第0章:池に飛び込んだ真っ赤な林檎の真っ白クリーム和え
『トラオム・クーヘン』
0 池に飛び込んだ真っ赤な林檎の真っ白クリーム和え
厨房の白い人造大理石に紅い液体がポタリポタリと落ちる。
紅い液体は大理石に落ちると、空気に触れ、赤黒く変色を始めた。
血だ。
血の惨劇の現場には、ボサボサの黒髪ボブカットで漆黒のエプロン姿の青年が一人。
洋菓子店【サン・セルジュ】の店主であるサミュエル・ファシュは厨房に佇み、真っ赤に染まった自分の左手をじっと見つめて思考を停止していた。
思考を停止している間にも、左手首から溢れている血は止め処なく溢れ続け、白い大理石には赤黒い液だまりが複数構成される。
大理石にとどまらず、サミュの着ているシャツも真っ赤に染まり、黒いエプロンにも血液が染み込んでいく。
「マスター、どうしたんですか血まみれじゃないですか!」
サン・セルジュの住み込みウェイター、クルス・ボッカがサミュの左手の惨状を見て厨房へと駆け込んできた。
クルスの言葉にサミュはボサボサの髪を揺らしながら、涙目でクルスの方向を振り向く。
「ど、どうしよう、クルス。俺……」
サミュは自分の仕出かしてしまったことの重大さに言葉がしどろもどろになる。
「とりあえず、止血するんでジッとして下さいね」
クルスは急いでポケットから白いハンカチを取り出し、左肘辺りで縛る。徐々に流血の量は減少する。
「一体、どうしたら厨房がこんな惨状になるんですか?」
サミュは目に涙を浮かべながらクルスの質問に答える。
「えーっと、新商品のケーキは林檎を使ったのがいいなぁっと思って、レシピを開発して、いざ始めようと、林檎を取り出したまではいいんだけども……」
「それから、どうしたんです?」
涙目のサミュが指差す。そこには血塗られた包丁と血まみれの林檎が転がっていた。
「林檎の皮を剥こうとしたら……手首切った」
恐ろしくドジな男、サミュエル・ファシュがこの街一番の菓子職人だなんて誰もが目を疑いたくなるが、しかしこれは事実である。
白い石畳と赤い煉瓦の街並みが映える、タンツェルン街。
商業にとても力を入れており、今日もタンツェルン駅の周りを囲むマーケット街には、新鮮な生鮮食品やパンなどの加工食品、手作りの民芸品などあらゆる店が軒を連ね、地元の人のみならず、観光客も入り混じりとても賑わっている。
そんなタンツェルン街にはマーケット街以外にも商店通りが、ミラー・ド・ヴァン通り、テランシコープ通り、カッツローニ通りの三箇所あり、こちらもマーケット街に負けないような活気に満ち溢れていた。
その商店通りの一つテランシコープ通りの一角に、サミュエルが経営する洋菓子店【サン・セルジュ】はある。
サン・セルジュのイートインスペース、サミュはクルスに手当てを受けていた。
「これでいいでしょう。暫くは手首を激しく動かさないで下さいね、また血が噴き出しちゃいますから」
クルスに包帯を巻いてもらい、サミュは左手を擦る。
「全く……林檎の皮を剥くだけの単純作業で、どうして手首なんか切れるんだか」
サン・セルジュのもう一人の住み込みウェイター、イスモ・カケラは雇い主であるサミュに毒づく。
「今日は定休日だから良かったけども、ドジにもレベルってもんがあるだろ。マスターがするレベルのドジは萌えないし、笑えもしない。
菓子職人していること事態が奇跡とか世間様は言うんじゃないか?」
「……」
イスモの口から吐かれ続ける毒に、サミュはぐうの音も出ず、頬っぺたを膨らませる。
サン・セルジュでの上下関係は、ドジなサミュエルを筆頭に、サミュエルの手当て係のクルス、ツッコミ係のイスモというメンバーで、日々循環していくのであった。
サミュが頬を膨らせたままズボンのポケットに入っていた懐中時計を取り出す。
蓋を開けると、時計の文字盤は奇妙な文字の羅列で、時計の針は曲がりくねったような形で常人では正しく時間を知ることは出来ない。
「ふぅ、そろそろ三時か。特別客のお越しは確か三時半だったなぁ。二人とも丁重におもてなしして下さいな」
懐中時計の蓋を閉じると、サミュは厨房へ赴き、調理を始めた。
トントン。
時は午後三時半。定休日なのにも関わらず、サン・セルジュの扉に備え付けられているフォーク型のドアノッカーを何者かが叩いている。
その音を聴き、クルスがゆっくり扉を開けて客人を招き入れる。
招き入れられた客人は、白のシフォンスカートに薄桃色のシャツを着た、見た目年齢十五歳くらいの少女。
少女の眼は虚ろな目で何処か一点しか見ていない。
「カロル様お待ちしておりました。特別室への招待カードはお持ちですね?」
少女は何かに操られているかのようにすっとクルスに“特別室招待状”と箔押しされたカードを見せる。
クルスはそれを確認すると、サン・セルジュ一階奥にある扉へと、イスモと共に少女をエスコートする。
扉前へと着くと、扉に“特別室”という文字が浮き上がり、自動で扉が開かれる。
開かれた先には、床は一面赤色の絨毯、天井は高く、照明はシャンデリアで菓子店の一室にしてはかなり異質な部屋。
その中央には真っ白なテーブルがあり、そこへ少女を座らせる。
「カロル様、よくぞいらして下さいました。カロル様の為に作った特別メニュー、どうぞ御堪能してください」
サミュはテーブルに少女の為に作ったケーキと紅茶を置く。
ケーキはラズベリーを中心としたベリータルト、紅茶はハチミツ入りのストロベリーティー、食器は桃色の花びらのデザインで、全体的に少女の着ているシャツのようにピンク色に統一されていた。
少女は虚ろの目でケーキを食べるや否や、すうっと眼を閉じ、動かない。
「さて、一仕事しますかね」
サミュはエプロンと三角巾を取り、少女の元へと近づいていく。そして肩をポンと叩いた。
叩かれた少女は覚醒することなく首を前にカクンと倒す。
「これから君は、あの夢の中へと誘われる」
少女の耳元でサミュは声色を変えて語りかける。
「さぁ、思い出してご覧? 君の見たその夢を」
サミュの声は深く少女の心の中へと浸透する。浸透した言葉は少女の心の中で反芻し、やがて少女は夢の再構築を始める。
再構築を始めた少女の胸から、ぼうっとパズルのピース型の断片が次々に出現し、サミュの目の前で集まって重ね合わさっていく。
再構成が終了し、サミュの前には少女の為に出したベリータルトと全く同じものが出現していた。
宙に浮いているベリータルトの中では、少女と少女と同じ位の年齢の少年が仲睦まじく、手をつないでタンツェルン街の市場通りを歩いている映像が流れていた。
「ほう。思春期の少女によくある、恋する気持ちが夢として現れ、人間が食べる物以上に甘酸っぱい仕上がりになっているな。
さて、美味しいものは新鮮なうちに頂かないとね」
サミュがそう言うと、サミュの足元に魔方陣が出現。
その魔方陣が強く光を放つと、サミュのトレードマークであるボサボサの黒髪は、ストレートな白髪で床に付くほどの長髪に変貌し、長い髪は三つ編みで纏められていた。
手首に巻いてある包帯も解け、包帯は地面に落ちる。手首にあった怪我は既に治癒が完了され、傷跡一つ見えない。
コゲ茶色のやる気のなさすぎる瞳は、緋色の猫眼に姿を変え、その姿は異形の者そのものであった。
変貌を遂げたサミュは、少女の夢で出来たベリータルトを自らの口へ運び、パクリと一口でケーキを食べる。
「んー、酸っぱい。やっぱ青春の甘酸っぱさは、コレぐらいの酸味がないとねぇ。
人間がコレを味わうと、酸っぱさで卒倒ものだろうけど」
お口直しにその場にあった紅茶を啜りながらサミュは指を鳴らすと、空間に亀裂が生まれ、激しい音と共に割れる。
空間が割れるのと同時に、サミュは元のボサボサ髪とやる気のない眼に戻り、豪華絢爛の特別室は消えていて、いつの間にかサン・セルジュのイートインスペースに移動していた。
「さぁ、眠り姫には起きていただかないとね」
サミュはそう言って軽く指を鳴らす。
「ん……私は……」
サミュが鳴らした指の音を合図に、少女が眼を開ける。
「おっと、気が付いたようですね」
クルスは少女にカモミールティーを差し出す。
「あっ、ありがとうございます。あれ? 私、家に居たはずなのに」
カモミールティーを飲みながら、少女の頭には疑問が残る。
「入り口前に倒れていたのを従業員のイスモが見つけたんですよ。さっ、日も暮れていますから、私が家まで送りましょう」
少女はクルスに付き添われて、家路へと向かった。
「今回のメインディッシュも格別だったなぁ」
サミュはサン・セルジュ二階、居住スペースの自身の書斎兼応接室で満足そうにレシピ本を眺めながら呟く。
「お菓子に瞬間催眠の魔術を施して、上質な夢を持つ人間を探し、暗示に掛かった人間には特別室の招待状を送って、その特別室で暗示にかかった人間の夢を頂く。
夢魔が人間界でエサを求めて菓子店を開いているだなんて、誰が想像出来るだろうね?」
イスモはそう言いながら、応接間の革製のソファでくつろぐ。
「イスモ、何回も言うけどさ、俺はインクブスみたいな下級な野郎とはまったく違って、か弱い女性の寝込みを襲って孕ませたり、精気を吸い取ったりしない。そもそも、そんな気分がまったく出ないし。
それに、夢魔みたいな下級の存在が、イスモやクルスのような存在を召喚することは出来ない。だから俺をそんな下級の奴らと一緒にしてもらうと困るわけさ」
実は、イスモとクルスはサミュによって召喚された、バクである。サミュが魔力を注ぎ込むことによって人型に変身し、こうして住み込みウエイターという形をとっている。
サミュはレシピ本を閉じると、本棚に向かい、また違うレシピ本を取りし、読み始める。
「じゃあ、マスターは一体何者なのさ?」
イスモの言葉にページをめくる手が止まる。
「それは……ひ・み・つ」
サミュは右手人差し指の先を唇に当てニッコリ微笑んだ。




