159、溜まり、積もり、蟠る
エルピスに来てから五日目。
ついにフィリテンからの再呼び出しがかかり、答えを迫られた。
その場限りの口八丁で何とか誤魔化したが、これ以上は期限を延ばせないだろう。恐らくは今日か明日中に結論を出さないと、エルピスでの居場所がなくなる。
くそっ、バートルは何をやってるんだ。
約束を破るような奴ではないと信じていたオレの見立てが間違いだったのだろうか。だが、奴自身にオレに嘘をつくメリットがあるのか? まさか、フィリテンと組んで――――
渦巻く思考をローウェンの声が裂いた。
「…………申し訳ありません。トイチ様」
蒼白な顔。らしくない弱弱しい表情で、焦点も定まっているのか怪しい。
「どう、したんですか」
フィリテンを丸め込むのに必死で気付いていなかった。ローウェンの状態が明らかにオレの知っている普段の様子と違う。
「……いえ、これは…………大丈夫です」
「何かありました?」
オレの問いにローウェンはふるふると首を振り俯く。だが、やがてあきらめたようにぽつぽつと言葉を漏らした。
「妻が、一昨日から行方知れずなのです」
「奥さんが……?」
二日前にレストランでちらりと見かけたのを覚えている。
「食事をした帰りに……少し視線を外したら、まるで煙のように立ち消えて……」
その瞬間を思い出したのか、ローウェンの顔が悲愴に歪む。
「申し訳ございません。このような一身上のお話、お客様にするものではございませんでした」
「ああ、いえ……」
オレも何も返せない。
「ねえ、これって…………」
レイラの小さな呟きに頷きを返す。
最近増えているという行方不明の話。
人が忽然と姿を消すというもの。
消える人間たちの共通点はなく、消える兆候すらない。
彼らに共通していることはただ一つ。
彼ら彼女らはただの一人も、戻ってこなかったということだ。
ローウェンでもその噂は知っているのだろう。だからこそ彼の顔には色濃く絶望の二文字が刻まれているのだ。
そのままローウェンに見送られて館を出る。
「見つかるといいですわね」
リアの言葉に、今度は確かにうなずいた。
「ああ、そうだな」
本心からそう思う。
ローウェン自身に悪感情は抱いていない。むしろ、極めて理知的な紳士だと思っている。
知り合って間もないとはいえ、彼の表情があのような曇り方をしているのは少しだけ可哀そうだなと思った。
それから夕方ごろまで時間を潰すと、オレたちは再びウォシェたちの家へ向かった。
これで三度目の来訪だ。
ウォシェは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、悪態をつくでもなく家に招き入れてくれた。
「悪いけど、追加の情報はないよ」
ウォシェは開口一番そう言い放った。
隣ではセーニャが何かの本を見ながら、小さな黒板にせっせと何かを書いている。
ちらと覗き見るとそれはこの世界の文字。同じ文字を繰り返し書いていることから、文字の練習をしているのだと分かる。
そして内心で少しだけ驚愕を覚えた。
彼らの生活ぶりから、裕福な暮らしではないことは目に見えて明らかだ。
そんな中で彼女が文字の練習をできているのは、いささかばかりちぐはぐさを覚える。
オレの視線に気づいたウォシェは小さく舌打ちを漏らすと、ため息をついた。
「……屋敷の稼ぎ。それをセーニャの勉強費に充ててるんだ」
言葉少なに説明するウォシェの言葉を聞いて得心が行く。
恐らく、彼は稼ぎのほぼすべてをセーニャのために使っているのだろう。食事や彼女の勉強のための資金に充て、他の出費を可能な限り削っている。
彼のたくましさに眩しさを覚えると同時に、やはりオレの行動は間違っていなかったのだとほっと胸を撫で下ろした。
「偉いなウォシェ……」
「……別に。兄貴が妹の面倒を見るのは当然だろ」
照れてふい、と向こうに顔を逸らすウォシェの頭をわしゃわしゃと撫でてやる。だが、ウォシェは「やめろって」と言うとオレの手を振り払った。
「……まあ、引き続き情報収集頼む。こいつは前金だ」
そう言ってウォシェに銀貨を数枚手渡す。それを受け取ったウォシェは怪訝そうにオレと目の前に出された銀貨を交互に睨みつけた。
「…………なぁ、おれが言うのもおかしい話なんだけど、まだ何もやってないぞ。それなのにこんなに貰っていいのか?」
「要らないなら返してもらうけど」
「要らないとは言ってない」
ウォシェは手早く机上の銀貨を引っ掴むと、懐に忍ばせていた麻袋にしまい込んだ。
確かに彼の言葉は尤もだ。彼の成果に報酬を出すのであれば、現時点で報酬が発生しているのはおかしい。
だが、事実彼にはリスクを冒してもらっている。フィリテンを探っていることが分かれば、屋敷をクビになる恐れがある。そうすれば彼は職を失い妹共々路頭に迷うことになるだろう。
そのリスクに見合う報酬と思えば、決して高くはないはずだ。
そんなオレの説明に納得したのかしていないのかあいまいな表情で唸るウォシェを見て、セーニャが陽気に笑った。
「お兄ちゃん、楽しそう!」
「は? おれが? なんで?」
心底分からないといった調子で顔を歪めるウォシェを見て、セーニャがさらにニコニコとした笑顔を浮かべた。
「なんとなく!」
子供の言葉に理論も一貫性もあったものではない。
それを問い詰めるだけバカらしいと思ったのか、ウォシェはため息を漏らすと「そうか」と言ってそっぽを向いてしまった。
二人の微笑ましい様子を見ながら、オレの行いが間違いではないことを確かめる。
たとえ、それが醜く浅ましい自慰行為に過ぎないのであったとしても。




