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警護でござる。将軍、世直しの旅に出る  作者: 林和志
2章 まるという女
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5.将軍出立する!

 江戸城府を抜けると、長閑な田園風景が続く。

 水戸藩の中山の助言を参考に、まず、先方の伊賀組が五十名、松平家忠一行の一里先を歩いていった。

 次に、松平家忠一行を囲むように、町人などに変装させた中堅の伊賀組五十名を配置した。

そして、後方に甲賀組百名が続く。

 予定では、江戸から二里離れた川崎宿に初日は泊まる予定である。

 だが、家忠には見るものすべてが新鮮である。自由に城の外に出られたのだ。家忠は、何にでも興味を持ち、一行はのろのろと歩んでいった。

 品川宿を出るころには、八ツ半時を回っていた。

 品川宿を出ると、二里先の川崎宿まで本陣も脇本陣もない。

 品川宿に戻るか、柳生宗春は迷った。

 品川宿は江戸最大の宿場である。岡場所と呼ばれる幕府非公認の遊郭もある。

 品川には、鷹狩に使う品川御殿があった。ここは、将軍専用の休息所である。

 「上様が駕籠に乗ってくださればよいのだが」

 宿場には、駕籠かき人足もいるが、不逞の輩である。

 宗春達だけなら、問題ないが上様をそのような駕籠に乗せるわけにはいかない。

 だが、駕籠だけを借りて、宗春達が担ぐと言っても上様は反対なさるであろう。

 能天気に、はしゃぐ家忠を尻目に宗春は苦悩していた。

 水野も宗春に耳打ちをする。

 「品川に引き返しましょうか」

 家忠を囲むように、伊賀組、甲賀組を二百名、配置してある。多少の暗さなら松明を灯して歩くことは出来る。

 川崎までは、天領が続くから、伊賀組に渡してある大目付の高木の書状を見せれば、代官所の役人が総出で松明を灯してくれるであろう。

 ただ、上様は、鋭いところがある。

 役人達が総出で道中を松明で灯せば、お忍びの旅ではなく、大老達が入念に警護計画を立てたことに気づいてしまうかもしれない。

 そんなことを考え、宗春が苦慮していると、反対側からボロ駕籠を担がせた老人がやって来た。

 農夫のようにも見えるが、老人は頭巾を脱ぐ。

 「お武家様、良い天気でございますな」

 宗春は、農夫の格好をした老人の土に汚れて黒くなった顔をまじまじと見つめる。

 あの大商人の河村瑞賢である。十数年前に起こった明暦の大火で焼かれた大名屋敷は、河村が手配をした材木で建てなおされた。そのため、幕閣では、河村瑞賢の顔を知らぬものはいない。 

しかし、河村は町人であったから、将軍には顔を知られていない。

 河村は、慇懃に、しかし、気さくに松平家忠に話しかける。

 「お武家様、どうか駕籠にお乗りくださいませぬか」

 「いや、余は自分で歩いていきたいのだ」

 「そうでございますか。ご覧のようにボロ駕籠でしてな、乗ってくださる方がおらず、困っておりまする。担ぎ手達も、幼子がおります。幼子達の食事代を稼がねば、我らは帰れませぬ」

 河村は、笑顔で拝み込んだ。

 「そうか。それは気の毒であるな。宗春、どうであろうか。この駕籠に乗るわけにはゆかぬか」

 「は、松平様。気の毒な幼子のためになりますゆえ、善行でございます。ぜひ、お乗りください」

 家忠は、嬉しそうに汚れた駕籠に乗った。

 家忠が駕籠に乗ると担ぎ手は、駕籠を持ち上げる。

 「行き先は、川崎宿まででよろしいですかな」

 河村が、宗春と駕籠の中の家忠の顔を交互に見る。

 「うむ」

 松平家忠がそう答え、宗春が目配せをすると河村は、

 「それでは、川崎宿まで参りましょう」

 そう言って担ぎ手に声をかけた。

 「えいさ」

 担ぎ手の掛け声に、

 「ほいさ」

 河村が応じると家忠も面白そうに真似をする。

 「えいさ。ほいさ」

 河村は、駕籠に並走していく。さすがである。老人とは思えぬほど足が速い。

 息を切らしながら、宗春と水野達は駕籠を追いかけた。

 一里、走ったところで、家忠は、

 「宗春達は大丈夫か。お主達も駕籠に乗るか」

 宗春達は、一生懸命に首を振ると、息を切らしつつも走り続けた。

 こうして、軽快に駕籠は途中の陣屋を通り過ぎていく。

 先行している伊賀組の組頭達が陣屋の代官や道中役人達に、走り去る駕籠は公用であると大目付の高木の幕府御用の書付を見せておいた。そのため、役人達は怪しいボロ駕籠を気にしなかった。

 川崎宿に入ると河村は、駕籠を止め、松平家忠を降ろす。

 「松平様、駕籠に御不自由はありませんでしたか」

 宗春が汗を拭きながら、尋ねる。

 「快適だったぞ」

 「それは、ようございました」

 「駕籠代は、いくらか」

 「銭一貫でございます」

 家忠が首を傾げる。

 宗春は、酒井から預かった路銀から、一分金を家綱に渡す。

 「これでお支払いください」

 「これが銭か」

 家忠は感慨深げに、河村に一分金を渡した。

 「ありがとうございます。お武家様も良い旅になりますように」

 河村が、恭しく頭を下げた。

 宗春は、家忠に話しかける。

 「松平様、せっかくですから、この者達に小田原までの案内を頼んではいかがでしょうか」

 どういう事情で河村がここにいるのかはわからない。しかし、この有能な大商人の手助けを宗春は必要としていた。

 「うむ、それも面白かろう。では、頼む」

 「わかりました。それでは、川崎宿をご案内いたしましょう」

 家忠一行は、河村に案内され川崎宿の本陣に向かった。

 本陣は、大名や旗本のために用意された宿である。宿場の名主が苗字、帯刀を許され本陣の主を務めていた。

 小田原藩主の稲葉の頼みで、小田原城に出かけることも多い河村は、川崎宿の本陣の主達にも顔をよく知られていた。

 その日は、大名達の利用がないことを確認すると、大目付の高木の名前であらかじめ川崎宿の本陣、脇本陣を全て貸し切っていた。公用の小録の幕臣は、宿がなくて困ったであろうが、脇本陣で名乗れば、高木から託された一日分の宿代を渡される手筈となっていた。

 本陣は、御三家が宿泊することもある。武家屋敷と同じ造りである。

 「宗春。世間には旅籠なるものがあると水戸殿から聞いたのだが」

 あのくそ爺、水戸宰相に悪態をつきつつ、宗春は河村の顔を見た。

 川崎には、本陣と普段は、町人を泊めることも許されている脇本陣がある。

 「良い旅籠がございますよ」

 河村は、宗春に目配せをすると脇本陣を目指した。

 「部屋が空いているか聞いてまいりましょう」

 河村は、脇本陣に入る。

 「これは河村様」

 顔なじみの脇本陣の主が出迎えてくれる。

 「公儀御用のお侍様を宿泊させたいのだが、貸し切れるかね」

 主は、理由を尋ねることもなく頷いた。

 「部屋は空いております。どうぞご自由にお使いください」

 「ありがとう」

 河村は、家忠一行を旅籠と偽り、脇本陣に案内した。

 脇本陣には、町人の変装をした伊賀組、甲賀組の精鋭が宿泊することとなった。精鋭と言っても実戦経験はないのだが・・・。

 家忠を水野と井伊が風呂に案内している間に、伊賀、甲賀の組頭と河村、宗春が打ち合わせをする。

 「河村殿、助かりました」

 河村瑞賢に、宗春は礼を述べる。

 「大目付の高木様に頼まれたのでございますよ。柳生様は、お気になさらず」

 それから、脇本陣で誰が家忠の世話をするのかで一悶着となった。

 「脇本陣とはいえ、女中に舘林様の世話をさせるわけにはいくまい。くのいちはおらぬのか」

 宗春が伊賀、甲賀の組頭に尋ねる。

 「柳生様、くのいちはおりませぬ」

 伊賀の組頭が、苦笑しつつも丁寧に説明をする。

 「戦国の世ならいざしらず、出女はご法度。関所で一番、怪しまれる、くのいちは廃止いたしました」

 剣豪で名高い柳生のお坊ちゃんも世間知らずだなと組頭は呆れた。

 「では、大奥から人を」

 「舘林様のことで、大奥を使うのでございますか」

 伊賀の組頭が怪訝な顔をした。松平家忠の正体が、将軍家綱であることは、柳生、水野、井伊の三人しか知らぬことである。

 「上様と舘林様は親しい兄弟ゆえにな」

 宗春は苦しい言い訳をした。

 それから、宗春は思い出す。

 「御台所様か、大奥総取締・・・。おられるではないか、春日局殿のお孫様が」

 これから向かう小田原城主の稲葉正則は、大奥を作った春日局の孫である。

 「よいお考えでございます。稲葉様に早馬を出しましょう」

 伊賀の組頭が言った。

 何かあれば、使うようにと大老の酒井から稲葉宛の書状を持たされていた宗春は、組頭に渡す。老中首座の稲葉正則は、松平家忠一行が江戸を出立する前に、大老の酒井に小田原城への一時帰城を頼まれていた。

 小田原城には、帰城することもあるが、理由を告げられぬのは稲葉には不快であった。

 しかし、「稲葉殿。一週間で構いませぬ。どうか、伏して頼みまする」

 いつになく、低姿勢で頼む酒井の挙動を稲葉は、不審に思いつつも、上様に小田原に帰城する旨の挨拶に向かった。

 「そうか、稲葉は小田原に帰るのか。ありがとう」

 嬉しそうに稲葉に礼を言う上様の姿に理由を尋ねることも出来ず、

 「すぐに戻りますゆえ」

 と告げる。

 「すぐに余も稲葉に再会したい」

 まさか上様が、お忍びの旅で小田原城に向かうつもりだとも知らぬ稲葉は、感激した。

 「恐れ多いことでございます」

 小田原城には、老中の稲葉がいるのであるから、稲葉を頼れば良いと宗春は考えた。

 それを止めたのは、河村である。

 「宗春様、稲葉様にお伝えするのはいかがなものかと思いますが」

 「河村殿、何か不都合でもあるのですか」

 「舘林様が小田原に参られると聞けば、稲葉様はどうなさるでしょうか」

 「道中を小田原藩のもので厳重すぎるほどに警護するでしょうね」

 「それでは、舘林様が望まれる、お忍びの旅にはなりますまい」

 「わかりました。稲葉様には頼らず、舘林様にはお忍びの旅を堪能して頂きましょう」

 「剣客の御三方がおられます。脇本陣であれば、それほど危険もありますまい」

 水野達に先導され、家忠が戻ってくる足音が聞こえると、伊賀、甲賀の組頭は姿を消した。

 「宗春、良い湯であったぞ。お主も入ってくるがよい」

 家忠は、上機嫌であった。

 「ご老人も遠慮なく、旅籠に泊まっていかれよ」

 河村は、家忠に頭を下げる。

 明日は、保土ヶ谷宿まで進む予定である。

 河村が手配した駕籠のおかげで当初の日程通り、旅が進みそうであった。

 翌朝は、川崎宿を抜け、多摩川を渡り、家忠一行は駕籠を引き連れ、歩き旅を楽しんでいた。

 先行する伊賀組は、風体の良くない浪人達が、少女をかどわかそうとしているのを見つけた。

 「河村殿は策士だな」

 伊賀の組頭は、配下の与力に言った。

 今日は、河村が手配をした悪人が娘をかどわかす予定であった。

 「しかし、まだ、舘林様は一里前」

 薄汚れた着物の娘は十五歳くらいであろうか。浪人風の男達は三人である。

 河村は、江戸から駕籠かきに扮した用心棒を連れて来ていた。家忠の駕籠を担いでいるのは、河村が懇意にしている力自慢の者達である。

 「舘林様がお着きになられてから芝居をはじめては不自然であろう。江戸随一の材木商は考えることが違う」

組頭がそう言うのであればと、浪人達の芝居に、実に手が込んでいると伊賀組の者達も感心をしていた。

 少女が浪人達に捕まりそうになっているところに、呑気に家忠一行が歩いてくる。

 襲われている少女を見つけるとわざとらしく大きな声で、宗春が家忠に言った。

 「松平様、いたいけな少女が不逞の輩に襲われております」

 「宗春、助けてやれ」

 家忠の命を受けると、水野、井伊に家忠の警護を任せ、宗春が悪人のところに駆けつけていく。

 体力のない家忠も後から、宗春を追いかけていく。

 宗春は軽いみね打ちにしようと斬りかかるが、浪人達も刀を抜いた。

 宗春は、三人から殺気を感じると、無意識に叩きのめす。

 「大丈夫か」

 家忠は、そう言って少女に声をかけた。

 「これが大丈夫に見えるなら、あんたは相当、おめでたいね」

 宗春達は真っ青な顔で家忠と河村の顔を見る。

 本当の町娘なら、こうした話し方をするのだろうか。

 河村は、少女に話しかけた。

 「娘さんや、災難だったね。名前は何というのかな」

 「まる」

 「まるか」

 「どうして襲われていたのかな」

 「あんたに教える必要があるのかい」

 家忠は、まると名乗った少女の顔をじっと見つめる。

 「気持ち悪いね。人の顔をじろじろと見て」

 「いや、すまぬ。我らは保土ヶ谷まで行くのだが、道中が同じなら一緒に行かぬか」

 胡散臭そうに、まるは家忠の顔を見た。

 「あんたも人買いかい」

 「そう見えるか」

 まるは、上目遣いで家忠を見た。

 「十両くれたら、保土ヶ谷まで案内してやるよ」

 「では頼む」

 家忠は、宗春に十両という法外な金を支払わせた。

 「あんた、よほどの金持ちだね」

そう言って、まるは家忠の前を歩いていく。

 河村がそっと、宗春に耳打ちをする。

 「柳生様、あれは仕込みの女ではありませぬ」

 「なに」

 思わず声をあげた宗春を家忠が怪訝な顔で見た。

 「どうしたのだ。宗春」

 「いえ、申し訳ありません」

 伊賀組は、家忠一行の救出劇を見守ると先に進む。

 まるに先導された家忠一行の前に、娘と浪人風の男がいた。

 二十歳ぐらいの娘は、家忠一行が目の前を通り過ぎようとすると、

「きゃー」

とわざとらしく、あざとい悲鳴をあげる。

 ため息を深くついた河村が、大きな声で叫んだ。

 「娘さん、何もありませんな」

 河村に雇われ、江戸からやってきた役者達は、何かを察したのか、

 「虫がいましたの」

 そう言って、浪人達と足早に、去って行った。

 十両という法外な報酬で、無理やり家忠一行に着いてきた、まるの言葉遣いは乱暴である。

 だが、家忠はそんなまるが気に入ったらしく、楽しそうに歩いていく。

 まるは、人買いに売られて、逃げ出したところを人買いの用心棒に捕まりかけていたという。

 「親元に戻っても、また、売られるだけだよ」

 あっけらかんとした顔で、まるは家忠に言った。

 河村は、薄汚れた着物を身に付けている。だが、安い着物ではない。高価な着物を煤で汚したのだ。

 まるの着物は本当に汚い。

 途中で、家忠を駕籠に乗せながらも、一行が保土ヶ谷宿に着くと、伊賀組が、高木の名前で貸し切らせた脇本陣に向かった。

 まるは、家忠に懐いたのか脇本陣までついてきた。

 「まず、湯屋にいきなさい」

 河村は女中に、まるを湯屋に案内させる。

 まるは初めて、湯船に入った。

 「ぬか袋で、身体を洗うのだよ」

 河村に教えられたように、まるは身体を洗う。

 松平家忠と名乗ったお侍は、自分を抱くつもりであろうか。

だったら、人買いに買われたのと同じではないか。

 まるは、十五歳、結婚出来る年ではあるが、男に金で買われることには抵抗があった。

 だが、あのお侍は、まるの家族の一年分の生活費より多い、十両を躊躇うことなく渡した。女郎屋に売られるくらいなら、裕福な侍の妾にでもなった方が幸せかもしれない。

 まるがそんなことを考えながら、生まれて初めて入った大きな湯船から出る。まるの着物は片付けられ、代わりに綺麗な浴衣が置かれていた。

 「柔らかい」

 浴衣を触ったまるは思わず声をあげる。

 「絹かしら」

 まるの着物は着古した木綿である。絹というものがあると、村の物知りの老人から聞いたことがある。

 「それは、天女が着る柔らかく、軽い極上の着物でな」

 老人の言葉をまるは思い出す。

 「いよいよ、自分はあのお侍に抱かれるのだろうか」

 まるが女中に案内されて、部屋に戻ると家忠と宗春達が湯船に向かった。

 高価な着物をわざと汚した河村という目つきの鋭い老人は、見当たらない。

 なぜ、河村が着物を煤で汚しているのか、まるにはわからなかった。他人のことはどうでもよいと詮索するのをやめた。

 まるは、宿屋の部屋を観察する。庄屋様の屋敷より立派だ。まるは、人買いに売られる前に一度だけ、庄屋様の屋敷に両親に連れて行かれたことがある。まるの両親は、良い奉公先を紹介してくれるように庄屋様に頼んだが、庄屋様は困った顔で首を振るばかりだった。

 まるの住む村には、年に一度、人買いがやって来る。食うに困った家では、年頃の娘を人買いに売った。まるは、一両で売られた。両親は、一両を受け取ると何度も、何度も人買いに頭を下げて礼を言った。

 庄屋様より大きな屋敷に住んでいるのは、代官様だけである。もちろん、まるは代官の屋敷には行ったことがない。

 家忠達は、談笑しながら、風呂から戻って来た。

 「食事にしようか」

 家忠が、まるに話しかけると水野と名乗った不愛想な侍が、女中に声をかけた。

 一人の女中が膳に乗せられた食事を運んできた。

 白米が盛られた茶碗を触った家忠が言った。

 「この宿も飯が冷たいのだな。水戸殿は旅籠の飯は温かいと言っておったのだが」

 宗春は、家忠から目をそらして答える。

 「水戸様が泊まられた宿屋は、高級な旅籠なのでしょう」

 「そういうものか」

 膳には、まるが初めて見る。白米。魚、汁が配膳されている。

 「旨いか」

 家忠がまるに尋ねた。

 「冷たい汁だな」

 宗春の顔が鬼のような形相に変わった。

 貧しいまるの家でも、飯は雑穀と汁だけだが、汁は温い。

 「飯とは、まるが言うように温かいものなのか」

 まるの言葉を聞いた、家忠が宗春達を詰問する。

 家忠が食べる前に、複数の膳が作られ、伊賀組、甲賀組が毒見をしたものが運ばれている。上様のいつもの食事のように冷めているのは当たり前であった。

 「まるよ、飯とは温かいものなのか」

 家忠は、毒見を繰り返されたものを食べる。そのため、猫舌である。毒見抜きでも、冷まさなければ、家忠は食べられないのだ。

 宗春は、父、宗冬が、

 「上様はお身体は弱いが、勘は鋭い。暗君ではないのだ」

と宗春に忠告したのを思い出す。

 家忠は、剣の稽古は短時間で終わらせる。それでも、物心をついた時から、宗冬の剣術指南を受け続けていた。

 まるは、宗春達の事情は知らない。知らないが、勘は良い。

 「いろいろな食事があるんじゃないのか」

 まるがそう答えると家忠は黙った。宗春達は、まるのことを存外に、利発な娘だと感心した。

 食事が終わると、布団が運ばれてくる。

 「部屋は、二部屋ありますから」

 女中が襖をあけて、まるのために隣の部屋に布団を一つ、準備する。

 床の間のある部屋には、布団が三人分、敷かれていく。

 「では、明日」

 家忠は、まるに声をかけると襖を閉めた。

 まるは、部屋に一人きりになると外から人の話し声がする。宴会でもやっているような笑い声だが、不自然なぎこちなさがあった。

 伊賀組の組頭は、客として配下のものと家忠と同じ宿に宿泊していた。

 「旅籠の客のように宴会でもして騒がれると良いですよ」

 河村からそう助言を受けたが、上様の弟君である舘林宰相様の護衛に失敗すれば、伊賀組の棟梁であった服部家がお取りつぶしになったように、大半が旗本より身分が低い御家人の自分達は切腹か、打ち首であろう。陰鬱な気持ちになった。

 酒も舘林宰相様の毒見として、呑んだ。上等な酒であろうが味がしなかった。

 保土ヶ谷宿にも、川崎宿と同じように、大目付の高木配下の道中方が宿の警護に駆り出されていた。

 聡い奉行や代官の中には、御三家の道中警護より厳重な警護命令で、尊きお方の道中であろうと気づき始めている者もいた。

 とはいえ、自分達の仕事は、上から命じられたことを忠実にこなすだけである。

 道中方の自分達の仕事は、余計な詮索をすることなく、宿場や道中の取り締まりをいつも以上に厳しく行うだけで良いのだ。我が身可愛さ、そして、お家の存続のために保身に走ることが彼らの処世術であった。

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