盲の姫
昔々の物語である。
この世は光と闇の法則に従って存在し、光の神々が、リンダ大陸をよみしたもうていた。神々のお一方が、ある日人を狩る遊びを始めた。そのあまりの残虐さに、この神は地上に落とされた。神は怒り狂い、唾を吐いた。ここから、人の世とは違う木々が生え、森となり、神はこれを黒く彩った。
当時この世には卑小な魔物が存在していた。神の目から漏れ、祝福されなかった、哀れないきものたちである。
しかしこの時より、彼らはその領域を与えられ、よってついには、人を脅かす存在となった。
魔物たちは、この神を主と崇めた。
神はこれを受け入れ、魔王として君臨した。
背徳の神の名は、イヴュリール。
森の名は、還らずの森。
真に還らないのは何か、語られはしない。
リンダの天領とダイエ公の領地が接するあたりから、遠くカーラル山まで続く森があった。森は、神々のすむ白いカーラル山とは対照的に黒々とし、その深奥に、闇の領域を秘めるといわれていた。また、迷い込んだ旅人が、誰一人として戻らぬ事から、還らずの森と呼ばれていた。肥沃な土地ではあり、いくつもの支流をもつアルエ川が流れこみ、また小獣や実生持つ木々も多いに関わらず、森は手つかずの地であった。森の辺縁は、わずかづつ、各公領がかかっていたが、ときおり公家たちのために狩りをするとき以外、領民は足を踏み入れようとしなかった。
しかしそれでも、やはり森には営みがあった。
盗賊や罪人が潜伏し、闇の御技を求める魔法師が庵りを結び、そしてまた、人目を忍ぶ恋人たちや人の世では暮らせぬ恋人たちが、森の中には息づいているのだ。
ダイエ公の三の姫エイシャは、幼い頃の熱病が元で、目が見えない。公はリンダの圏内を巡り、その目を癒す薬師を求めたが、得られなかった。高名な魔法師にも諮り、その一人は、一時的に視力を与えることに成功したが、長くは続かなかった。
公も悲しんだが、姫の母御はもっと嘆いた。
やっと幸福になれた(と信じた)娘が、再び闇にとらえられたのだ。来る日も来る日も泣き続け、当のエイシャ姫に慰められる始末であった。
「森に人を遣ってくださいませ」
嘆きの日々の末、常軌を逸した目で、姫の母御が公に迫った。
「森には、俗世では考えられないほど強力なお力を持った魔法師がいると聞きました。その方ならばきっと、エイシャに光を与えてくださいます。お願いでございます、森に人を、遣わせてくださいませ」
「しかし奥よ、」
美しい金の髪を振り乱した奥方に、かなりの戸惑いを感じながら、ダイエ公は言った。
「しかし奥よ、いったい誰を遣わせというのか。森は我らの領域ではない。ただ屈強なだけでは、目的を遂げて、還らずの森から戻ってくることはできぬぞ」
「公のお力で、誰ぞを探してくださいませ。リンダの圏内で、主上その人に次ぐ権勢をお持ちの公が、ご自分の娘のために、そのくらいのことができませぬか。それとも、わらわの子など、そうする価値がないと思し召しですか」
枯れ果てぬ涙をまたも流して、奥方は公の足下にすがりついた。
奥方は、確かに正気ではなかった。
いま魔法師なり薬師なりが必要なのは、あるいは奥方ででもあったろう。
しかし公は、奥方を不憫と見た。十以上も年下の、まだ若い妃を、いじらしく感じた。
「承知した、奥よ。必ず誰ぞを遣ろうぞ」
こうして公は、エイシャ姫のためと言うよりはむしろ奥方のために、森への派遣を決めたのであった。
還らずの森の南端、天領にかかる地点で、アルエ川は小さな沼を形作る。沼の周囲は開けた草原となっており、森に入った狩人に、その領域を知らせるいい目印となっていた。これより咲き、森は明らかにその植生を変え、聞こえる獣の声も、なじみのないものとなる。
新月の夜、しばしばここで、鬼市が開かれた。
そう大きいものではむろんない。
主に盗賊が、自分たちの獲物を売り買いするものだった。また力ある魔法師や妖術師が、普通では手に入らない業の材を求めて、やはり鬼市に集まってきた。
いつ頃からかここに、まだ若い娘が姿を見せるようになった。
銀の髪と紫の瞳を持つ、美しい娘だった。何より、その腕に漆黒の鷹を安らわせて歩く姿が、鬼市に集まる人の目を引いた。
大きな鷹と、その爪にかかってしまいそうな銀の娘。
そこには、一枚の絵のような気高さと、同時に何か目をそらさせる禍々しさがあった。
娘は、セレンと名乗った。銀という意味である。そして時折、美しいセレンよりもさらに美しい男が、その傍らに立つことがあった。連れというわけではないのか、いつもは見かけない。鷹が嫌いなのか鷹が嫌っているのか、娘の腕に鷹がいないときにだけ、この男は姿を見せた。
鬼市に集まる人間は、それぞれの事情を探ったりはしなかったが、短い会話の端々やその身のこなしから、おおよその見当がついた。元々が、似た傷を持つ同士である。
しかし娘は、誰にとっても謎であった。
盗賊や、殺人者の臭いはない。敏捷な身のこなしは踊りの素養を覗かせたが、ただの踊り子ならば、還らずの森に棲みつく理由はない。腰に下がる水晶と銀の高度な護符は、あるいは魔法師を疑わせたが、その業が見られたことはなかった。
そしてまた、件の男である。
まだ若い、上背のある青年で、ぬばたまの滝のごとき髪を、腰をこえて豊かに垂らして光沢のない黒い外套をほっそりとした肢体に巻き付けたその姿は、夜そのもののように見えた。象牙よりも白い肌に、繊細に形作られた目鼻立ち、薄い唇はほんのりと血の色を透かし、生き生きと輝く黒いほどに蒼い瞳を、ますます引き立てている。
うっとりとするような容貌であったが、人々は、男をよく見ることはなかった。
この美貌は、しかし同時に、えもしれぬ不安を呼び、目を逸らさせるのだ。
人々は男を、力ある魔法師と考えていた。
闇の御方と契約を交わした−そうでなければ、かような美しさを保てるわけがない−闇の魔法師。そしてセレンはその愛人。光満ちる土地を避け、人目をはばかっているのであろうと(人々は概ね、間違えてはいなかった。砂粒を見て砂浜を思いおこすように。それを覆い尽くす海や、海をのみこむ空までは、思い至らないまでも)。
「あの美しい男は、大変な力を持つ魔法師に違いない」「鬼市を訪れるどの魔法師よりも」「いやリンダの国の誰よりも」
人々はそう、ささやきあうのだった。
ダイエ公の館に、アシという名の少年がいた。以前は盗賊であったが、この一味がとらえられた際に、まだ子供とて許され、館で働くことになったのだった。
盲ではあったが、エイシャ姫は美しい少女だった。光を通さぬとは信じられぬ、透き通った青い瞳に、母御に似た淡い金の巻き毛。すんなりと細いのどや、ふっくらとしたバラ色の頬に、アシは一目で恋をした。
エイシャ姫のために、還らずの森に入る者を探していると聞かされたとき、アシはすぐに、公のもとに名乗りを上げた。
「俺は以前、森で暮らしたこともあります。魔法師の集う珍しい薬草のあるところもわかります。俺なら、還らずの森に入って、帰ってくることができます」
アシ少年の真剣な目を、公は斜めに受け止めた。
若い。
大事を頼むには、あまりにも若い。
しかし確かにこの少年は、領内で一番、森に詳しいと言ってもいいだろう。それに、たとえこの少年を失ったところで、自分には何の不都合もない。仮にうまく魔法師を連れ帰ったとしても、そう高価な恩賞を出す必要もないであろう。
公はもう一度、今度は幾分真剣に、アシを見やった。
そう、もしも、エイシャの目が癒えたならば。あの器量であれば、あるいはリンダの皇室に入ることも可能であろう。そうなれば、自分の権勢は、今以上に高まっていく。
それに賭けて、なにかまずいことがあるか? よしんば巧くはいかなかったとして、なんぞ損をすることもない……。
「よくぞ申し出てくれた、アシ。十分な支度を調えてやろう。エイシャのために、頼んだぞ」
「はい」
喜び勇んで、アシは返事をした。
さて、当のエイシャ姫は、何一つ不自由を感じることなく暮らしていた。幼い頃から盲いていたため、それこそが自分の世界であったのだ。自分のことは自分で何でも行えた。物語は側女が聞かせてくれたし、絵画に興味を持ちはしなかった。前に一度、目が開いたときに、色にあふれる世界を知り、そのみずみずしさに感動したが、所詮自分のものにはならないと、わかっていた。したがって、再び闇に閉ざされても、少しも悲しみはしなかった。遠い異国の風景のごとく、楽しみはしても、欲しはしなかったのだ。むしろ盲いた元の世界に、安らんだほどであった。
アシが還らずの森に行くと聞き、エイシャは悲しんだ。アシがいなくては、誰も自分を仔馬に乗せてはくれないだろう。館の庭を出て、花の匂いのする草原に遊びに行ったり、いろいろな街のおもしろい話しを、してくれる人もいないのだ。
エイシャは還らずの森がどんな場所なのか、知らなかったし、アシは森のほんの入り口まで、高名な魔法師を迎えに行くのだとしか、聞かされていなかった。
「気をつけて行ってきてね、アシ。わたしくしはお前と遊ぶのが一番楽しいの。だから、気をつけて、そして早く帰ってきてね」
光を通さない、夏空のような青い瞳を茫洋と向けて、エイシャはアシに、そう言った。
ダイエ公の館を出て、北に旅をして四日。
アシはようやく、還らずの森の入り口にたどり着いていた。
目の前の森は、一見何の変哲もない木立に見える。誰もがよく知っている木々が、広げた枝を風にゆらし、下生えもあり、かすかに小道も見える。
ここはまだ、人の領域であるのだ。
アシは森を、よく知っていた。
中に踏み込んで一刻もすれば、そこはもう、鬱蒼たる暗い樹相に変わる。わからないつたや下葛が足を取り、張りだした根が行く手を阻む。
だがそれでもまだ、そこは人の領域だ。
やがて樹相が再び見慣れたものとなり、徐々に明るさが増し、不意に開けた原に出る。原の向こうに小さな沼、その前後に川があったなら、これが目指す地である。
還らずの森にいるという、強大な力を持つ魔法師を連れてくること。
これがアシの使命である。途方もない命に思われたが、実はアシには当てがあった。盗賊であった頃、一味の親方が、なにがしかの獲物を持って還らずの森に入るのを、アシは知っていた。
そこで鬼市が開かれるのだ。
そこでは、獲物を捌く盗賊と、それを買い受ける怪しげな商人の他に、他では手に入らないものを求める魔法師もいた。中には、<中央>でしか会えないような、高名な魔法師もいると聞いて、ずいぶん驚いたものだった。それが行われるのが沼の側の原−同時にそれは、森の不可侵域との境界でもあった−であり、新月の夜なのだ。
夕闇が迫っていた。
もしも森の中で、鬼市にたどり着けないうちに日が暮れたならば、それはそのまま死につながるだろう。たとえ人の領域であろうとも、森の獣は容赦はしない。ここから見える高い枝にとまった鷹にとっても、アシはよい獲物であるかもしれないのだ。
逡巡したが、結局は今すぐ、森に入ることにした。
原までは、三刻ほどのはずだ。ぎりぎり日暮れには間に合うだろう。それに、新月は今宵である。この機会を逃しては、力ある魔法師に会えないかもしれない。そしてどのみち、夜でなければ、帰らずの森に棲む人々には会えはしないのだ。ならば、いつであろうと同じであろう……。
公が持たせてくれた大振りの剣に手をかけて、森に踏み込んだ。
鷹の羽ばたきが、聞こえた気がした。
沼の傍らにセレンが立ち、何かを待つように、暗い木立を覗き込んでいた。傍らに、漆黒の鷹はいなかった。
やがて薄闇の中から、闇の結晶のような男があらわれた。音もなく−黒い外套を、猛禽の翼のごとく翻した。
「イール」
セレンが、ほほえみを含んだ声で、男を呼んだ。
男は、歩むとも見えず歩むと、セレンの横にすらりと立ち、その髪に優しく唇を寄せた。「子供がお前を訪ねてくる」
「え?」
耳元での甘美なささやきに、セレンは軽く顔を上げた。それを再び引き寄せて、イールは続けた。
「少年だ。お前に、というよりわたしに、魔法を頼みに来るであろう」
「……気に入ったのね、イール?」
そっと右手を挙げて、セレンは彼の頬に触れた。冷ややかな白磁のごときに。
「まだ幼い愛だ。興味がある」
髪からその手に口づけを移し、イールはそっと瞳を閉じた。
そして辺りが暗くなり、鬼市の天幕に灯りが入る。
樹木と樹木が絡み合い、下葛に隠された倒木が足をすくい、つたが行く手を阻む。植生に優しさはうかがえず、夜の獣の不気味な咆哮が聞こえてくる。
かなり苦労して道を開きながら、アシは先へと進んでいた。畏れていたとおり、原にたどり着けないうちに日は沈んだが、森は存外明るかった。つたの中に、何か発光性の植物があるらしく、ほの明るいのである。しかしこの光は却って不安を呼び起こし、アシは動悸を鎮めることができなかった。
努めて、エイシャ姫のことを思った。
朝日の金の柔らかい髪や、光り輝く夏空の瞳。何よりも、あの笑顔。
あの笑顔をもっと輝かせるために、夏空の瞳にお日様を取り戻すために、アシはここまで来たのである。
幾分落ち着いたとき、前方に明らかに人工の光が見えた。
ついにアシは、鬼市にたどり着いたのである。
長短三本の棒で、鑞引きした帆布を支えただけの、簡単な天幕がいくつも並ぶ。天幕の中で扱われているものは千差万別、獣脂ランプの横にレンの時代の貴重な書物が置かれ、ケラの葉の横に、確かに血の跡のついた宝石が並んでいる……。たくさんの厳つい男たちが、しかしさわさわと、風の音が聞こえるほどの静けさを保って取引はすすみ、それぞれ用の済んだ者たちは、足早に去っていく。
これが、鬼市である。
久しぶりに見るその光景に、アシはごくりとつばを飲み込み、しばらくは立ちすくんだ。記憶にある顔がいくつか見え、その中に確かに人殺しもいたと思えた。親方が、あれはおれ達の中でも最低の奴だと、魔王の印を切ってつばを吐いた男だ。
しかしいつまでもこうしてもいられない。アシはようやく覚悟を決めると、木立の陰で、そっと荷物を下ろした。中から、盗賊であったころの格子縞の覆い布を取り出すと、いかにも一味の使いっ走りらしく、頭に巻き付けた。何度も深呼吸を繰り返し、落ち着けと自分に強く言いきかせて、アシは鬼市へ入っていった。
目指すのは、魔法師か薬師の天幕だ。
そこで話を聞き、一番力の強い魔法師を探し出せばいい。後は、当たって砕けろだ。なんとでもして、必要なら自分自身と引き替えにでもして、お館まで来てもらうのだ。
それまでは砕けるわけにはいかない。
アシはうつむき加減に顔を伏せ、しかし目だけはきょろきょろと天幕の中を探り歩いた。
やがて一つの天幕を見つけた。妖しげな皮の本や暗い色の薬瓶が並べられ、いかにも魔法師といった風情の老人が、それを商っていた。アシは思い切ってこの老人に、強大な力を持った魔法師を探していると告げた。老人はしばらく考え、銀の娘を捜せと言った。その名はセレン。美しい銀の髪を持っているからすぐにわかるであろう。あるいは腕に、漆黒の鷹を安らわせているかもしれない、と。
何人かに訊ね、皆が同じ事を言った。腰に高度な護符を下げた魔法師然とした頭巾の男にも訊ねたが、やはり同じ事を言った。
アシは、だんだんに沼の方へと向かっていった。セレンはそっちの方にいると、中の誰かが教えてくれたのだ。
やがて外れの天幕に、簡素な衣服を着た、銀髪の女性がいた。漆黒の鷹はいなかったが、かわりに、漆黒の外套をまとった男がいた。
「あなたが、セレン様ですか」
頭巾を目深くおろしたその男に、なぜか薄気味悪いものを感じ、アシはなるべくそちらを見ないようにして、言った。
「俺、強大な力を持った魔法師様を捜しています。あなたなら知っていると、皆に教えられてきたのですが……」
それを聞いて、セレンは男にほほえみかけ、男が不意に、立ち上がった。
「お前の探しているのはわたしであろう。
来るがよい。話しは水のそばで聞こう」
まるで何か術に賭けられたように、アシは逆らうことなく男の後に続いていった。新月の夜、星明かりの中で、沼は光を吸いとるかのように黒々としていた。アルエ川が二、三歩でわたれるほどに細い流れとなったあたりで男は歩を止め、アシの方に向き直った。まだ、頭巾を下ろしたままだったが、うっすらと笑みを浮かべていることに、アシは気がついた。
「さて、希いを申してみよ」
その笑みは不快な感じしたが、逆らえず、アシは話し出した。エイシャ姫がどれほど愛らしいか、どれほど心優しいかに始まり、自分が館で働くようになった理由や、公がなんと言って剣をわたしてくれたかに至るまで、いっさい隠し立てをしなかった。いや、できなかったのだ。頭巾の下のはずなのに、強い力の目が心の底までを見据えているようで、熱に浮かされたように話し続けていた。何か、変だった。さっきまで寒いほどに緊張していたのに、いまでは温かい空気を感じるほどに、ほだされていた。
男は、黙って頷きながら、聞いていた。
時折セレンの方を向いて、首をかしげたが、口を挟むことはしなかった。
やがて、話しも尽きた。
眠りに落ちる熱病患者のようにふわふわとしながら、アシは男の声を聞いた。
「では、この薬を与えよう。お前のエイシャは、これでお前が望むとおりとなるだろう」
手に、何かの瓶があった。
「……あなた様は……」
夢うつつの中、闇と溶けあった男をしかとは見定められないまま、アシは言った。
「あなた様は、魔法師様なのですか? それとも、薬師……」
男が頭巾をとったのかとらなかったのか、はっきりとはしない。しかしとったのだと、後にアシは考えた。遠い原初の空間から響くような声と共に、闇の結晶かと見える底知れぬ蒼い瞳が、確かにアシの中には残っているのだ。
「……魔の領域を多少知ることによってその熱量を利用し、あるいはそこに生きるものに声を届かせることで魔を使う者どもを魔法師というのならば、わたしは魔法師ではないであろう。しかし、闇を知るという意味でなら、おそらくわたし以上の魔法師はおらぬであろうな。
そう、わたしは魔法師だ。
記銘しておけ、少年よ。イヴュリールがわたしの名。
その薬は、イヴュリールからの贈り物だ。用いる際には、だがよく考えよ。そなたの希うところは、果たして何であるのかをな」
眠りから覚めたとき、原にはもはや鬼市の跡はなく、ただその手に握られた青い瓶だけが、昨夜の出来事の証拠であった。しかしではいったい、昨夜何があったのか、しかとは思い出せず、エイシャ姫にこれを飲ませるのだと言うことだけを、覚えていた。
とにかくアシは、起きあがった。
もやもやとした頭をふり、今度は森の出口を目指して、再び木立の中へと入っていった。
公の館では、エイシャが、うつうつとして楽しまぬ日々を送っていた。
アシがいないと、誰もエイシャを外には連れ出してくれなかった。しかしそれは予想していたことだったし、あと三日も我慢すればよいと、わかっていた。
そうではなかった。
アシが旅立ったあとから、ダイエ公が、何かおかしいのである。
急に作法の時間を増やしたり、新しい夜会服を誂えたり、円舞ができなくてはと言いはじめたのだ。
「お前とて、そろそろいい年頃じゃ、いかように準備してしもすぎるということはない」
それが父公の説明であった。
年頃になったころ、姉君たちがそうしていたのを、エイシャは知っていた。しかしそれは、今の自分よりももう少し年長になってからのこと、近々大きな宴があるわけでもないのに、解せなかった。円舞は嫌いではなかったし、新しい衣装のさらりとした感触は好ましいものであったが、そのためにやってくる人々が、まるで自分が、何もできない自動人形のかのように接するのが、エイシャには不快だった。
そのようなある日の夕暮れ、館の中庭で涼みながら、エイシャは深いため息をついた。庭の真ん中ほどにおかれた噴水の水音が、静かさをいや増していた。
盲であったがために、エイシャは鋭い聴覚を持っていた。その耳が、遠くに大きな鳥の羽ばたきを捉えた。庭にはいろいろな鳥がやってきたが、こんなに大きいものは初めてだと、思った。
やがて、こちらに近づいていた羽ばたきが、消えた。大きな鳥だったから、自分の上では羽ばたくことなく行きすぎたのかと考えた。
自分の前に、人の気配を感じた。
誰、と、エイシャは小さな声で尋ねた。この中庭に入ってこられるのはごく限られたものたちだけである。彼らはエイシャを驚かさぬように、必ず先に名乗ったし、彼らの足音ならば、エイシャには聞き分ける自信がある。
今、前に立っているであろう者は、特に声を出すでなく、また足音さえ聞こえなかった。まるで、地面からわきいでたか、あるいは空から降り立ったかのようであった。
いくぶん恐れを感じながら、エイシャはもう一度誰何した。
「名は、必要なかろう、姫よ。なぜそのように楽しまれぬのか、お教え願えるかな」
優しく豊かな老人の声。
決して強要するような響きではなかったが、エイシャはこれに答えぬ事は許されないのだと感じた。
「アシが……、いいえ、わたくしが、どこにもいないのです、ご老人」
「いないとは?」
「皆がわたくしに、いろいろなことをしてくれる、それはすべてわたくしのことを考えてのことでしょうけれど、そこにわたくし自身がいないのです」
エイシャは、またため息をついた。そうなのだ。アシならば、まずエイシャの言葉を聞き、エイシャが何をしたいのかを聞いてくれた。できることとできないことを共に考え、エイシャの意志を尊重した。他の人々には、それがないのだ。
「目が見えたならばいいのでしょうけれど、」しかしそうであればアシを知ることはなかった「でも……」
「わたしが姫の目を開かせるとしたら、どうかな」
老人が、一歩を踏み出した。
同じ声には違いなかったが、そこに含まれるものが微妙に違っていた。
「ご老人は、魔法師なのですか……?」
そこに何か、恐れるべきものを感じて、エイシャは掛けていた縁台の上で、小さく身じろぎした。
「そなたについて頼む者があった」
老人が、もう一歩エイシャに近づいた。
「では、ではアシが戻ったのですね!」
老魔法師から逃れるべく、エイシャは立ち上がった。
「アシはどこに、魔法師さま。アシと共に来られたのではないのですか」
エイシャに、魔法師の声は届いてはいなかったろう。目が開くかもしれないことよりもアシの手を、エイシャは選んだのだ。
魔法師は、微かに笑った。エイシャを不安にした禍々しさが一瞬消えた。そして一瞬で、エイシャには十分であった。
今にも逃げだそうとしていた姿勢を止め、もう一度魔法師に向き直る。
「北の門から、そなたのアシは戻るであろう。そなたのための薬を携えて」
魔法師の声はもはや老人のそれではなく、その言葉がいったいどこから響いたのか、エイシャにはわからなかった。
夕闇の温もりが去り、涼やかな夜風があった。
遠くに、鳥の羽ばたきが聞こえた。
館の居室で執務についていたダイエ公は、いるはずのない人の気配に、ふと目を上げた。するとそこに、長身の男が立っていた。黒い外套を左肩に跳ね上げ、胸に金と青玉の王者の飾り物を下げていたが、頭巾を目深く下ろしていた。
「な、何者か」
公はうろたえ、傍らの剣を手に立ち上がった。
今にも抜刀しようというその動きを、男は微かに左手を挙げただけで完全に封じ込め、水晶が鳴るような響きで、こう告げた。
「名乗りはせぬ、お前のためにな。
お前が使わした少年は、過夜確かにわたしの元に来た。願いは叶えられたぞ」
男は頭巾を取りはしなかったが、ダイエ公には確かにその容貌が見えた。
これまでに想像さえした事のない美貌。
「あなたは、あなた様はまさか……」
闇よりも深い蒼い瞳と夜の髪、夜の美貌。
夜語りの中の王、闇の主上、すべて魔に関わるものの君主。
「魔王イヴュリール……」
哄笑が満ち、部屋の中に鳥の羽ばたきが響いた。
すべての灯りが消え失せ、ダイエ公は一人部屋に残された。
どれほどの時を立ちつくしたか。やがて公は呼び鈴を鳴らした。
これまで感じたことのない胸の高鳴りを感じ、ひどい寒気にがたがたと震えていたが、頭だけが沸騰するかのように熱くなっていた。
わしは今、とてつもない幸運を手にした。
これはすべての成功の手形ではないか。
エイシャの目は開く。それを保証したのは、闇の君だ……。
森を抜けたときにはすでに夜が明けていた。いつの間にか、ダイエ公から授けられた剣が無くなっていたが、エイシャのための瓶だけは、その手にしっかりと握っていた。
あとの道のりは、楽なものであった。アシに、もう不安はなく、ただ一刻も早く館に戻って、姫に薬を飲ませたいとしか、考えていなかった。
街道を南へとすすみ、やがてダイエ公の領地に入った。
道を行き交う人の数が増えた。大きな荷物をかかえた商人が多かった。彼らは一様に、お祝いの赤と白の布を荷物に結びつけていた。
「何か、祝い事があるのですか」
都に近い宿場に着くころ、アシは商人の一人をつかまえて聞いた。
商人は満面の笑みを浮かべたままアシの方を振り返り、教えてくれた。
「ああ、ダイエ公のお館で、お祝いがあるんだよ。三の姫様の目がお癒えになるそうで、<中央>の皇子さまがお妃にするんだそうだ。おかげで忙しくて忙しくて……」
「なんですって、<中央>に、」
アシはあまりの驚きに、瓶を取り落としそうになった。
自分がこの薬を持って帰れば、もしかしたらそれきり、エイシャ様には会えなくなってしまうのか。
「姫が<中央>に……」
しかし確かに、姫にとってはそれが幸せなのかもしれない。目が癒えることはもちろんのこと。
「姫が……」
どうすればよいのか、アシにはわからなかった。
俺は、姫の目が治ったら、いつも匂いで区別しているあの草原の花を見せたかったのだ。姫が大好きな夏雲号の、大きくて濡れた眸や、名前の由来の白い毛並みや、その由来の雲や。<中央>に行けば、それはもっといろいろなものを見られるかもしれない。だけど、その姫を、俺は見ることができなくなる。それは、俺の望んだ事じゃない。
だけど、姫にとっては、それが幸せなのかもしれない。俺が野の小フィダリアの花を見せて差し上げたところで、<中央>の大フィダリアの花には、きっととてもかなわないに違いない……。
華やかに飾り付けられた表門からは入る気にとてもなれず、アシは小さな北門に向かった。足取りは重く、うなだれていた。青い瓶だけはしっかりと握りしめていたが、それをなんのために持ち帰ったのか、もう忘れてしまいそうだった。
「アシ、アシね」
北門を入るとすぐに、そんな声がした。
「ああ、帰ってきたのね、アシ!」
「……エイシャ様」
エイシャ姫であった。姫が自ら、迎えにでていたのだ。
「お帰りなさい、アシ。あなたが迎えにでた魔法師さまに、わたくしはもう会ってしまったわよ。ずいぶんゆっくりだったのね、アシ」
エイシャ姫は、アシが出かけるときとなんのかわりもない笑顔で、彼を喜んで迎えてくれた。だがアシは、うなだれたまま立ち止まった。
「あの魔法師さまは、なんだか気味が悪かったわ。あれ以来、お会いしていないのだけれど」
エイシャの言葉はよく聞かず、アシは言った。
「姫、おめでとうございます。<中央>でお妃様になられるのですね」
「まあ、何を言っているの、アシ」
エイシャは本当に、何のことだかわからなかった。公はエイシャの輿入れの準備を整えながら、本人には一言も話していなかったのだ。
「俺、街道を行く商人から聞いたんです。姫は、目が見えるようになったら、<中央>の皇子さまのお妃になるんだって」
「……まあ」
エイシャは驚いて、口元を手で覆った。
「そんなこと、わたくしは聞いていなくてよ、アシ。わたくしは<中央>などには行きたくない。それに、もし目が見えるようになったなら、あの魔法師さまを連れてきてくれたのは、アシなのでしょ。それではわたくしはアシのお妃になります。お父さまの命を果たしたのですから、それが順当というものです」
「エイシャ様……」
その言葉だけで十分だと思った。それがたとえ嘘であったとしても、それだけで、アシは十分に幸福になれたのだ。
エイシャの指に長く接吻をして、彼はダイエ公の元へ向かった。
「おお、アシよ、よくぞ戻った」
広間では公が、上機嫌でアシを迎えた。
「お前が命を果たしてくれたことは、先に聞いていた。どれ、その薬とやらを、早く出すがよい」
公の横に、奥方様もにこにことして立っていた。
「よくやってくれましたな、アシ」
瓶を握りしめたまま平伏して、アシはお手討ち覚悟でこう言った。
「お殿様、俺はエイシャ様のために森に行きました。森では不思議な体験をして、この薬を手にしました。エイシャ様のためです。
帰りの道で、目が治ったら、エイシャ様は<中央>の皇子さまのお妃になるのだと聞きました。それがエイシャ様のお気持ちならば、喜ばしいことでしょう、俺は……いやですが。
でも、お館に戻ってからエイシャ様にお聞きしたら、姫は<中央>に行くのはいやだとおっしゃいました。お殿様、それでもやっぱり、<中央>に行くのがエイシャ様のおためなのでしょうか、教えてください」
真剣なアシの瞳に見つめられて、公は言葉に詰まった。何よりも、大事な薬はアシの手に握られているのだ。滅多なことを言って、滅多なことになっては元も子もない。
「それはだな、アシよ、」
「わたくしはいやでございます、お父さま」
その時、広間の扉が開き、エイシャ姫が入ってきた。
「姫」
「エイシャ」
見えないとはいえ馴染んだ場所、エイシャはまっすぐに公の元にかけより、その膝にすがりついた。
「お父さま、エイシャは<中央>などへは行きたくありません」
「しかし皇子妃ともなれば、どのようなことも思いのままぞ」
「でも、もう二度と、お父さまやお母さまにお会いできなくなります。そのくらいのことは、エイシャだって知っています。
いやいや、絶対に、エイシャは<中央>などへは、行かない」
一度皇家に入ったならば、その二親が死んだとしても、里帰りは許されない。広く知られた事実であった。
「しかしエイシャ……」
「なんと言われても、嫌なものはいや。それにお父さま、エイシャの目を治す魔法師を探したのはアシです。エイシャはアシのお妃になります」
「なんと言うことを、エイシャ!」
奥方が甲高い声で叫んだ。
「本気よ、お母さま。声も聞いたことのない皇子さまより、わたくしはアシがずっと良いわ。アシのことは、だって好きですもの。あの魔法師がわたくしの目を治すのならば、わたくしはアシのお妃になります!」
奥方が激高してその場に倒れ、広間は騒然となった。
アシは、手にある青い瓶を、じっと見つめた。
よく考えて用いよ。
あの男はそう言わなかったか?
俺の願いはいったいなんだ? エイシャ姫と結ばれることか?
それは、エイシャ姫には恋をしている。姫と結ばれるのならば、自分は死んだっていいくらいだ。だけどそれは、自分の幸せだ。自分と一緒になったところで、エイシャ姫は幸せにはならないだろう。
そなたの希うところは、いったい何か。
「俺の希いは……」
エイシャ姫の幸せ。エイシャ姫の笑顔。
森に行く前には見せてくれた、あの幸せそうな笑顔。
こんな風に泣きながら怒る、悲しい姫では、決してない。
「俺の希いは……!」
瓶を握りしめた右手を、大きく振り上げた。
奥方様の悲鳴が聞こえた。ダイエ公の怒鳴る声が聞こえた。
しかしアシには、どの声も真に聞こえてはいなかった。
アシは振り上げた右手をさらに後ろに引くと、美しく飾られた壁に向かって、力一杯投げつけた……。
館の尖塔から、森へ向かって飛ぶ、漆黒の鷹があった。瞬く間に森に至った鷹は、その中程に降り立った。
森では、セレンが待っていた。
鷹は、地面に降り立つと同時に黒い男の姿をとり、その前に立った。
「お帰りなさい、イール」
「……」
漆黒の外套をきつく身体に巻きつけ、イールはセレンに、毒々しい微笑みを見せた。
「いざとなると怖じ気づくか。なんとも、臆病者よ」
「ではイール、なぜ、よく考えるようにといったの?
あなたの一言で、アシはエイシャに、薬を与えなかったのよ」
夜の美貌をほんの少し背けて、イールは唾を吐いた。
「……ふん」
魔王の贈り物がなんであったのか。果たして本当に、その目を開かせるものだったのか。
翼のごとき外套をあざやかに翻して、イールは歩み去った。
見送るセレンが微笑みころ、生まれたばかりの糸月に向かって飛ぶ、美しい漆黒の鷹があった……。
了