私、こういう者です。
序章
スプリングが軋み、小さな悲鳴を上げる。
二人分の重みを受け、揺れるベッド。
緩く波打つ白いシーツ。
キスを繰り返しながら、器用にシャツのボタンを外していく男。
ぶつかり合う熱視線。
そして――高くから私達を見つめる、怯えた目。
「……ごめんなさい、榊さん」
更にキスを迫る眼前の男――榊隆史の肩を押しのけ、この先の行為に及ぶのを制する。
「西条君?」
「今日はちょっと、そういう気分じゃないんです。ごめんなさい」
言い訳をしながら状態を起こし、着衣の乱れを整える。
「気分じゃないって……今日誘ったのは君の方だろう?」
「そうですけど……。本当にごめんなさい」
再度謝り、ぽかんと力なく開いた薄い唇に、自分のそれを重ねる。
「今度、必ず埋め合わせしますから。……それじゃ、また明日」
ベッドから降り、テーブルに置いたブランドもののバッグを手にする。
困惑の視線を背中に感じつつ、部屋を後にした。
急上昇していく不快指数。
全身にまとわりつく都会の熱気。
歩く度にピンヒールが地面を打ち鳴らす音。
頬にかかる髪。
ラブホ街を一人で闊歩するあたしを不思議そうに見つめる周囲の視線。
全てが腹立たしい。
けれど、何より一番腹が立つのは、
「ゆかりさぁん」
と弱々しい声であたしを呼ぶ、ハスキーな男の声。
「うるさい!」
たまらず振り返り、一喝する。
すると、そいつは翼をパタパタと羽ばたかせて宙に浮いたまま、しょんぼりとうな垂れた。
この男の名前はスズキイチロウ。自称天使だ。
1
残業を二時間こなし、帰宅した午後八時半過ぎ。
擦り寄ってくる愛犬ショウゴ(トイプードルのオス)を撫でつつ、予め録画しておいた、科学捜査ものの海外ドラマを見ながら一人晩酌を楽しんでいた。
買い置きしておいた缶ビールのプルトップを開け、乾いた喉に勢いよく流し込む。
海外ドラマの方は、ストーリーも佳境。DNA検査の結果が判明し、いよいよ捜査官が殺人犯の名前を口にする、というところで突然インターホンが響き渡った。
悪すぎるタイミングに苛々しつつ、リモコンの一時停止ボタンを押し、再度押されたインターホンに応答する。
「あ……あの……西条ゆかりさん、いらっしゃいますか?」
聞き覚えのない、酷く弱々しい男性の声が受話器の向こうから聞こえてきた。いじめられっ子の典型のような、おどおどした声。
「あたしですが。何か?」
「! え、えっとですね、ちょっとお話したいことがありまして」
「はぁ……」
話したいこと? 何だろう? なんだか随分訳有りな感じだったけど。
受話器を置き、玄関へと歩を進めながら思案する。
誰かと内密な話をするようなことをした覚えはないし、税金やら公共料金やらもきちんと払ってるはずだし。
もしかしてショウゴのことかな。でも、このマンションはペットOKだし、無駄吠えしないように躾もしっかりしてるのに。
あれこれと考えつつ、まずは玄関のドアの覗き窓から相手の様子を伺う。
小さく円形に切り取られた風景の中にいるのは、グレーのスーツを身にまとい、髪を今時珍しく七三に分けた、至って平凡な顔した二十代後半と思しき男性。
「あの、話したいことって何ですか?」
ドアのチェーンは外さずに鍵だけ外し、僅かな隙間から話しかける。
「はいっ、あのですね、実は折り入ってお話が……」
同じくドアの隙間から話しかけてくる男性。その姿に茫然としてしまった。
見た目は至って普通の、頼りないサラリーマンといった風貌の彼の背中には、有り得ないものがあった。
「……翼?」
「へ? ああ、そうです。これ、翼です。それよりですね」
純白の大きな翼が背に存在していることは彼にとってどうでもいいことらしく、さっさと自分の話を進めようとする。
あれかな、コスプレが好きな人なのかな。もしくは、翼を背負って家を回ってる宗教関係者か何かとか。
「……あのぅ、僕の話、聞いてます?」
「すみませんお引き取りください」
「へ!?」
あんぐりと口を開け、絶句している男性の姿を、ドアを閉めることで視界から抹消する。
「宗教とか興味ないんで、ホント」
「違います! 僕の話を聞いて下さい!」
「帰って! 近所迷惑になるでしょ!?」
拳か何かでドンドンと叩かれるドアに背を向け、「帰って!」と繰り返しドアの向こうに訴える。
しばらくしてドアを叩く音が止み、「仕方ないですね」という諦めの言葉が聞こえた。
ようやく分かってくれた、と安堵した矢先。
「こちらも仕事なので。申し訳ありませんが、強制的にお邪魔させて頂きますね」
そんな不躾な台詞と共に、彼は家の中に入ってきた。鋼鉄の、頑丈なドアをすり抜けて。
途中の姿はまるでドアから体が生えているように見え、ホラーな光景を目の当たりにしたあたしは、今までの人生の中で一番の大絶叫をあげてしまった。
「……天使?」
「はいっ」
フローリングに正座している翼男の自己紹介の一部を反芻したあたしに、男は笑顔で頷く。
「天使って白い翼があって、白い服着てて、頭の上には金色の輪っかがある欧米人っぽいのじゃないの?」
今まで、漫画やアニメ、美術の教科書に載っている宗教画の天使のイメージを言い募る。誰だって、天使と聞いたらこういうのを思い浮かべるだろう。
けれど、自称天使のこの男はグレーの冴えないスーツを着て、黒の地味なネクタイを締めていて、頭の上に輪っかなんてなくて、おまけにどう見ても日本人。白い翼くらいしか共通項はない。
「よく言われるんですよね、それ……天使っぽくないって。皆さんのイメージする天使って、随分前にイメージ戦略の一環で着てたものなんですよ。アメリカ人が日本人と聞いて侍を思い浮かべるようなものなんでしょうけど」
「侍……なるほどね」
確かに、日本人と聞いたら、外人は侍やら忍者やらを思い浮かべるんだろうけど現代の日本には侍も忍者もいない。会いたければテーマパークにでも行くしかない。
「こちらも色々進化してるんですよ。あ、これ名刺です」
翼男が一枚のカードサイズの紙を渡してくる。
「……『人類計画部人類恋愛課 アジアブロック 日本・東京エリア担当 鈴木イチロウ』?」
名刺に書かれた部署名と彼の名前を一気に読み上げる。何これ……。ていうか、スズキイチロウってあんた……。
「ファンに怒られるんじゃないの、この名前?」
「はい?」
「別にいいけど。ねぇ、この人類恋愛課って? そもそも、なんでうちに来たの?」
重ねて問いかけるあたしに、翼男――鈴木イチロウは「一つずつ説明しますね」と前置きし、話し始める。
「人類恋愛課は、人類の恋愛と、その結果を監視している部署です」
「監視? 何のために?」
「人類の歩む歴史というのは天によって決められています」
「歴史は決められてる……?」
「ええ。今までも、まぁ全てが順調だったわけではありませんが、ほぼ予定通りに歴史は進んでいます。そして、これからもそうでなければならない。
天が決めた通りに歴史を進めるには、天の定めた通りに歴史を動かす人物が必要になります。その人物がきちんとこの世に生まれてくるように、その人物の親、更にはその祖父母、場合によっては更にその上の先祖に至るまで、彼らの恋愛の動向を監視し、時には修正を加えるのが僕達、人類恋愛課の仕事なんです」
鈴木イチロウは胸を張り、説明する。
その割にいまいち飲み込めないけど、要は人間の恋愛をチェックしてる天使ってことか。さすずめキューピッドってとこかな。……見た目全然それっぽくないけど。
「常に適切なカップルが適切な子供を生み、適切な歴史を構築してくれれば僕らも楽なんですけど、実際は予想外のカップルが誕生して、天の予期しない子供が生まれてしまうこともたまにありまして。
それが歴史に関わる可能性が低い子供であれば問題ないんですが、その子が生まれたために、将来歴史に大きく関わる人物が生まれてこられなくなってしまったり、その子によって天が定めたものと全く違う方向に歴史が進んでしまうと大変でしょう?
そういった事態を未然に防ぐために人類恋愛課の天使が地上へ派遣されるわけです」
なるほどねぇ。
……って、ちょっと待った。
「お察し頂けましたか?」
にこりと微笑むスズキイチロウ。けれど、その眼光は刀のそれのように鋭く光っている。先程までと同一人物の瞳には思えない。
そして、自称天使のスズキイチロウが言い放つ。
「西条ゆかりさん。僕はあなたの恋愛を修正するためにやって来ました」




