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夏の季節/水

カシイが届けるお中元

 香椎(かしい)はちょこっとお化粧をして、書道を習っている先生宅にお中元を届けに向かっている。

 七段階のギアチェンジができるマウンテンバイクは快調な滑り出しで坂を下った。これならば急斜面もぜいはあ肩で息しながら登り切れる。

 汗だくになってフェイスタオルで額や鼻がしらを押さえるようにして拭うが、化粧は最初の完璧さを保てずによれてしまった。暫しコンパクトを覗き込んでがっかりするが、あまり気にしないのが香椎だ。風呂敷に包んでショルダーバッグの中に入れてきたお中元の箱を引っ張り出すと、見慣れた先生宅のインターホンを押した。

 明治の頃に建てられたという日本家屋は、知らぬ者にはちょっと敷居が高く思われる庭園が見事である。手入れの行き届いた垣根の向こうに柿の木や梅の木があったりして、季節ごとに先生の奥さん特製果実酒なんかをいただけるのは成人している者の特権だ。

 香椎がそうして甘い梅酒の味を思い出してうっとりしていると、玄関の引き戸がカラリと開いた。ハッとして居住まいを正した香椎を出迎えたのは先生や先生の奥さんではなく、見ず知らずの人だった。

 薄墨色の和装姿で懐手をしている様は堂にいっており頼もしい印象を受けるものの、髪から覗いく耳に付いた無数のピアスだとか首輪だとか……なんというか、いろいろなものを含めて異国情緒溢れる美丈夫が立っていた。

 硬直する香椎を見下ろしていた美丈夫は怪訝そうに柳眉をしかめて聞く。

「どちらさまかな」

 先生ってばいつの間に新しいお弟子さんを迎えたのだろう、と頭の片隅で考えつつ、香椎は丁寧に腰を折って礼をする。

「お初にお目にかかります。わたし、門下生の香椎春妃という者です。先生はご在宅でしょうか?」

 自己紹介をしてはじめて、美人な男はおや?という顔になった。

「もしや、雨月先生のことだろうか」

 もしやも何も、ここは書道家雨月西庄先生宅だ。香椎は当たり前だろうと強く頷いて見せる。少しの間ふたり無言で見つめ合った。そして不意に男は視線を外して、なんだそうか、などとひとりごちる。

「先生はいま出ているが、すぐ戻るだろうよ。上がって少し待つかい」

「……は、はぁ」

 顎をクイッと使って中に誘う男の言葉を聞き、曖昧な言葉を返す。香椎が不信感を持っていることを感じ取ったのかしらないが、美丈夫は苦笑しながら身の上を打ちあける。こう見えて香椎さんの兄弟子なのだ、と。

「それにしてもハルキという名は、珍しいだろう」

 香椎が訪れるときはいつも書を習う教室として馴染みのある居間に通され、茶とお茶請けの菓子を出しながら兄弟子だというその人は話しかけてきた。香椎も兄弟子だとわかって素直に彼の質問に頷いてみせる。兄弟子に白い半紙と細い筆ペンなど差し出されれば、見苦しくない程度に「春妃」と整った字を書き連ね、あとは何だかんだと兄弟子に由来などを聞き出されながら湯飲みの中身を減らして時間を潰した。

 ハルキというと男みたいな名だが、春妃と書けばなんとなく女だってわかってくれる。そんなやっかいな名前を持つ香椎はなんというか、テキパキしているけれどどこか抜けている、頼りになる姉御よりはしっかり者の先輩といった表現がちょうどしっくりくる女である。そもそもこんな名前になった要因に、豪輝(ごうき)という猛々しい名の兄がいたことが大きかった。

 兄弟姉妹によくある話でふたりに関連性を持たせたかった両親は、長女の名に長男のキを取って命名する。音は男で漢字は女という曖昧さを、香椎春妃は見事に表現してこれまで生きてきた次第である。

「香椎さんはおもしろいな」

「そうですか? ……そうかもしれませんね」

「自分で自分のどこに納得したのか、とても気になるね」

「いえ、なんというか、おかしいかもしれないと思いまして」

 兄弟子の後ろに白いふわふわの尻尾が時折見えるんです、と告白するには豪輝ほど度胸がない香椎である。戸惑い半分好奇心半分といったところで、この部屋に通される前からもどかしい思いをしている。

「アニさんは、」

 兄弟子を先生宅ではよくアニさんと親しく呼んでつきあうものなので、香椎も違和感なく口したのだが、美丈夫はなぜかうつむき加減で応じる。

「ん」

「どうしてあまり顔をださないのですか。今日はどうして帰ってきたんですか」

「それは、むずかしい質問だ。これまでも遠くて近い場所にいたから、自分では『帰ってきた』感覚がない」

 よくわからない答えが返ってきた、と香椎がリアクションに困って黙りこむ。

 そのとき、縁側に吊していた風鈴が風に揺られて涼しげな音を室内に響かせた。

 気づけば一時間近く先生宅にお邪魔していた。申し訳ない気持ちいっぱいになって暇を告げようと香椎が背筋を伸ばしたとき、目の前に美丈夫の姿はなかった。代わりに買い物から帰って姿を見せた先生は、きょとんとする香椎を見て驚いていた。

「香椎さん、どうやって入ったのですか」

「えっと、アニさんが……あっ、実はお中元をッ」

 あたふたと香椎が慌てて立ち上がろうとして机に蹴躓き、ぐっと呻き声をあげ足を抱えてその場にうずくまる。先生はわざわざ冷水で濡らしたタオルを持ってきてくださって、それを差し出しながら苦笑をこぼされた。

「香椎さん、動けますか?」

「はい、なんとか」

 目尻に滲んだ涙を拭い、風呂敷包みを解いた中からお中元の羊羹とゼリーの詰め合わせを差し出して両手を畳につけて頭を下げた。少し距離をあけた向かい側に、先生は美しい姿勢で正座をして頭を軽く下げると、丁重な手つきで箱を受け取ってくださった。



「毎年、香椎さんに頂くお菓子を楽しみにしているのですよ」

 と和やかに話されながら台所に行って戻ってきた先生の手には切り分けた羊羹を乗せた小皿が二枚あった。もぐもぐとふたりで羊羹を堪能する。

「先生、冷やしたらもっとおいしいですよ、コレ」

「そうですね、ゼリーと一緒に冷やしておきます」

「はい」

 言葉を切り、しばらく羊羹を食べるのに集中していたふたりだが、先生が急に買い物袋をあさり始めて、中から掌に乗る大きさの四角い箱を引っ張り出す。中には赤い金魚の絵がかわいらしい風鈴が収められていた。それを先生は縁側に吊す。

「先生、もともとここに風鈴がありませんでしたっけ」

「ありませんでしたよ」

「……」

 香椎は先生が吊した風鈴を黙ったままじっと見上げた。チリンと鳴る風鈴は夏らしく涼しげで、かわいらしかった。


「お邪魔しました」

「いやぁ、こちらこそ羊羹ごちそうさまです」

 そう挨拶して香椎が外に出ようと何気なく視線を巡らしたとき、壁に吊された掛け軸が風に揺れているのが見えた。絵の中の白い猫は鞠遊びをしているのに、丸いつぶらな瞳は鞠ではなくてこちらを見つめているからか、少しも楽しそうに見えないのだった。

「この子、かわいいですね」

 何気なく言うと、先生はにっこりと満面の笑みを浮かべて頷く。

「とても寂しがり屋な猫でね」

 と意味深な言葉を呟く先生と視線を合わせ、香椎はへぇと微笑む。あの美丈夫が寂しがり屋だとしたらなんだかかわいいなと、頭の片隅で思いを馳せながら。


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