赤とんぼ
今年のシルバーウィーク。
ぼくは、パパとママに連れられて田舎に来ていた。田舎といっても、ぼくにとっては「知らない場所」だった。そこには、パパの弟である叔父さんが住んでいる。
叔父さんのことが嫌いなわけじゃない。
会えば優しくしてくれるし、ママもパパも叔父さんのことが好きみたいだ。
でも――。
ぼくは、小学生になってから田舎に来るのは初めてだった。
「小さい頃は田舎が好きだったじゃない」
車の中でママが言った。
「そうそう。また前みたいに山で虫を採ったり、川で魚を捕ったりしような」
パパも楽しそうに笑う。
また。
そう言われても、ぼくにはその「また」がよく分からない。
そんな小さい頃のことなんて覚えていない。
ぼくはもう四年生だ。
虫採りなんて子どもっぽい。
……いや。
子どもだけど。
それでも、今のぼくにとっては田舎よりゲームのほうがずっと楽しい。
家にいれば友達とオンラインでつながれる。
わざわざ外へ出なくてもいい。
部屋でお菓子を食べながらみんなと一緒に遊べる。
それが一番楽しい。
だから「田舎で虫採り」なんて、まったく乗り気ではなかった。
せっかくの連休なのに。
友達といっぱいゲームができると思っていたのに。
どうしてこんなところに来なきゃいけないんだろう。
そんなことを考えながら車の窓の外を眺めていた。
やがて車は山道に入り、さらに細い道を進んでいった。
そして、ようやく叔父さんの家に着いた。
「おう、よく来たな!」
叔父さんと叔母さんが笑顔で出迎えてくれた。
「大きくなったなぁ」
そう言って叔父さんが頭を撫でてくる。
ぼくは「こんにちは」とだけ答えた。
パパとママと叔父さんたちは、久しぶりに会ったからなのか楽しそうに話をしている。
ぼくは何もすることがなかった。
ゲーム機は持ってきていない。
スマホも持っていない。
テレビだって、別に見たい番組があるわけでもない。
暇だった。
ものすごく暇だった。
「夕飯までまだ時間あるから、その辺、散歩してみるか」
パパが言った。
散歩。
散歩って。
何が楽しいんだ?
何もないのに。
ぼくは、家でジュースでも飲みながらのんびりしていたかった。
けれど。
「ほら、ちょっと行こうよ」
パパが催促する。
仕方なく、ぼくは立ち上がった。
「……うん」
家を出る。
目の前には山。
少し歩くと田んぼ。
道の脇には草が生えていて、その向こうにも田んぼが続いている。
家はところどころにあるけれど、東京のように建物がずっと並んでいるわけではない。
静かだった。
パパは楽しそうだった。
「あの山、昔はよく登ったんだぞ」
「……」
「この辺の川には魚がいてな――」
パパが何か話している。
でも、ぼくはあまり聞いていなかった。少し後ろを歩きながら、何となく前を行くパパの足元を見ていた。
パパの靴。
その先に続く田舎道。
ぼくはうつむきがちに歩いた。
「なあ、覚えてるか? 小さい頃ここで――」
「うん」
「……そうだったよな」
「うん」
「……」
たぶんパパは、ぼくがちゃんと話を聞いていると思っている。
でも、ホントはほとんど聞いていなかった。
そんなことを思いながら歩いていると――。
ふと、視界の隅に赤いものが飛び込んできた。
ぼくは、思わず足を止めた。
(……!?)
道から少し上。
そこに何かがいた。
赤い。
赤いトンボだった。
しかも、そのトンボは羽を動かしながらほとんど同じ場所に浮かんでいる。
「え?」
ぼくは目を凝らした。
止まっているように見える。
でも、ちゃんと飛んでいる。
空中に浮かんでいる。
「……すご」
思わず声が出た。
トンボは、まるでぼくを待っていたかのようにその場で静止していた。
そして、ゆっくりと上へ上がっていく。
ぼくの目の高さまで来た。
さらに上へ。
ぼくは顔を上げてその姿を追った。
その瞬間だった。
「わっ……」
思わず声が出た。
視界いっぱいに、赤いものが広がった。
一匹じゃなかった。
五匹。
十匹。
いや、もっと。
田んぼの上を、たくさんの赤いトンボが飛んでいた。
黄色く色づき始めた稲穂の上を、赤いトンボがすいすいと飛び回っている。
高く飛んだり、低く飛んだり。
田んぼの上を横切ったかと思えば、また戻ってくる。
「……すごい」
今度は、ちゃんと声に出した。
こんなたくさんのトンボを、ぼくは見たことがなかった。
赤い。
きれい。
夕方の光を浴びて、その赤い体が小さく輝いている。
「すごいなぁ」
隣に近づいて来たパパが言った。
「こっちはまだアキアカネがこんなに飛ぶんだな」
「アキアカネ?」
「そう。赤とんぼの名前だよ」
アキアカネ。
なんだか、かっこいい名前だと思った。
ぼくはもう一度、空を見上げた。
さっきまでずっと下を向いていた。
足元ばかり見ていた。
だから、気づかなかった。
こんなにたくさん飛んでいたのに。
もしかしたら、この赤とんぼはぼくに見てほしかったのかもしれない。
――ねえ。
――こっちを見てよ。
――ぼくたち、こんなにいるよ。
――こんなに自由に飛べるんだよ。
――この田舎、いいところだよ。
そんなふうに言われているような気がした。
ぼくは、ゆっくり周りを見渡した。
山に囲まれた町。
どこまでも続く田んぼ。
細い一本道。
夕日に照らされた稲穂。
その上を自由に飛び回る、たくさんのアキアカネ。
来たときは「何もない」と思っていた景色だった。
でも、今は違って見える。
何もないんじゃない。
ぼくが見ていなかっただけなのかもしれない。
「そろそろ帰ろうか」
パパが言った。
「うん」
ぼくは素直に答えた。
来たときとは違って、帰り道は少しだけ楽しかった。
帰り道はパパと手を繋いで帰った。
ぼくは――
田舎にきてよかった。
終




