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ep.16

 打ち下ろすような蝉時雨が聞こえる。それはもはや音というより、物理的な質量を持った振動に近い。鼓膜の奥に突き刺さり、思考の端々にまで滑り込んでくる。


 開け放たれた窓から流れ込む風は、ちっとも涼しさを運んでこない。代わりに、運動場から舞い上がる乾燥した砂の混じった不快な熱風と、プールの塩素の匂いを教室に充満させていく。


 肌にまとわりつく湿り気。視界の隅でゆらゆらと揺れる陽炎のせいで、世界そのものが歪んで溶け出しているように見えた。


 このまま全てが夏の重力に捕まって、底抜けの青い空に溶けていく。二度と呼吸の仕方を思い出せないまま、そこから永遠に抜け出せなくなる。そんな妄想をしている。


 怜奈は一週間の帰省を終え、数日前に元の仕事に戻っていった。


 夜、彼女が派手なヒールを鳴らして出かけていく音を、僕は自室の暗闇の中で聞いた。あの悪夢の夜、彼女が僕の隣で眠ってくれたあの日以来、父親という怪物の夢を見ることはなかった。


 けれど、代わりに僕の視覚を蝕む黒い靄は、さらに密度を増しているようだった。中原さんの顔も、怜奈の顔も、鏡に映る自分自身の顔も。かつては曖昧な靄のようだったそれは、今や光さえ通さない重苦しい墨だまりのように、そこにあるべき輪郭を侵食し続けていた。


「進路希望調査票、配るぞー」


 朝のホームルーム。担任が教卓を叩き、眠った教室に声を張り上げた。


「金曜の放課後が最終提出期限だ。いいか、三者面談前の大事な資料になる。親御さんとよく話し合って、第一希望から第三希望まで、ちゃんと埋めてこい」


 前の席から回ってきたプリントは、真夏の直射日光を反射して、目に痛いほど白かった。将来の自分を定義し、何者かになろうとするための、真っさらな空白。僕はその空白をじっと見つめる。


 ――美大。


 一瞬だけ脳裏を掠めたその言葉を、僕は持っていた鉛筆の先で、汚れを消すように無意識に塗りつぶした。どこにでもある平凡な私立大学の文学部や経済学部の名前で、事務作業のように埋めていく。


 怜奈は「学費なら私が出すから、好きなとこ行きな」と言ってくれた。僕と同じ苦しみを抱えながら、彼女が必死に稼いできたお金。それを、自分の呪いを再確認しに行くような場所に使わせたくなかった。


 人の顔が見えない僕が、美大に足を踏み入れる。それはただの挑戦ではなく、真綿で自分の首を締めるようなものだ。デッサンにおいて、人の顔を捉えられない僕がキャンバスに向かう姿は、筆を握ることさえ罪に思えるほど惨めで滑稽に映るはずだ。


 その未来を書かせようとする白い紙を、僕は四角く几帳面に折り畳んだ。


 退屈な授業を終えた、いつもの美術室。オレンジを忘れた青空から、角ばった光が差し込んでいた。室内には、僕と中原さんの二人。


 激しい陽光が、僕たちの身体から黒い影を切り出して床に並べている。筆を動かす僕の影と、椅子に深く腰掛けて項垂れる彼女の影。


 僕は無心にキャンバスの地色を殺していく。ザッ、ザッという規則的な音。その平坦な静寂を解くように、隣で彼女が小さく溜息を吐いた。


「……ねえ、神崎くん。私、向いてないのかな」


 中原さんは、使い古された木製の椅子に力なく腰を下ろしていた。膝の上には、オーディションの募集要項らしき紙が置かれている。


「なんで」


 筆を止めずに、僕は短く問いを投げる。


「もう、オーディション落ちてばっかり。最終まで行って、最後に『ごめんなさい』って。流石にメンタルやられるよ」


 彼女は今、新しい事務所へ移籍するためのオーディションを受け続けている。けれど、その道は僕たちが想像する以上に険しく、理不尽なものだということを、彼女の落とした肩の角度が物語っていた。


「……昨日のドラマ、見たよ」


 僕はキャンバスに視線を向け、筆を握ったまま言った。


 昨晩放送された、彼女が「黒瀬雫」として端役で出演する恋愛ドラマ。


 ヒロインの友人という立ち位置で、画面のどこにいても愛想を振りまく、クラス中から好かれる、「あざとい女の子」の役柄。カメラが彼女を捉えるたび、そこには視聴者が求める「正解の可愛さ」が寸分の狂いもなく置かれていた。


「……ああ、あれ。どうだった? きもかったでしょ、あの私。自分でも引いたし」

「いや、大変そうだなと思って見てた」

「大変?」

「うん。常に誰かに『可愛い』って思われるように、呼吸のタイミングも、首の角度も、一秒ごとに計算してるみたいな。……あそこまで自分を消せるのは、すごいことなんじゃないかなって」


 僕には、彼女がテレビ画面の中でどんな表情を浮かべていたのかは分からない。でも、彼女が発する言葉の端々に潜む、「正解」をなぞろうとする響き。


 声のトーンをミリ単位で調整して、「誰もが好むような女の子」を演じ続ける。その裏にある、自分を殺していくような努力がひしひしと伝わってきた。


「……感想がマニアックすぎるよ。『可愛かった』とか、もっとあるでしょ」


 中原さんが、ふっと、小さく笑った。その空気の変化に、僕の胸がわずかに波立つ。


「……でも、ちゃんと見てくれてるんだね」

「ごめん。慰め方下手だよね」

「ううん。変な見方をしてくれる人が一人くらいいた方が、なんか……息がしやすいかも」


 彼女は立ち上がり、窓の外で白く輝く積乱雲を見つめた。空の底から湧き上がるようにそびえ立つ雲の城は、夏の全てを象徴するように眩しい。


「神崎くんは夏休み、どうするの?」


 窓から差し込む熱を帯びた光が、彼女の輪郭を白く飛ばしていく。


「特に何も。家で適当に絵を描いて、宿題やるくらいかな」

「いいなあ。私はオーディションとレッスンの詰め合わせで、夏休みもがっつり通常営業。地獄ももいいとこだよ、ホント」


 彼女は再び椅子に深く寄りかかり、わざとらしく大きな溜息をついた。


 その仕草は、ドラマの中で演じていた「全男子に好かれるあざとい女の子」ではなく、ただ目の前の現実に疲れ果てた、十七歳の少女の弱音に見えた。


「せめて一日くらい、夏っぽいことしたいな。……あ、知ってる?あの喫茶店。夏限定でラムネフロート出すんだよ」

「ラムネフロート?」

「そう。青くて綺麗なやつ。……ねえ、付き合ってよ。二人で『夏休みの作戦会議』ってことで。ダメかな?」


 彼女が逆光に溶け、その細いシルエットが眩しく、そして透明に縁取られていく。


 手を伸ばせば届く距離。けれど、近づけば近づくほど、彼女の「顔」が見えないという現実が僕の心を鋭利に抉るだろう。「もっと見たい」という傲慢な欲望が、僕自身を壊していく。


 それは、幸福に似た絶望だった。


「……いいよ。ラムネフロート、飲もう」


 中原さんの方を見られなくて、僕は視線を窓の外の青空へと逃がした。

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