影檻-シャドウ・ケージ-
目の前が、真っ暗だった。
四方八方から押し寄せてくる薄い気配に、背後から圧倒的な存在感を誇る何か。それらは、音もなく近付いてくる。
少年は必死で駆けていた。手のひらの“聖火”は既に消えかけていて、今にもかき消されそうな弱々しい明かりを投げかけている。きっと、さっきケースを落としてしまったのが悪かったのだ。
周りの気配は、とても曖昧な存在感を放っていた。おそらくは、普段から町や村を取り巻いている弱い影なのだろう。それでも、聖火が消えてしまえば奴らは嬉々としてこちらへ群がってくる。
背後からやってくるものの正体を、彼は知っていた。
それでも認めたくない。何故、あんなことになってしまったのか。何故。
少年の脳裏に、村を出たばかりに起こった光景が蘇る。
膨れ上がり、破裂し──噴き出してきた、影。彼には、驚く余裕すらなかった。気付けば駆け出していて、落とした聖火ケースもいつの間にか拾っていた。
とにかく、捕まったら終わりだ。
それだけは確かで、少年は泣きじゃくりながら走っていた。次の村か町へ辿り着くことができれば。
その思いを悟ったかのように、前方に明かりが見え始めた。この世界で明かりが意味するものは、一つしかない。
「あっ」
しかし、彼が次の一歩を踏み出した瞬間。聖火が、消えた。
悲鳴を上げる暇も、振り返る暇もない。
少年の内心が恐怖で塗り潰される前に、彼の意識は闇で覆い尽くされた。
町の周囲は、触れれば粘つきそうなほど濃い闇で覆われていた。
この世界には、人工物以外の光がない。人々は首都でしか精製されない聖火を町や村の中心に据え、それだけを頼りにこの影が跋扈する世界を生き抜いてきた。
薄暗い町の中、人々は常に怯えたような色をその目に宿して行き交う。何度も何度も、聖火台の据えられた方角を確認する。町には聖火以外にランプやランタンも普及していたが、それらは影を祓ってくれない。
聖火が消えた時点で、町は影に呑まれる。後に残るのは、魂の抜けた体と朽ちるのを待つばかりの家々だけだ。
その少女は、聖火台の前に佇んでいた。前とはいっても、聖火台は厳重に守られている。幾重にも連なる警備の人間、彼女が立っているのは彼らの近くだった。
それでも、薄闇の中で赤々と燃え上がる炎が見える。
どこからか吹き付けてきた風で、炎のような緋色の頭髪が揺れた。
聖火は、燃料を補給しなくても燃え続けるという不思議な火だ。王都の神官や僧侶たちの祈りや祝詞のおかげで生み出された、この世の希望。
しかし、その炎はいつまでも燃えているわけではない。正確には、燃料を補給したところで無駄なのだ。聖火は聖火台に灯された時点で寿命が決まっていて、それ以上燃えることはない。
少女は一つ息を吐くと、黄土色の簡素な外套に付いたフードを被った。
そして、ぴくりと肩を震わせる。どこからか近付いてくる喧噪。取り乱した女の声に、男の怒号が重なる。
程なくして、一見して夫婦と思しき男女が路地から飛び出してきた。男の腕には、幼い少年が抱かれている。が、その体はどう見ても完全に脱力していて、細い手足がぶらぶらと揺れていた。
少女は悟る。あの子は、“影に食われた”。
男女は聖火台を守る、体格のいい男に泣きついた。
「影が、影が町の、町の外れに!」
「助けて! この子を助けてえええええ」
女が長髪を振り乱し、男が泣き叫ぶ。三人の家族の首元では、硝子製のビーズをあしらった手編みのネックレスが揺れていた。聖火を通して、緑の煌めきが閃く。
泣きつかれた男は困惑しつつも、どこか諦めを滲ませて二人を見つめていた。
そう、彼にはどうすることもできない。影に魂を食い尽くされた人間を救う術はない。
少女は踵を返すと、夫妻が出てきた路地に飛び込んだ。
煉瓦造りの民家が、好き勝手に並んでいる。そのせいで、この町は複雑な迷路と化していた。照明は十分に設置されているが、それでも道に迷う者は後を絶たない。
その細い道を、少女は飛ぶように駆ける。人々は大きな道で身を寄せ合うため、こんな路地を好き好んで歩く輩はいない。そのおかげで、彼女の足取りが鈍ることはなかった。
暫く駆け続けた頃、不意に上方から何かが飛来する。少女は僅かに速度を上げることでそれをかわした。が、その表情は毛ほども揺らがない。
落ちてきたのは、青年と形容するのが相応しい、細身の男だった。柳眉を僅かに潜めて、少女の後を追ってくる。黒に近い、藍色の短髪が揺れた。
「影は、この先?」
少女が、当然のように問いかけた。青年は肩を竦めて口を開く。
「そ。境界線ぎりぎりんとこ」
「ってことは、そこそこ大物かな」
「だなー。ほんとぎりぎりだから」
走りつつ、二人の会話は淀みなく続く。住人たちは大路を通って逃げているらしく、喧噪は酷く遠い。
やがて、町中とは思えない静寂が辺りに充満し始めた。避難は既に完了したようだ。
青年がいかにも嫌そうに身震いして、舌を突き出す。少女は変わらぬ無表情で、暗闇を見つめていた。
そして、町の外れ。市壁もなく、明確な境界線など見当たらない。それでも人々は、その先が聖火の恩恵を受けないことを知っている。
そこには民家もなく、更地だけが広がっていた。子供が遊ぶにはもってこいの場所だ。先ほどの子供は、おそらくいつものようにここで遊んでいたのだろう。
しかし現在は、その境界線を明白に分けるものが鎮座していた。
不格好な粘土細工のように膨れ上がった、濃厚な存在感を持った影。それはどうやら、四足歩行の動物を模しているようだ。かなり上背のある青年ですら、首の筋が痛みそうなくらい見上げなければならない。
大きさはかなりのものだが、少女は正直拍子抜けしていた。
形が不格好ということは、それだけその影が未成熟なことを表している。おそらくは、まだあまり食っていないはずだ。精々あの子供以前に、数人といったところ。
そう感じたのは青年も同じようで、どこかやる気なさげに首を鳴らした。
「……なんか、雑魚っぽいな」
「ここらにいる奴らの中では、だいぶ格上だと思うけどね」
少女の微妙なフォローに、彼は肩を竦める。
「とにかく早く片付けよう、レクス。お金ないから」
「この規模の町じゃ、ろくに謝礼も貰えないぜ、きっと」
レクスと呼ばれた青年は、おもむろに膝を折った。背中が、一瞬震える。
次の瞬間、その背から漆黒の翼が生えた。彼の外套はこのために加工を施してあるので、いちいち破けることもない。
境界線の向こう側に聳える影は、どこか所在なげに揺れている。
「……で、どうすんだよ。ヒエン」
レクスに問いかけられ、少女、ヒエンは僅かに首を傾げた。
「いつも通り。弱らせてもらえれば私が決める」
「りょーかい。頼りにしてますよ」
骨張った両翼が、一度だけ羽ばたく。瞬きするほどの間の後、既にレクスは上空に舞い上がっていた。
前を開けていた外套が派手な音を立てて捲れ上がり、ベルトからぶら下げられた聖火ケースが微かに光る。
レクスは腰の鞘から剣を抜くと、何の躊躇もなく影に向かって急降下した。肉を裂くような、耳障りな音。続けて、影の叫声が木霊する。
影は首らしき箇所をもたげてレクスに噛みつこうとしているが、あまりにも緩慢な動きだった。追われている当人は、口笛でも吹かんばかりの様子で次々に剣を走らせる。
影が血を流すことはない。が、裂傷は確実に増えていた。黒々とした体に裂け目が生まれる度、濁った叫び声が響く。
思った通り、あまりレベルの高い影ではない。縦横無尽に飛び回るレクスを見ながら、ヒエンは息を吐いた。
影の頭部で剣先が閃く。直後、切り付けられた箇所がぼこりと膨らんだ。
「──おっ?」
「レクス、ストップ!」
再び切りかかろうとしていたレクスは、まるで壁に激突したかのように方向転換した。影の前足をかわし、そのままヒエンの元へ戻ってくる。
「いでででで、攣った」
「どこが?」
「ここ、ここ。あー、えー……あ、肩胛骨だ肩胛骨」
そう言うと、レクスはちょうど翼の生えている辺りを指さした。急な方向転換で、無理な負荷がかかったらしい。
しかしヒエンは、彼からすぐに目を逸らした。険しい視線は、もはや虫の息の影に向けられている。
ぐらぐらと、不規則に揺れる黒い巨体。その頭があったはずの部分が大きく抉れて、中から──人の、腕がはみ出している。小さな腕だ。少なくとも、大人ではないだろう。
もしかしたら、ここで遊んでいた他の子供かもしれない。
「素質があるんだろーな、あれ」
「……だろうね」
「でもガキだろ。あんまり期待できねーな」
影から生えた右腕は完全に脱力していた。そもそも、既に死んでいるかもしれない。ヒエンは先ほどから腕を注視していたが、少しも動かないのだ。
しかし、それは彼女の杞憂に終わった。
生白い腕が、確かにぴくりと動いた。それを皮切りに、まるで助けを求めるように五指が蠢く。助けてと、声なき声が聞こえたような気がした。
それを皮切りに、ヒエンの内心に火が灯る。何としてでも、やらなければならない。
彼女の周囲で、ゆらりと陽炎が立つ。レクスが慌てて距離を取った。
外套の裾が舞い上がり、下ろしていたフードが自然と外れた。鬢だけ胸元まで伸ばした、緋色の頭髪が篝火のように揺らめく。
「やる気満々だなー」
レクスの茶化すような口調にも、ヒエンは答えない。
さらに密度を増していく陽炎に、影がたじろいだように揺れた。逃げ出したいが、もはやそれだけの余力がないらしい。
腕は影に合わせて揺れているが、縋るものを探すような動きは変わらない。
ヒエンが手のひらを前に翳すと、病的なほど白いそこが音を立てて燃え上がった。
影は全て、燃やし尽くさなければならない。この世界で、人が生き抜くために。
真っ暗だ。
彼の脳裏に最初に浮かんだ言葉は、それだった。
実際、どこを見ても黒かった。辺りを見回す。見回しているという、自覚だけはある。
ついさっきまで、何をしていたのかすら思い出せない。
ただ、右の手のひらがやけに温かかった。左手どころか、全身はまるで氷水に浸かっているかのように冷たい。
右腕を目の前に翳す。手首で、青い硝子ビーズが輝いていた。手編みの紐で作られたブレスレットは、簡単には外れないよう結び目がきつくなっている。
ひょっとして、自分は死んだのだろうか。
彼は首を傾げ、考え込んだ。死んだのかもしれない。周りはこんなに真っ暗だし、とても寒い。
問題は、何故死んだのか、だ。とりあえず、走っていた、ような気がする。
しかし、記憶は一向に蘇る気配を見せない。駄目だ。わからない。
彼は思い出すことを諦め、その場に蹲った。
そうだ、眠ってしまおう。
泡飛沫のように浮かんだ思考に任せて、目を閉じる。
「……起きたよ」
不意に、声が聞こえた。
視界に、色が戻ってくる。景色は徐々に明確さを増し、少年は目を瞬かせた。
彼の目の前にいたのは、目映いばかりの緋色の髪の毛を持った少女だった。目は、宝石のような緑色だ。
「おーい、だいじょぶかー」
少女の横から、青年の顔が飛び出してきた。少年の肩が跳ねる。
そこで初めて、彼は自分がベッドの上にいることに気付いた。毛布が、ほんの少しだけ黴臭い。
「君の名前は」
少女に問われ、少年は慌てて身を起こそうとした。が、全身が鉛にでもなったかのように重い。頭の奥が鈍い痛みを発している。
結局、毛布の中の右手が僅かに動いただけだった。仕方なく、口だけを動かす。
「……シオン」
「そう。私はヒエン。こっちがレクス」
あまりに簡潔な自己紹介に、青年が苦笑いする。しょうがないとでも言いたげに、藍色の頭髪をがしがし掻いた。
「まだあんまり動かない方がいいぜ。一日も経ってないから」
「い、ち、にち?」
「そーそー。影に食われかかってから……あー、さっき、仕事終わりの鐘が鳴ってたな」
この国では、王都以外の場所に時計がない。国民たちは皆、定期的に鳴る鐘の音を頼りに生活している。
シオンは僅かに首を傾げた。頭はまだ、錆び付いているかのように回転が鈍い。
それでも、レクスというらしい青年の言葉は理解できた。影に、食われかかった。
「かげ」
シオンの声は、本人が思っている以上に掠れていた。しかし、ヒエンは淀みなく頷く。
「そう、君は一度、影に食われた」
「……でも、いきて、る」
「問題はそこなんだよなー。普通の人間は、影に一度食われたら絶対に助からねーんだよ。でも、お前は生きてる」
びしりと指さされて、シオンは反射的に肩を縮めた。
自分は、異物なのだろうか。心中に、泥のような不安が生まれる。異質なものは、必ず駆逐される運命なのだ。
レクスの手を叩き落とすと、ヒエンは何事もなかったかのように話し始めた。右手を恨みがましげに擦る青年のことは、完全に無視している。
彼女の平静そのものの声は、まるでシオンの怯えを押し止めようとしているかのようだった。
「君が、何故生き残れたか。それは、簡単だよ。君に、影檻になるための素質があるから」
その言葉に、シオンは思わず口を開け放った。
影檻。それは誇張でも何でもなく、この世界における第二の希望だ。
影への耐性を持ち、影と唯一まともに渡り合える存在。普通の人間が影と戦おうとすれば、一度食いつかれただけで終わりだ。どれだけ体を鍛えても神への祈りを捧げても、影へ対抗する手段にはならない。
しかし影檻たちは、辺りに充満する弱い影をその身に取り込み、それを使って特殊な力を行使することができる。そして、その能力を用いてさらに強力な影と戦う。
「俺、が?」
「うん。後は、影を取り込む術さえ身に付けてしまえばいい」
「そうだなー。あ、ちなみに俺も影檻だから。ほらほら」
レクスは心底楽しそうに笑うと、くるりとシオンに背中を向けた。
その上着には、何故か切れ込みが入っている。その切れ込みから、黒い翼が音高く飛び出した。
「うわっ」
シオンが悲鳴じみた声を上げると、レクスが翼を出したまま笑い転げる。
ヒエンがその尻を蹴り飛ばし、笑声が悲鳴に変わった。
「あれがレクスの能力。人それぞれ違うみたいだけど」
「あ、あれ、飛べる?」
「飛べるよ」
事も無げに答えられ、シオンは状況も忘れて目を輝かせた。
本当に、飛べるのだろうか。確かに影をそのまま固めたような翼は、レクスの半身を越えるほど大きい。彼が蹴り上げられた箇所を押さえて悶絶する度に、猛烈な突風が巻き起こる。
いちいち前髪がめくれ上がるのを感じながら、シオンは毛布を引き上げた。いつの間にか、体の重さは嘘のように消えている。
しかし、どのような経緯があって影に食われたのかは相変わらず思い出せなかった。思い出そうとすると、頭の奥の方が鈍く痛む。
思い出さない方がいいと、自分で無意識に封印してしまったのかもしれない。
思わずこめかみを押さえると、ヒエンが眉根を寄せた。
「やっぱり、まだ寝ていた方がいいね」
「まあ、それが普通だよな。ちゃんと家まで送ってくから、安心して寝てろよー」
レクスの口調は、朗らかそのものだった。しかし、シオンは固まる。
家。家とは、どこだろう。
そういえば、とシオンはさらに思った。名前以外、何も思い出せない。
自分はどこに住んでいて、一体どこからやってきた?
「……わ、からない」
「は?」
「俺……どこに、住んでたっけ」
シオンの途方に暮れた言葉に、さすがのヒエンも硬直した。レクスの方は、口を開け放ったままシオンを凝視している。
室内に、気まずい沈黙が満ちた。おそらくはどこかの宿の一室なのだろう。「残したらぶち殺す」とドスの利いた女の声が微かに聞こえた。
たっぷりと時間を浪費したところで、ようやくヒエンが動いた。こんな状況でも、彼女の翡翠色の双眸は平静さを保っているように見える。
「君は、シオン。それは間違いない?」
「う、ん。それは、合ってる。たぶん」
「住んでる場所。他に、わからないことは。思いつく限りでいいから」
シオンは、必死で考えてみる。
まず、住んでいた場所は確実にわからない。後は、後は。
「ええ、と、住んでた場所と……」
が、彼の言葉はそこで途切れてしまった。わからないのだ。何もかも。
どうやら自分は、影に食われかけたらしい。影のこと、影檻のことは覚えていた。しかしおそらくは、それ以前の記憶が根刮ぎ消えている。まるで、そこだけ意図して奪われたかのように。
シオンは、俯いて首を振った。やはり、何も思い出せない。
その様子に、レクスが唸った。
「こ、れは、影に食われかけたから……その、ショックか?」
「そうかもしれない。それか、記憶だけ食われたか」
「記憶だけ?」
怪訝そうなレクスに、ヒエンが頷く。
「影は、人の魂を食う。記憶だって魂の一部だから。それを食わない保証はない。逆に言えば、シオンがこうして意識を取り戻せたのは、影が真っ先に記憶に食いついたからかもしれない」
「まあ……そう、か?」
釈然としない様子のレクスを放って、ヒエンはシオンに視線を合わせた。じっと見つめられて、シオンは反射的に目を逸らす。
胸の内で、もやもやと妙な感覚が沸き上がった。少なくとも、愉快な感覚ではない。
シオンの視界に入り込む、前髪の先。それはまるで、影を纏めて固めたような漆黒だった。
ヒエンはふと目を逸らすと、椅子の背にかけてあった外套を掴んだ。黄土色で、膝の辺りまで丈があるものだ。
「君を食った影には逃げられた。きっと、まだこの近くにいる」
ぴんと張り詰めたその声に、床を転がっていたレクスがようやく立ち上がった。翼を引っ込めると、シオンに手を差し伸べる。
シオンはきょとんとした表情で、その手を見つめた。
「ほんとは、まだ休んでた方がいいと思うんだけどさ。うちのリーダーはせっかちだからな」
「今ならまだ間に合うって話だよ。他の影檻に先越されたら、元も子もない」
二人の言葉を聞いても、まだシオンはベッドから起き上がれなかった。やはり、頭の回転が鈍い。
どういう意味だろう。この二人は、何を言っている?
一向に動き出さないことに痺れを切らしたのか、ヒエンがレクスを押し退けてシオンの首根っこを掴んだ。少女とは思えない、凄まじい腕力だ。
ぶら下げられたことで首が締まったが、シオンはただ呆然と目の前の赤髪を見つめることしかできなかった。
三人は、再び町の外れにやってきた。
元々聖火の恩恵を受けられる範囲は決まっていて、無論町はその範囲内でしか栄えない。しかしこういった小さな町では、その境界線を明確に示す市壁を立てる金がない。
必然、町の外れは人気も家もなく、住処にあぶれた浮浪者や遊び場に飢えた子供たちが集まることになる。犠牲者は大抵、その中から選出されることになるのだ。例えば、今回のように。
ヒエンに引きずられていたシオンは、目的地に到着した途端大きく咳き込んだ。
ずっと首根っこを掴まれていたのだから、必然である。レクスが気の毒そうな目をしながら、彼の背中を撫でた。
そんな二人を後目に、ヒエンはそこら中をうろうろと徘徊していた。
さすがに影が出没した直後とあって、人気は完全に絶えている。子供たちが置き去りにしていったボールや、縁の欠けた皿、コップなどが転がっているばかりだ。
町の中心からは、風に乗って就寝を促す鐘の音が聞こえてくる。人がいないのは、そのせいもあるだろう。
シオンは、思わず肩を抱いた。町の辺境という自覚があるせいか、やけに肌寒いような気がする。町の中心、高い位置に据えられた聖火台も、さすがにここからでは見えなかった。
「やっぱり、まだ気配残ってんな」
「……影、の?」
「ああ、がっつり残ってる。寧ろくっせえくらいだよ」
大仰な仕草で鼻を押さえるレクスを見ていると、思わず笑みが漏れた。記憶は相変わらず定かではないが、何とかなりそうな気がしてくる。
早くも両翼を出して羽ばたかせているレクスを後目に、そこらを徘徊していたヒエンが戻ってきた。能面のような無表情は、相変わらず微塵も揺らがない。
彼女のあの表情は、意図的にそうしているのだろうか。シオンは思わず首を傾げる。
心中に湧き上がる違和感。何かを無理矢理押し込めているような、そもそも感情を表出すること自体諦めてしまっているような。
「あの影は、あれからこっちには来てないみたい」
「まあ、あんだけやられればな」
「でも、道半ばで邪魔されたわけだから。シオンがここにいれば、必ず来るよ。食いそびれた分、飢えてるだろうし」
「お腹、空いてる?」
「うん? まあ、そうだね」
シオンの言葉はそこはかとなく的外れだったが、ヒエンは事も無げに頷いた。
「シオンだって、大して美味しくなさそうなもの出されても、お腹空いてたら食べたくなるでしょ」
「うん。お腹空いてたら何でもいい」
「それと同じだよ。影に私たちと同じ感覚があるのかはわからないけど」
シオンは、何事もなかったかのように頷いている。
困惑げにしているのはレクスだけだった。シオンが鈍感すぎるのか、それとも心が海原の如く広いのか。
町の方向から吹き抜けた風が、境界線の外に広がる木々を震わせる。
聖火の恩恵を受けられない範囲は、すなわち全く開拓が進められない場所だ。生え放題になった藪、枝葉が伸びるだけ伸びきり、絡み合うところまで到達した木々。蔦草も至る所に食指を伸ばしているが、境界線からこちらには決して踏み込めない。
町や村から外れた場所にあるものは、いかなるものであろうとも影の浸食を受けている。一度そうなってしまえば、もう火のある場所には入れないのだ。
その木立が、一斉に震えた。一瞬高くざわめき、瞬く間に鎮まる。
重圧を伴った静寂に、シオンは思わず後退さった。予兆を孕んだ静けさが、ずっしりと肩にのしかかる。
「空気読んでくれると嬉しいなー」
「そうだね」
刹那、辺りに漂っていた薄闇が収束した。ざわざわと渦巻き、一際色濃くなる。
現れた影は、やはり狼の形をしていた。しかし以前現れたときよりも、明らかに精巧さが増している。黒一色で構築された体にも関わらず、柔らかな体毛の質感すら忠実に再現されていた。
吹き飛ばされたはずの頭も復活している。黒い眼が爛々と輝き、三人を睥睨していた。
「おおう、パワーアップしてるな」
「周りの影を吸えるだけ吸ったんだろうね。あっちも、態勢は整えてたってこと」
シオンは二人の声も耳に入らなかった。
見下ろしてくる狼の瞳。真っ暗な奈落のようなそれに、吸い込まれそうな感覚に陥る。
彼は直感していた。自分は、この目を知っている。
反射的に、右手首の腕輪を掴む。硝子玉の冷たい感触が手に伝わってきた。
そういえば、自分は何故この腕輪をしているのだろうか。これは、一体何だ。
その疑問を察したように、狼ががぱりと口を開いた。黒塗りの、巨大な舌が晒される。そこに、黒以外の輝きが一つ。
「……何、で」
シオンは、呆然と呟いた。ある程度距離は離れている。が、舌に乗ったそれが青く光るビーズであることは確かだった。複雑な色合いを織りなす、手編みの紐の色さえ同じだ。
シオンの右手首にはまるものと影の舌に乗ったものを見比べたレクスが、唖然とした様子で口を開け放つ。その反応が、シオンの認識が正しいことを物語っていた。
「ヒ、エン」
ヒエンはやはり、常通りの無表情を向けてくる。
シオンは無意識のうちに、彼女に縋るような眼差しを向けていた。自分の右手を差し出す。
「これ、何?」
幼子のように心許ない声音だった。ヒエンは暫しシオンの腕にあるブレスレットを見つめてから、影がこれ見よがしに提示した腕輪を見やる。
シオンは自ら尋ねておきながら、その答えを聞きたくないと思った。聞きたくない。聞いた瞬間、ここにいる自分がどこかへ消え去ってしまうような気がした。
やめてくれ。しかし心の内でいくら叫んでも、目の前の少女には届かない。
身勝手な思考を、ヒエンは許さなかった。彼女自身がそれを意識しているか否かは別として。
「それは、家族の証だよ」
その一言で、シオンの脳内は一瞬で漂白された。
かぞく。家族。それは、どういう意味だろう。この影は、何だ?
彼の動揺を余所に、言葉は容赦なく続いた。
「親は、まだ自立してない子供とお揃いの手編みの装身具を作る。必ず、硝子のビーズを使って。残念だけど、君の親も影檻だ。たぶん父親だね。この影は……きっと、君の親を食い破った」
ヒエンは、さらなる爆弾を投下した。
親が影檻で、この影は、父親を食い破った。
脳内で、何かが破裂する。内側から頭を抉られるような衝撃に、シオンはその場で蹲って呻き声を上げた。怒濤のように、記憶が蘇る。
暗闇の中でぽっかりと浮かび上がる、ケースに入った聖火の光。恥ずかしくても、あまりの不安に父の手を離すことができなかった。そういえば父親の顔は、どことなく青白かったような気がする。
そもそも、何故逃げるように村を出たのか。
答えは決まりきっていた。彼らは、異物として駆逐されたのだ。
影檻は、影をその身に宿して戦う。彼らは王都を始め大抵の場所で英雄として扱われるが、何事にも例外は存在する。
そうだ。父親は、影檻だった。母親は、既に病気でこの世を去っている。血が繋がっているからという理由で、シオンもまた村を追われたのだ。
お前たちの髪と目が黒いのは、お前たちもまた影と同じだからだと。
そして、脳裏で一際閃光を放つ光景。
分厚い闇の中で、見慣れた父の背中が膨れ上がる。二倍以上に盛り上がった体は、人の面影など完全に失っていた。一瞬奇妙な均衡を保った肉の塊が、音高く破裂する。びちゃびちゃと響く、水音。
気付いたときには、圧倒的な存在感と密度を誇る影が目前まで迫っていた。
一体、何が悪かったのだろう。村の影檻を根刮ぎ追い出した新しい村長か、流されるままになってしまった自分たちの自業自得か。
その影が、目の前でゆらゆらと揺れている。真っ黒なタールのような涎が、口の端から滴り落ちた。
振り返ると、ヒエンが泰然と佇んでいた。聖火のような、緋色の髪が揺らめく。
緑色の瞳は、まさに暗闇の中で見つけた町だった。きらきらと、細かな光を放っている。
「君には、影檻の素質がある」
噛んで含めるような口調に、シオンは自然と首肯していた。
そう、きっと、自分には影檻になるべき資質がある。でなければ、何のために村を追い出されたのか。
「君が影檻になるというのなら、私たちがそいつを細切れにしてあげるよ」
例え密度の高い影でも、極限まで弱らせれば取り込むことができる。
父の体を食い破った影。それを取り込むことができれば、敵を討ったことになるだろうか。
シオンの前に聳える影は、ぴくりとも動かない。その代わりのように黒い涎だけが湯気を上げている。
シオンはもう一度、影に向き直った。青い硝子ビーズが見える。
始めから、迷いはなかった。シオンは一つ頷くと、ヒエンに向けて笑みを浮かべた。右の頬が、僅かに強張る。
「うん。バラバラにしちゃって」
その言葉を皮切りに、ヒエンが前に出た。前方に翳したその両手が炎に包まれ、辺りを赤く染めた。
どこか慌てたようにレクスが翼を動かす。準備運動のように何度か羽ばたき、次の瞬間には空に舞い上がっていた。
漆黒の両翼が空に軌跡を描き、炎が宙を滑る。
ああ、本当に飛べたんだな、とシオンは思った。
ぐにゃぐにゃと、視界が歪む。
シオンはベッドの上ですっぽりと布団を被り、震えていた。
これ以上は、何としてでも避けなければならない。しかし彼の決意は、胃の辺りからこみ上げてきた熱で呆気なく陥落した。
「……う、おええっ」
布団から顔を出し、ベッド脇に据えられていたバケツに突っ込む。勿論、息を止めることは忘れない。怖気を誘う水音と共に、食道を焼き尽くすような液体が凄まじい勢いで走った。
その様子を、レクスが半笑いで見守っていた。椅子の背もたれに顎を乗せ、椅子の足一本を使ってくるくると回転している。
一方、ようやく吐き気が治まったシオンは、布団から顔だけ出したままぐったりと横たわった。顔色は青白さを通り越して土気色で、些かやつれたようにも見える。
「き、いて、ない」
「んー?」
「聞いて、ないよ……こんな、きついって」
譫言のような言葉に、レクスがけたけたと笑う。椅子の回転が、さらに加速した。
「よく考えてみろって。仮に影を取り込んだ瞬間三日三晩吐き気が止まんなくなるとしても、んなこと言うわけないだろ。素直に字面だけ受け取ったお前が悪い」
「むり。しぬ」
「だーいじょぶだって。吐き気で死ぬ人間はいないし、俺だって吐きまくったし。寧ろお前だけ吐き気なしとか不公平だわ。もっと吐け。吐きまくれ」
「むり。しぬ。むり」
再びバケツに顔を突っ込んだシオンを見てか、椅子の回転がようやく止まる。薄っぺらい木の床は強烈な摩擦のせいで黒ずんでいたが、お構いなしだ。
レクスは座ったまま椅子をベッドのそばまで引きずると、背中から翼を出現させた。そのまま緩やかに羽ばたき、風を起こす。
ただ単に仰がれているだけだが、それでも心地良く感じてしまう辺り相当弱っているのかもしれない。シオンは蓑虫状態のまま目を細めた。
「……そう、いえば、ヒエン、は?」
ようやく吐き気が治まってきたので、シオンは一つ息を吐いてから言った。
それでも油断はせず、態勢は蓑虫のままだ。下手に動き回ったり身を起こしたりすると、簡単に再発する可能性がある。
ナメクジのように緩慢に動くその様子に噴き出しかけながら、レクスはテーブルに乗っていた水差しからコップに水を注いだ。
「水、飲めるか?」
「飲む」
差し出されたコップを受け取ると、シオンはやはり注意深く嚥下していく。
「ヒエンなら、武器の調達に行ってるよ」
「……ヒエン、武器なんて使ってた?」
シオンは空になったコップをレクスに渡して首を傾げた。
ヒエンが戦っているのを見たのは一度だけだが、彼女は武器らしい武器を使用していなかった。それどころか、ヒエンは“火を使って戦ったのだ”。あれも、影檻としての能力の一端なのだろうか。
しかし、レクスは苦笑いするばかりだ。
「ヒエンも、まあなんか買ってくるだろうけど。なんかお前の分買ってくるって言ってたな」
「俺の?」
「まあ、俺もよくわかんないけど。とりあえず、言った以上は買ってくるだろうな」
武器。そんなに酷いものは売っていないだろうが、やたら使いづらいものを渡されたらどうしよう。
思わず縋るようにレクスを見たが、あからさまに視線を逸らされた。
その反応があまりにも顕著で、さらに不安が掻き立てられる。
そこへ、廊下からやたらと弾んだ足音が聞こえてきた。下手な鼻歌まで響き始め、それはどう考えてもヒエンの声だった。
吐き気とは無縁の悪寒がこみ上げてきて、シオンは堪らず布団の中に顔を引っ込めた。レクスの甲高い笑声が聞こえる。
どうやらツボに入ったらしく、明らかに椅子から転げ落ちたような音がした。その後も、床を蹴りつける音が聞こえてくる。
きっと、帰ってきたヒエンに蹴られるだろう。
それは少し見てみたい気もしたが、後で大目玉を食らいそうでシオンはただ薄暗い布団の中で息を潜めていた。