただけますね」
「…………は?」
思わず口から息のような疑問符が零れ落ちる。
「……息子さんにお見せするのは何でしょうから、こちらへ」
警察の言葉に言葉もなく従おうとする父親を止める。
「ま、待ってください!! これ、何ですか。一体何が……」
優斗の理解を待たずして世界は回っていく。優斗ただ一人だけが、そこに取り残される。
「…………すみません、刑事さん。早く連れて行ってください」
そう言うと父親が両手を男たちに差し出した。男たちが少しだけ困惑した様子を見せたが、優斗はそんなことにも気づかずに続けた。
「何だよ、これ。何したんだよ、あんた」
既に優斗の口の中はからからに乾き果て、その場に立っていることすらできないほどに足に力が入っていない。
だが、それでも問わねばならないと、彼の中の何かが急き立てていた。
「……悪いな、優斗」
父親は死んだような顔で言った。
「ふざけんな、説明しろよっ!! 何のことだか――――――――」
「優斗。お前は、こうはなるな」
そう言って、優斗の父親は力なく笑った。
それが最後に見た、父の姿だった。
優斗くん、こんな世界には流石に戻りたくなさそう。




