夢じゃないのか。
「あー、戻りたくねー……」
冷たい風が廊下を吹き抜ける中、窓側の壁で俺、高口健吾は手をつき、普段の俺なら心で思っていても口にはしないことを呟いてしまった。だって生徒が豆になってしまったんだ。
俺は項垂れる。教室に戻ったら、その悪夢が再開する。信じたくない、信じられない、絶対に否定したい現実がそこにはある。
(俺にどうしろっていうんだ……)
こんな状況は想定外だ。いや、普通に生きていれば想定することはまずないから、想定外が当然なのだが。対処方法が、まったくもって思いつかない。俺はどうしたらいいんだ。
教師としてならば、生徒の相談に乗ってあげたり、力をできる限り貸してやりたいとは思う。生徒の力になれるような教師になりたくて教職の道を選んだのだから。
けれどもこれは教師、生徒での問題を逸脱して、まずあいつが生き物かどうかの問題になってきていると思う。どう、どう接すればいいんだ!? 考えれば考えるほど混乱して頭がグラグラしてきた。
俺は教室に背を向けた体を動かし、教室を睨め付ける。あの中には豆になった相沢が俺を待っている。
手首の時計に目をやる。教室を抜け出してもう10分は経っている。生徒指導室を背中にして視界に入れないようにしていたが、流石に覚悟を決めなきゃな。
そうして深呼吸して扉を開こうと手をかけたところで、急激な胃の痛みがやってきた。ストレスだ。あぁやっぱ無理。あそこに豆がいるって思うと無理。
いや、待て? よく考えろ俺。さっきのは幻って線は消えてはいない! 戻ったらなにもないかもしれないじゃないか! そうさ、大丈夫さ。こんな漫画みたいなことはない。
希望を見出した俺は思いっきり音を立てて扉を開いた。
見慣れた景色が広がる。俺がいつも生徒を指導している教室だ。教鞭をとる教室よりいくらか狭いが、それでも一対一で面談するには十分ぐらい広い教室だ。机は会議室にありそうな長い机が教室の中央にあり、椅子は肘掛け付き。おまけに教室の隅にある机には給湯器も置いてあるという、暖房さえ壊れてなければ俺にとっては居心地のいい教室だ。もちろん今は例外だ。
教室に一歩踏み込んで相沢のいた椅子を注視する。椅子には誰も座っておらず、誰もいない。
そして俺が一歩入ったというのに、なんの音も声も聞こえない。
これは、ひょっとしてひょっとするかもしれない。本当に夢だったりするかもしれない!
俺は期待する。
ごくりと唾を飲み、ゆっくりと椅子へ近づいていく。そして身を屈めて、相沢が座っていた椅子を目を細めてみる。
うっすら何か見えた気がするが、なにも動かないし、声もしない。
「あー! やっぱり夢だった! よし!」
俺は小さくガッツポーズをし、素早く体を翻し足早に教室を去ろうと動き出したのだが、
豆「夢じゃないですよ! もー先生、シカトしないでくださいよ! 本当に帰っちゃうかと思ってヒヤヒヤしましたよー!」
言い終わらないうちに、誰かが話しかけてきた。聞き覚えのある声だ。相沢によく似ている。
強烈に猛烈に心の底から振り向きたくない気持ちを抑え、深呼吸をして、ゆっくりゆっくりと相沢のいた椅子に近づいて、しっかりとみた。
信じたくないが、やはり豆があった。生徒が座っていたはずの椅子の上に、豆がいた。
絶望感が半端ない。
そのまま見続けていると、なぜか豆が震えたようにみえた。豆なのだから動くはずがない。会話できることもありえないが、動くことはさすがに無理だろう。ましてやこれが生徒ということも無理であってもらいたい。
そんな淡い期待を打ち消すように、椅子から無駄に明るい相沢の声がうるさいくらい聞こえてくる。
豆「先生〜、つれなさすぎですヨー☆ いつもマメになれって言われてた私がほら、豆になっちゃってますよ! みてください! よくみてください! 喜んでくださいよ!」
小さい豆を覗き込んで、やはり声がここからきていることを確信する。信じたくはないけど、そうとしか言えない。そして俺は混乱しながら、相沢に突っ込みを入れる。
「喜ぶか! 怖いわ! つーかそもそもマメになれよの意味が違うだろ、意味が!! そもそも宿題物をマメにだせよ? っていう言葉からなぜ豆に走る! 意味がわからんわ!」
俺は手で目頭を抑える。なんか泣きそう。本当に俺は豆と会話しちゃってる。やっぱり信じられない、それか重症なぐらい頭いっちゃってるのか? 近々病院を予約しよう。
俺の様子をみてか、感じてか、相沢の優し気な声がやはり椅子の上の豆から聞こえてくる。
豆「先生、大丈夫ですよ☆」
なんだか腹立つ。
「大丈夫じゃねーよ! 仮にこれが現実だとしたら、お前は明らかに大丈夫じゃないだろ」
豆「大丈夫です! 私、投げてもらえば戻るんですよ!」
「は?」
豆「実は魔法をかけてもらったんです。私の想いを伝えてみたら、親切に豆にしてくださった方がいたんです!! それで魔法解除条件が誰かに投げつけられることなんです」
「……はぁ」
豆「だから先生、私を持って投げてください☆ 」
いろいろ突っ込みたい。そもそも魔法なんてものがこの世の中にあるのかということとか。でもそういうの今考えることは無意味に感じた。それで解除できるのなら悪夢は覚めるんだ。やるしかない。俺は豆の指示に従うことにした。不本意ではあるが、致し方ない。
「わかった……投げればいいんだな……」
俺が力なく返事をすると、豆がなぜかキラキラ輝いてみえた。多分俺が疲れてるからだろうな。
とりあえず俺は椅子から豆を取り上げ、そのまま適当にそこら辺へポイっと投げた。豆はポンポンと軽く跳ねていき、そのままコロコロ転がって壁にぶつかり止まった。
なにも起きない。
遠くに転がった豆をみていると、止まったと思いきや、まだ転がっていたのか心なしか震えてるように感じた。
いや転がってないな。これは確実に豆が震えている。遠目からでもわかるぐらい恐ろしいぐらいぶるぶる震えている。そして豆からとは思えない怒号が飛んできた。
豆「せ、ん、せーーー! それ投げたって言わない、落としたっていうの! もう一回!」
豆が俺を叱る。くそ、豆のくせに生意気な。俺はなんだか腹が立ったのでお望み通り、壁に全力投球してみた。
ガン!
なんて音はもちろんしない。豆だから。
でも気持ちとしては効果音はガン! だった。
豆は衝撃でポンポンと飛んでいった。これで元に戻るのだろうか。しかし何も起きない。教室が静まり返る。転がり落ちた豆をみていたが、まったく戻る気配がない。
ていうか、なんで相沢は話さないんだ? なんで黙ってただ投げられてるんだよ。アドバイスとかしてくれないのか?
「相沢ー……おーい」
俺の声かけは、空気と化した。黙りを決め込む相沢にムカついたのでとりあえず俺は豆を全力で投げては拾い、投げては拾いを繰り返してみた。今、誰かにこの姿をみられたら終わりだなと思ったが、知ったこっちゃない。
「高口先生、今日出されてたプリントのことで質問があるんですが、いいですか?」
声とともに扉が開いた音がした。血の気が引き体が固くなりながら後ろを振り返ると、そこにはカバンを肩にかけながら、こちらを伺う生徒が立っていた。長身で丸いメガネが特徴的な生徒、寺島照史だ。担当の生徒ではないが、いつも俺に質問にくる熱心な生徒。そんな生徒が今変なものをみるような目で俺をみている。
見られたかと思ったと同時にハッとする。今俺は丁度まるで野球選手さながらに投げるフォームを取っているまま、振り向いたことに。後の祭りだが何事もなかったかのように俺はポケットに豆を入れ、姿勢を正し、冷や汗を感じながら振り返る。
寺島はそんな俺をみて頬を引きつらせながら、励ましてきた。
「先生、今度俺……前いってたCDかしてあげます。だから、その、元気だして」
「……あ、あぁ」
しかし、励まし方がおかしい。お前の言ってるそれはデスメタルだろ、この間言ってたあの曲だろ!? あのPVがヤベェやつだろ! ? ここで勧めるかふつー。どんな道に進めようとしてるんだ俺を。
寺島は扉から身を乗り出して、何かを探しているのか教室内をキョロキョロして、そして俺にキョトンとした顔をみせる。
「ところで、相沢さんは? 進路相談に乗ってたんじゃないんですか」
寺島が不思議そうに俺に問いかける。相沢はいる。今ポケットの中にいる。言うか言わないか迷ったが、信じがたい現実を寺島に伝えることにした。
「……寺島、申しあげにくいんだが、相沢は豆になった」
「……は?」