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赤とんぼ

作者: ほんじじ
掲載日:2026/09/10

 今年のシルバーウィーク。

 ぼくは、パパとママに連れられて田舎に来ていた。田舎といっても、ぼくにとっては「知らない場所」だった。そこには、パパの弟である叔父さんが住んでいる。


 叔父さんのことが嫌いなわけじゃない。

 会えば優しくしてくれるし、ママもパパも叔父さんのことが好きみたいだ。


 でも――。


 ぼくは、小学生になってから田舎に来るのは初めてだった。


「小さい頃は田舎が好きだったじゃない」


 車の中でママが言った。


「そうそう。また前みたいに山で虫を採ったり、川で魚を捕ったりしような」


 パパも楽しそうに笑う。


 また。


 そう言われても、ぼくにはその「また」がよく分からない。

 そんな小さい頃のことなんて覚えていない。

 ぼくはもう四年生だ。

 虫採りなんて子どもっぽい。


 ……いや。


 子どもだけど。


 それでも、今のぼくにとっては田舎よりゲームのほうがずっと楽しい。

 家にいれば友達とオンラインでつながれる。

 わざわざ外へ出なくてもいい。

 部屋でお菓子を食べながらみんなと一緒に遊べる。


 それが一番楽しい。


 だから「田舎で虫採り」なんて、まったく乗り気ではなかった。


 せっかくの連休なのに。

 友達といっぱいゲームができると思っていたのに。

 どうしてこんなところに来なきゃいけないんだろう。


 そんなことを考えながら車の窓の外を眺めていた。


 やがて車は山道に入り、さらに細い道を進んでいった。

 そして、ようやく叔父さんの家に着いた。


「おう、よく来たな!」


 叔父さんと叔母さんが笑顔で出迎えてくれた。


「大きくなったなぁ」


 そう言って叔父さんが頭を撫でてくる。

 ぼくは「こんにちは」とだけ答えた。

 パパとママと叔父さんたちは、久しぶりに会ったからなのか楽しそうに話をしている。


 ぼくは何もすることがなかった。

 ゲーム機は持ってきていない。

 スマホも持っていない。

 テレビだって、別に見たい番組があるわけでもない。


 暇だった。

 ものすごく暇だった。


「夕飯までまだ時間あるから、その辺、散歩してみるか」


 パパが言った。


 散歩。

 散歩って。

 何が楽しいんだ?


 何もないのに。


 ぼくは、家でジュースでも飲みながらのんびりしていたかった。


 けれど。


「ほら、ちょっと行こうよ」


 パパが催促する。

 仕方なく、ぼくは立ち上がった。


「……うん」


 家を出る。

 目の前には山。

 少し歩くと田んぼ。


 道の脇には草が生えていて、その向こうにも田んぼが続いている。

 家はところどころにあるけれど、東京のように建物がずっと並んでいるわけではない。


 静かだった。

 パパは楽しそうだった。


「あの山、昔はよく登ったんだぞ」


「……」


「この辺の川には魚がいてな――」


 パパが何か話している。

 でも、ぼくはあまり聞いていなかった。少し後ろを歩きながら、何となく前を行くパパの足元を見ていた。


 パパの靴。

 その先に続く田舎道。

 ぼくはうつむきがちに歩いた。


「なあ、覚えてるか? 小さい頃ここで――」


「うん」


「……そうだったよな」


「うん」


「……」


 たぶんパパは、ぼくがちゃんと話を聞いていると思っている。

 でも、ホントはほとんど聞いていなかった。


 そんなことを思いながら歩いていると――。


 ふと、視界の隅に赤いものが飛び込んできた。

 ぼくは、思わず足を止めた。


(……!?)


 道から少し上。

 そこに何かがいた。


 赤い。

 赤いトンボだった。

 しかも、そのトンボは羽を動かしながらほとんど同じ場所に浮かんでいる。


「え?」


 ぼくは目を凝らした。

 止まっているように見える。

 でも、ちゃんと飛んでいる。

 空中に浮かんでいる。


「……すご」


 思わず声が出た。

 トンボは、まるでぼくを待っていたかのようにその場で静止していた。

 そして、ゆっくりと上へ上がっていく。

 ぼくの目の高さまで来た。


 さらに上へ。


 ぼくは顔を上げてその姿を追った。

 その瞬間だった。


「わっ……」


 思わず声が出た。

 視界いっぱいに、赤いものが広がった。


 一匹じゃなかった。

 五匹。

 十匹。

 いや、もっと。


 田んぼの上を、たくさんの赤いトンボが飛んでいた。

 黄色く色づき始めた稲穂の上を、赤いトンボがすいすいと飛び回っている。


 高く飛んだり、低く飛んだり。


 田んぼの上を横切ったかと思えば、また戻ってくる。


「……すごい」


 今度は、ちゃんと声に出した。

 こんなたくさんのトンボを、ぼくは見たことがなかった。


 赤い。

 きれい。

 夕方の光を浴びて、その赤い体が小さく輝いている。


「すごいなぁ」


 隣に近づいて来たパパが言った。


「こっちはまだアキアカネがこんなに飛ぶんだな」


「アキアカネ?」


「そう。赤とんぼの名前だよ」


 アキアカネ。

 なんだか、かっこいい名前だと思った。


 ぼくはもう一度、空を見上げた。

 さっきまでずっと下を向いていた。

 足元ばかり見ていた。

 だから、気づかなかった。


 こんなにたくさん飛んでいたのに。

 もしかしたら、この赤とんぼはぼくに見てほしかったのかもしれない。


 ――ねえ。


 ――こっちを見てよ。


 ――ぼくたち、こんなにいるよ。


 ――こんなに自由に飛べるんだよ。


 ――この田舎、いいところだよ。


 そんなふうに言われているような気がした。

 ぼくは、ゆっくり周りを見渡した。


 山に囲まれた町。

 どこまでも続く田んぼ。

 細い一本道。

 夕日に照らされた稲穂。


 その上を自由に飛び回る、たくさんのアキアカネ。


 来たときは「何もない」と思っていた景色だった。

 でも、今は違って見える。


 何もないんじゃない。

 ぼくが見ていなかっただけなのかもしれない。


「そろそろ帰ろうか」


 パパが言った。


「うん」


 ぼくは素直に答えた。

 来たときとは違って、帰り道は少しだけ楽しかった。


 帰り道はパパと手を繋いで帰った。


 ぼくは――


 田舎にきてよかった。




 終


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